6 / 7
ep.3 私と伊吹くんの昔話<前編>
1.
しおりを挟む
由比榛名が興津伊吹と出会ったのは大学1年生の時。2人とも静岡市にある国立大学の学生だった。
榛名の実家も同市内にあるのだが、少々通学に時間がかかるため、入学を機に、静岡駅近くの学生向けアパートを借りて1人暮らしをしていた。
伊吹とは学科は異なるが、選択科目が被っていることが多く、講義でよく姿を見かけた。
もっさりした少し癖のある黒髪に、黒縁メガネをかけて、ぶかぶかのトレーナーにデニムというのが伊吹の通学スタイルだった。
興津伊吹はいつも独りでいて、静かに本を読んでいた。
だが、大人しくても、独りでいても、遠巻きにされることはあれど、伊吹が周囲から揶揄されることは皆無だった。
なぜなら、伊吹にはどこか貫禄があり、気軽に話しかけてはいけないような、威厳のある空気が不思議と醸し出されていたからだ。
そんな堂々たる静寂を帯びた伊吹に対して、榛名はなぜか話しかけてみたいと思っていた。
不思議と気になる存在だった。
後から思うと、榛名は無意識の深い部分で、伊吹に惹かれていたのかもしれない。
だが、話しかける勇気がなかった。
そんな榛名に転機が訪れたのは1年生の秋。
静岡駅の近く、夫婦で切り盛りしている食堂でバイトを始めたことがきっかけだった。
バイトの初日、見覚えのある人物が働いていることに驚いた。
Tシャツにエプロンを巻いた姿で料理を運んでいるのは、例の興津伊吹だった。
「えっと、興津くん……だよね? 私は同じ大学の……」
「知ってるよ。由比榛名さんだよね。これからよろしく」
おそるおそる尋ねてみると、興津伊吹は淡々と挨拶をし、なぜか握手するための手を差し出してきた。
榛名もつい釣られて手を差し出し、なんだかよくわからないまま2人は握手をする。
少し骨ばってゴツゴツした、大きくて温かい手だった。
「えっ、私の名前、知ってたの?」
「店長から新しいバイトの子が入るからって名前だけ伝えられた」
「だよね……」
少しばかり期待していた自分の自意識過剰ぶりが恥ずかしくなり、カァッと顔が熱くなる。
「あっ、いや、由比さんのことは大学で認識していた。講義が結構被っているから、よく見かけるし」
「そうだったんだ」
存在を認知されていたことは嬉しいが、気を遣わせてしまったようだ。
喜んだり落ち込んだり、今日は気持ちが忙しい日だ。
◇
初めてのアルバイトは慣れない接客業だったが、伊吹の助けのおかげで何とか初日を乗り切ることができた。
「なんだかゴメンね……。余計な労力をかけさせちゃったよね」
バイト終わりの帰り道、榛名と伊吹は駅までの道を一緒に歩いていた。
榛名のアパートは駅から歩いて10分ほどの場所にあり、伊吹は電車で1駅先のところに住んでいると教えてくれた。
伊吹はいつもの仕事をこなしながら、榛名の教育係兼サポート役までこなしていた。
(バイト代は変わらないのに、彼の負担を増やしてしまった……)
初日から上手くできるとは思ってはいなかったものの、伊吹からしたら、逆に仕事が増えたと迷惑がられていないかと不安になる。
「大丈夫。由比さんはすごく頑張っていたし、きちんとしてるから、すごく助かる。これからよろしく」
「興津くん……」
しかし、思いもよらぬことに、伊吹からは温かいお褒めの言葉をもらい、胸がジーンと温かくなる。
伊吹のもさっとした前髪と黒縁メガネの間から、朗らかな笑顔がのぞき、思わずキュンとしてしまう。
バイトのシフトは、榛名はひとまず週3日だが、伊吹はほとんど毎日シフトに入っていることを、帰り道の会話の中で知った。
榛名の実家も同市内にあるのだが、少々通学に時間がかかるため、入学を機に、静岡駅近くの学生向けアパートを借りて1人暮らしをしていた。
伊吹とは学科は異なるが、選択科目が被っていることが多く、講義でよく姿を見かけた。
もっさりした少し癖のある黒髪に、黒縁メガネをかけて、ぶかぶかのトレーナーにデニムというのが伊吹の通学スタイルだった。
興津伊吹はいつも独りでいて、静かに本を読んでいた。
だが、大人しくても、独りでいても、遠巻きにされることはあれど、伊吹が周囲から揶揄されることは皆無だった。
なぜなら、伊吹にはどこか貫禄があり、気軽に話しかけてはいけないような、威厳のある空気が不思議と醸し出されていたからだ。
そんな堂々たる静寂を帯びた伊吹に対して、榛名はなぜか話しかけてみたいと思っていた。
不思議と気になる存在だった。
後から思うと、榛名は無意識の深い部分で、伊吹に惹かれていたのかもしれない。
だが、話しかける勇気がなかった。
そんな榛名に転機が訪れたのは1年生の秋。
静岡駅の近く、夫婦で切り盛りしている食堂でバイトを始めたことがきっかけだった。
バイトの初日、見覚えのある人物が働いていることに驚いた。
Tシャツにエプロンを巻いた姿で料理を運んでいるのは、例の興津伊吹だった。
「えっと、興津くん……だよね? 私は同じ大学の……」
「知ってるよ。由比榛名さんだよね。これからよろしく」
おそるおそる尋ねてみると、興津伊吹は淡々と挨拶をし、なぜか握手するための手を差し出してきた。
榛名もつい釣られて手を差し出し、なんだかよくわからないまま2人は握手をする。
少し骨ばってゴツゴツした、大きくて温かい手だった。
「えっ、私の名前、知ってたの?」
「店長から新しいバイトの子が入るからって名前だけ伝えられた」
「だよね……」
少しばかり期待していた自分の自意識過剰ぶりが恥ずかしくなり、カァッと顔が熱くなる。
「あっ、いや、由比さんのことは大学で認識していた。講義が結構被っているから、よく見かけるし」
「そうだったんだ」
存在を認知されていたことは嬉しいが、気を遣わせてしまったようだ。
喜んだり落ち込んだり、今日は気持ちが忙しい日だ。
◇
初めてのアルバイトは慣れない接客業だったが、伊吹の助けのおかげで何とか初日を乗り切ることができた。
「なんだかゴメンね……。余計な労力をかけさせちゃったよね」
バイト終わりの帰り道、榛名と伊吹は駅までの道を一緒に歩いていた。
榛名のアパートは駅から歩いて10分ほどの場所にあり、伊吹は電車で1駅先のところに住んでいると教えてくれた。
伊吹はいつもの仕事をこなしながら、榛名の教育係兼サポート役までこなしていた。
(バイト代は変わらないのに、彼の負担を増やしてしまった……)
初日から上手くできるとは思ってはいなかったものの、伊吹からしたら、逆に仕事が増えたと迷惑がられていないかと不安になる。
「大丈夫。由比さんはすごく頑張っていたし、きちんとしてるから、すごく助かる。これからよろしく」
「興津くん……」
しかし、思いもよらぬことに、伊吹からは温かいお褒めの言葉をもらい、胸がジーンと温かくなる。
伊吹のもさっとした前髪と黒縁メガネの間から、朗らかな笑顔がのぞき、思わずキュンとしてしまう。
バイトのシフトは、榛名はひとまず週3日だが、伊吹はほとんど毎日シフトに入っていることを、帰り道の会話の中で知った。
0
あなたにおすすめの小説
15歳差の御曹司に甘やかされています〜助けたはずがなぜか溺愛対象に〜 【完結】
日下奈緒
恋愛
雨の日の交差点。
車に轢かれそうになったスーツ姿の男性を、とっさに庇った大学生のひより。
そのまま病院へ運ばれ、しばらくの入院生活に。
目を覚ました彼女のもとに毎日現れたのは、助けたあの男性――そして、大手企業の御曹司・一ノ瀬玲央だった。
「俺にできることがあるなら、なんでもする」
花や差し入れを持って通い詰める彼に、戸惑いながらも心が惹かれていくひより。
けれど、退院の日に告げられたのは、彼のひとことだった。
「君、大学生だったんだ。……困ったな」
15歳という年の差、立場の違い、過去の恋。
簡単に踏み出せない距離があるのに、気づけばお互いを想う気持ちは止められなくなっていた――
「それでも俺は、君が欲しい」
助けたはずの御曹司から、溺れるほどに甘やかされる毎日が始まる。
これは、15歳差から始まる、不器用でまっすぐな恋の物語。
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
なぜ私?スパダリCEOに捕獲され推しの秘書になりました
あいすらん
恋愛
落ち込んでいた私が見つけた最高の趣味。
それは完璧スパダリCEOの「声」を集めること。
動画サイトで最高のイケボを見つけた私、倉田ひかりは、声を録音するためだけに烏丸商事の会社説明会へ。
失業中の元ピアノ講師には、お金のかからない最高のレクリエーションだったのに。
「君、採用」
え、なんで!?
そんなつもりじゃなかったと逃げ出したのに、運命は再び私と彼を引き合わせる。
気づけば私は、推しの秘書に。
時短の鬼CEO×寄り道大好き迷子女。
正反対な2人が繰り広げる、イケボに溺れるドタバタラブコメ!
推しを愛でるモブに徹しようと思ったのに、M属性の推し課長が私に迫ってくるんです!
寺原しんまる
恋愛
成人してから母親の影響でBLに目覚めた西浦瑠璃子。そんな時、勤務先の東京本社に浮田卓課長が大阪支社から移動してくる。浮田課長は流行のイケオジで、自分のBL推しキャラクター(生もの)にそっくりだった。瑠璃子はBL世界のモブに徹しようと、課長に纏わり付く女子社員を蹴散らしていくのだが、どうやら浮田課長はその男前な性格の瑠璃子にある秘めた感情を寄せていく。
浮田課長はSMのM属性。理想の女王様を探していた。そんな時に部下である瑠璃子の物事をハッキリ言う性格に惹かれ、尚且つヒーロー的に自分を助けてくれる瑠璃子に理想の女王様像を重ねていく。
そんなチグハグな思いを内に秘めた二人が繰り広げる、どこかすれ違っているお話。
この作品はムーンライトノベルズ、魔法のIらんどにも掲載しています。
~ベリーズカフェさんに載せているものを大幅改稿して投稿しています~
再会した御曹司は 最愛の秘書を独占溺愛する
猫とろ
恋愛
あらすじ
青樹紗凪(あおきさな)二十五歳。大手美容院『akai』クリニックの秘書という仕事にやりがいを感じていたが、赤井社長から大人の関係を求められて紗凪は断る。
しかしあらぬ噂を立てられ『akai』を退社。
次の仕事を探すものの、うまく行かず悩む日々。
そんなとき。知り合いのお爺さんから秘書の仕事を紹介され、二つ返事で飛びつく紗凪。
その仕事場なんと大手老舗化粧品会社『キセイ堂』 しかもかつて紗凪の同級生で、罰ゲームで告白してきた黄瀬薫(きせかおる)がいた。
しかも黄瀬薫は若き社長になっており、その黄瀬社長の秘書に紗凪は再就職することになった。
お互いの過去は触れず、ビジネスライクに勤める紗凪だが、黄瀬社長は紗凪を忘れてないようで!?
社長×秘書×お仕事も頑張る✨
溺愛じれじれ物語りです!
【完結】エリート産業医はウブな彼女を溺愛する。
花澤凛
恋愛
第17回 恋愛小説大賞 奨励賞受賞
皆さまのおかげで賞をいただくことになりました。
ありがとうございます。
今好きな人がいます。
相手は殿上人の千秋柾哉先生。
仕事上の関係で気まずくなるぐらいなら眺めているままでよかった。
それなのに千秋先生からまさかの告白…?!
「俺と付き合ってくれませんか」
どうしよう。うそ。え?本当に?
「結構はじめから可愛いなあって思ってた」
「なんとか自分のものにできないかなって」
「果穂。名前で呼んで」
「今日から俺のもの、ね?」
福原果穂26歳:OL:人事労務部
×
千秋柾哉33歳:産業医(名門外科医家系御曹司出身)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる