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四皿目 どら焼きと離婚寸前の夫婦
その17 鬼之丞の涙は幸せ色
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その日の夕方、定休日の『甘味堂夕さり』に菜々美と蘭丸が戻ると、咲人が和菓子を作って待っていた。
「ご苦労だったな、二人とも。鬼之丞と食べようと思って『あんみつ』を作ったところだ」
寒天、粒餡、求肥のそれぞれの食感が混ざり合い、トッピングや蜜をアレンジして楽しめる夏の風物詩というべき和菓子だ。
目にも涼しげな硝子の器に、あんみつをたっぷりとよそう咲人が、静かに問う。
「どうやら、マリナのところは、うまくいったようだな」
頷いた菜々美と蘭丸が、互いを想う気持ちですれ違っていた夫婦が、ようやく素直に気持ちを吐露したことを話すと、咲人は温かな微笑を浮かべた。
「鬼之丞と、お別れだな」
クッションをベッドにしてすやすやと眠っている鬼之丞を、菜々美も蘭丸も咲人も無言で見つめる。
胸の中に鬼之丞との楽しかった思い出が去来し、込み上げてくる感情を抑えようとした瞬間、ガラガラと扉が引かれ、鬼一郎とマリナ夫妻が姿を現した。
二人は店内に入り、深々と頭を下げる。
「妻と息子がお世話になりました。その……息子を預かってくださり……いろいろ迷惑をかけてしまって……」
「いいえ」
厨房を出た咲人が、すっと左手を差し出すと、鬼一郎はぴくりと肩を揺らした。
「どうぞ、お幸せに」
「はい……」
鬼一郎は唇を噛みしめ、恐ろしいほど秀麗な咲人の顔を見つめながら、その手を握り返す。
「――鬼之丞、ご両親が迎えに来ている。起きろ」
咲人が鬼之丞に声をかけると、じきに目を擦って小さな体がもぞもぞと動いた。
「う……、パパ、ばんごはん? あっ、かーちゃ、とーちゃ!!」
「鬼之丞!」
「うわあぁぁぁんっ」
目から涙の雫をこぼしながら、鬼之丞は両親のほうへ走りだした。
「ごめんな、鬼之丞。父ちゃんが悪かった」
「とーちゃ! あああぁぁん、かーちゃ、わああぁぁん」
鬼一郎とマリナはかわるがわる鬼之丞を抱きしめる。落ち着いた頃に、菜々美が声をかけた。
「鬼之丞ちゃん、鬼一郎さんとマリナさんも、あんみつができました。よかったらどうぞ」
「ひっく、ひっく、わぁ……ボク、あんみつ、大しゅき」
甘いものが大好きな鬼之丞が、泣きはらした目を擦り、ぱあっ顔を輝かせた。
目元を優しくゆるめた咲人が、ぷるるんとした寒天ともちっとした求肥、小豆の風味たっぷりの粒餡に、つるりとした白玉と葡萄を加え、黒砂糖と水飴を煮詰めた黒蜜を添えて出す。
「たべるー。いたらきましゅ」
ちょこんと両親の間に座り、鬼之丞があむあむとあんみつを頬張っている。
菜々美も美味しくいただく。見た目も華やかで喉越しがよく、甘い黒蜜をたっぷりかけても、あっさりした味わいでいくらでも入りそうだ。
「ななたん、おわかれ、さみしい」
食べ終わった鬼之丞が、菜々美の前にちょこんと立つ。つぶらな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「いつでも遊びに来てね、鬼之丞ちゃん……ずっと大好きよ」
「あい、ななたん。蘭たんも、おわかれ」
「うん……僕も寂しいよ」
蘭丸の声が上ずっている。
気がつくと、菜々美の頬も涙が伝い落ちていた。
ぷっくりした頬をくしゃっと歪めて、鬼之丞がぽろぽろと涙をこぼす。
「うぅ……、みんなとおわかれ、さみちい……っ。うわあぁぁん」
全身をぷるぷる震わせて泣く鬼之丞の小さな背中を、咲人が優しく撫でた。
「鬼之丞、お前の来店をずっと待っている。ここはお前の、第二の我が家だ」
「パ、パパ……、わあぁぁん、パパー、パパ……」
咲人に抱きついて、パパ、パパと泣きじゃくる鬼之丞に、鬼一郎があわてた。
「ちょ、ちょっと待てくれ。鬼之丞、パパはここにいるだろう?」
「え、とーちゃはとーちゃで、パパはパパだもん」
きょとんとしてそう答える鬼之丞に、鬼一郎は必死に「パパはダメだっ」と言い募る。
傲慢な態度を取りがちな鬼一郎だが、その下に隠された子供のような不器用さを知った妻は、落ち着いて微笑みを浮かべている。
「咲人くん、本当にありがとう。菜々美さんと蘭丸くんも、お世話になりました」
マリナが挨拶すると、鬼一郎が改めて妻の方へ顔を向けた。
「小さな風呂では、ゆっくり眠れないだろうが、水槽が出来上がるまで、もう少し我慢してくれ」
「あなたと鬼之丞がいれば、あたしは大丈夫です」
仲睦まじい夫婦の様子に、菜々美たちも安堵する。
「それでは、また来ます」
「ななたん……蘭たん……パパ……!」
「パパはダメだろう?」
「いいもん……うぅ……さよなら」
鬼之丞の目からぽたぽたと涙がこぼれ落ち、小さな両手を懸命に振っている。
深々とお辞儀をして、鬼之丞を抱いた鬼一郎とマリナが店を出て行った。
「よかったですね。鬼之丞ちゃん……」
茜色の空の下、淡い光に包まれた幸せそうな家族の様子を、皆で見送る。
「そうだな。本当によかった」
咲人と蘭丸も窓の外を見つめる。
もう少しすると藍色に塗り替える空を見上げて、鬼之丞とマリナと鬼一郎夫婦がこれから先もずっと、仲良く暮らせることを祈った。
こうして『甘味堂夕さり』の定休日は、幸せな気持ちに包まれて、過ぎていったのだった。
「ご苦労だったな、二人とも。鬼之丞と食べようと思って『あんみつ』を作ったところだ」
寒天、粒餡、求肥のそれぞれの食感が混ざり合い、トッピングや蜜をアレンジして楽しめる夏の風物詩というべき和菓子だ。
目にも涼しげな硝子の器に、あんみつをたっぷりとよそう咲人が、静かに問う。
「どうやら、マリナのところは、うまくいったようだな」
頷いた菜々美と蘭丸が、互いを想う気持ちですれ違っていた夫婦が、ようやく素直に気持ちを吐露したことを話すと、咲人は温かな微笑を浮かべた。
「鬼之丞と、お別れだな」
クッションをベッドにしてすやすやと眠っている鬼之丞を、菜々美も蘭丸も咲人も無言で見つめる。
胸の中に鬼之丞との楽しかった思い出が去来し、込み上げてくる感情を抑えようとした瞬間、ガラガラと扉が引かれ、鬼一郎とマリナ夫妻が姿を現した。
二人は店内に入り、深々と頭を下げる。
「妻と息子がお世話になりました。その……息子を預かってくださり……いろいろ迷惑をかけてしまって……」
「いいえ」
厨房を出た咲人が、すっと左手を差し出すと、鬼一郎はぴくりと肩を揺らした。
「どうぞ、お幸せに」
「はい……」
鬼一郎は唇を噛みしめ、恐ろしいほど秀麗な咲人の顔を見つめながら、その手を握り返す。
「――鬼之丞、ご両親が迎えに来ている。起きろ」
咲人が鬼之丞に声をかけると、じきに目を擦って小さな体がもぞもぞと動いた。
「う……、パパ、ばんごはん? あっ、かーちゃ、とーちゃ!!」
「鬼之丞!」
「うわあぁぁぁんっ」
目から涙の雫をこぼしながら、鬼之丞は両親のほうへ走りだした。
「ごめんな、鬼之丞。父ちゃんが悪かった」
「とーちゃ! あああぁぁん、かーちゃ、わああぁぁん」
鬼一郎とマリナはかわるがわる鬼之丞を抱きしめる。落ち着いた頃に、菜々美が声をかけた。
「鬼之丞ちゃん、鬼一郎さんとマリナさんも、あんみつができました。よかったらどうぞ」
「ひっく、ひっく、わぁ……ボク、あんみつ、大しゅき」
甘いものが大好きな鬼之丞が、泣きはらした目を擦り、ぱあっ顔を輝かせた。
目元を優しくゆるめた咲人が、ぷるるんとした寒天ともちっとした求肥、小豆の風味たっぷりの粒餡に、つるりとした白玉と葡萄を加え、黒砂糖と水飴を煮詰めた黒蜜を添えて出す。
「たべるー。いたらきましゅ」
ちょこんと両親の間に座り、鬼之丞があむあむとあんみつを頬張っている。
菜々美も美味しくいただく。見た目も華やかで喉越しがよく、甘い黒蜜をたっぷりかけても、あっさりした味わいでいくらでも入りそうだ。
「ななたん、おわかれ、さみしい」
食べ終わった鬼之丞が、菜々美の前にちょこんと立つ。つぶらな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「いつでも遊びに来てね、鬼之丞ちゃん……ずっと大好きよ」
「あい、ななたん。蘭たんも、おわかれ」
「うん……僕も寂しいよ」
蘭丸の声が上ずっている。
気がつくと、菜々美の頬も涙が伝い落ちていた。
ぷっくりした頬をくしゃっと歪めて、鬼之丞がぽろぽろと涙をこぼす。
「うぅ……、みんなとおわかれ、さみちい……っ。うわあぁぁん」
全身をぷるぷる震わせて泣く鬼之丞の小さな背中を、咲人が優しく撫でた。
「鬼之丞、お前の来店をずっと待っている。ここはお前の、第二の我が家だ」
「パ、パパ……、わあぁぁん、パパー、パパ……」
咲人に抱きついて、パパ、パパと泣きじゃくる鬼之丞に、鬼一郎があわてた。
「ちょ、ちょっと待てくれ。鬼之丞、パパはここにいるだろう?」
「え、とーちゃはとーちゃで、パパはパパだもん」
きょとんとしてそう答える鬼之丞に、鬼一郎は必死に「パパはダメだっ」と言い募る。
傲慢な態度を取りがちな鬼一郎だが、その下に隠された子供のような不器用さを知った妻は、落ち着いて微笑みを浮かべている。
「咲人くん、本当にありがとう。菜々美さんと蘭丸くんも、お世話になりました」
マリナが挨拶すると、鬼一郎が改めて妻の方へ顔を向けた。
「小さな風呂では、ゆっくり眠れないだろうが、水槽が出来上がるまで、もう少し我慢してくれ」
「あなたと鬼之丞がいれば、あたしは大丈夫です」
仲睦まじい夫婦の様子に、菜々美たちも安堵する。
「それでは、また来ます」
「ななたん……蘭たん……パパ……!」
「パパはダメだろう?」
「いいもん……うぅ……さよなら」
鬼之丞の目からぽたぽたと涙がこぼれ落ち、小さな両手を懸命に振っている。
深々とお辞儀をして、鬼之丞を抱いた鬼一郎とマリナが店を出て行った。
「よかったですね。鬼之丞ちゃん……」
茜色の空の下、淡い光に包まれた幸せそうな家族の様子を、皆で見送る。
「そうだな。本当によかった」
咲人と蘭丸も窓の外を見つめる。
もう少しすると藍色に塗り替える空を見上げて、鬼之丞とマリナと鬼一郎夫婦がこれから先もずっと、仲良く暮らせることを祈った。
こうして『甘味堂夕さり』の定休日は、幸せな気持ちに包まれて、過ぎていったのだった。
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