【完結】初恋は檸檬の味 ―後輩と臆病な僕の、恋の記録―

夢鴉

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四章 残された時間

五十七話 頑張ってと、激励を ※甘利視点有

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 今日は大学入試の試験日だ。
 起きた時から、どこか緊張した糸が自分の中で張りつめているのを感じる。

 鈍い自分でもわかる。今日が人生の分かれ道であることを。

「頑張ってね、春」
「うんー」
「何かあったらちゃんと連絡するのよ」
「わかってるって」

「受験番号は?」「鉛筆はちゃんと入ってる?」「時計はちゃんとつけた?」と矢継ぎ早に母さんが聞いてくる。

「だああっ! もう! 全部さっき確認した! 入ってる!」
「そう。お財布とか定期とか、なくさないようにね?」
「わかってる!」
「あと、靴は右足から履くのよ。緊張したら大きく深呼吸をして、それから――」
「なんで母さんの方が緊張してんだよ!?」
「だって仕方ないじゃない! 初めてだもの!

 母さんが慌てた顔で言う。「まあまあ。二人とも一旦落ち着いて」と父さんの穏やかな声が聞こえた。

「春と母さんは本当に似ているなぁ。でも、春は大丈夫だよ。写真の選考は通ったんだろう?」
「ん……まあ、一応」
「なら、大丈夫だ」

 父さんの真っすぐな笑顔に、俺は安堵する。どうやら俺も、知らないうちに緊張していたらしい。
「そうね」と呟いた母さんは、俺を見た。

「頑張ってらっしゃい」
「うん。ありがとう」

 俺は素直に頷き、朝食を食べた。
 緊張で味がしなかったけど、腹が満たされたことで少しだけ気持ちが安定するのを感じる。


 鞄を持ち、俺は学生服の上からコートを羽織る。ダークブラウン色のコートは、初詣後に父さんがくれたものだ。
「試験には一緒に行けないけど、頑張って」と渡されたコートは、暖かい。

 ふと、机の上に置きっぱなしになっているマフラーを見る。
 初詣の時、甘利に返し忘れて持って帰って来てしまったものだ。あの後慌てて甘利に連絡をしたら、甘利も忘れていたらしい。
 すぐに返しに行くと言ったのだが、甘利曰くその後は用事があるそうで。結局俺の試験が終わってから返す、と言うことになったのだ。

 俺は自分のベージュのマフラーと、甘利のカーキー色のマフラーを見比べる。両方に手を置き、俺は逡巡した。
(……今日くらい、いいか)
 ちょっと色がうるさいかもしれないけど、きっと誰も見てない。
 俺はカーキーのマフラーを手に取り、首に巻き付けた。ふわりと甘利の匂いがして、少しだけ気恥ずかしくなる。
 けれど、それ以上に温かい気持ちでいっぱいだった。


「……よし」


 俺は部屋の戸を開ける。出る間際に見えた飴を手に取り、俺はポケットに突っ込んだ。
 黄色の宝石のような飴に、少しだけ気分が高鳴るのを感じる。

 母さんに言われた通り靴を右足から履いて、財布と定期券を失くさないように鞄に入れる。受験票を再度確認して、俺は顔を上げた。

「行ってきます!」






 朝から心臓がどきどきしている。
 まるで試合の前のような緊張感が、全身を駆け巡って行く。俺は両手を組んで、机の上に肘から付いていた。

「え、何? お祈りでもしてるの?」
「うるさい百瀬」
「わあ。お祈りしてるくせにお口わるーい」

 あはははと能天気に笑う百瀬。しかし、俺はそれどころじゃない。
(先輩、大丈夫だろうか)
 一月十四日。
 今日は大学の共通テストの日。つまり、先輩の進退を決める戦いの日でもある。
(って、俺が緊張しても仕方ねーんだけど)

「まあでも、緊張する気持ちはわかるよー? 大事な大事な春ちゃん先輩の受験だもんね」
「……」
「俺も秋ちゃん先輩がちゃんと問題用紙解けるか心配だもん」

「名前書き忘れてないかとかー、解答欄ずらして書いちゃったりしてないかとかさ」と言う百瀬。明確に口にされたことで生々しさを感じ、俺は大きく項垂れた。
(やっぱり、そういうことあるんだよな)
 春先輩は大丈夫だと信じているが、何が起こるかわからないのが本番というもので。

「心配なら連絡くらいすれば?」
「は?」
「がんばってーって」

「ほら、いつもならやってるでしょ?」と言われ、俺は気まずさに視線を逸らす。
 “いつもなら”の言葉がこれだけ重く感じるのは、今の状況が状況だからだろう。

「……せっかく集中してるかもしれないだろ。崩したくない」
「へぇー?」
「なんだよ」
「いやぁ? フられたら急に大人しいなって」
「!」

 ガタンと椅子を跳ね上げて立ち上がる。
 クラス中の視線が突き刺さるが、俺には関係がなかった。

「百瀬」
「ハイハイ。ごめんなさいねー」

 両手を上げ、降参のポーズをする。
 そんな百瀬に、甘利は立ち上がった腰を下ろした。百瀬は俺が座ったのを見て、ニヤニヤと笑みを浮かべる。

「でもさぁ、真面目に連絡くらいしてみたら?」
「だからッ――」
「そんなことで邪魔だと思う春ちゃん先輩じゃないって、お前が一番知ってんじゃん」

 百瀬の言葉に、俺は口を引き結ぶ。
(それは、そうだけど)
 だからと言ってフられた人間がいつまで経っても先輩に付いて回っていたら、良くないだろう。

「……うるさい。お前には関係ないだろ」
「関係はないけど、面白そうじゃん?」
「お前……ッ」
「それに、どうせ諦めきれてないんでしょ?」

 図星だった。
 俺は気まずさに視線を逸らす。どうしようもなく先輩を想う気持ちは、ずっとあった。
 心の奥で燻る想いは、朝起きてから寝ている間まで存在を主張し続けている。
(フられてもまだ好きだなんて、春先輩からすれば大迷惑だろ)

「連絡くらい大丈夫だって。この前神社で会った時は二人とも普通にしてたみたいだし?」
「なんでそれ知ってる」
「四組の女の子たちから聞いたっ」

 えへ、とかわい子ぶって返される言葉に、俺は心底嫌な気分になった。
(これだから……)
 誰かに見られて恥ずかしいとか、そんなんじゃない。でも、出来ればあの時間は先輩と自分、二人だけの秘密にしておきたかった。冬香ちゃんは別として。

 あんなにオフの先輩を見られたことは、今でも貴重だと思っている。
 妹への深い愛情は心底羨ましかったが、その時の先輩の幸せそうな顔は世界が保護していいレベルだと思う。いや、保護するのは俺が良いけど。

「顔緩んでるよー」と百瀬の指先が頬を突っつく。「ウザい」と手を払えば「ひどいなぁ」と笑われた。

「まあでも、負担になりたくない気持ちはわからなくもないよ。どうやったって俺たちって年下だし、後輩だもんねぇ。頼られたいとか言っても本気にしてくれないし」
「……それは、木葉先輩のことか?」
「春ちゃん先輩にも当てはまるでしょ?」

 俺は黙り込む。
 沈黙は肯定だった。


 授業の鐘が鳴る。
 春先輩に言われてから寝ないようにしているお陰で、最近はテストの点数も、先生からの評価もいい感じだ。
「いやぁ、一時期はどうなるかと思ったけど、良い飼い主が現れてくれてよかった」とは、東崎先生の言葉だ。
(先輩を飼い主呼ばわり……)
 最初はムッときたが、何でもない先輩後輩よりはいいのかな、と思う。

「よーし、席つけ―」

 東崎先生の声が聞こえる。
 俺はそれを流し聞きながら、ぼうっと空を見ていた。

(頑張ってください、先輩)
 連絡は迷惑になるかもしれないけれど、念なら大丈夫だろう。
 俺は両手を握り、何度も先輩にエールを送った。送り過ぎて近づいて来る東崎先生に気付かなかったくらいだ。

「こら。呪いを飛ばすな」
「念です」
「しつこい念は呪いだ」

 はあ、と呆れた顔をされる。「まあ、そんなことだろうと思ったけどな」と東崎先生。

「蒼井が心配なのはわかるが、お前も留年しないようにテスト、頑張れよ」
「うっ」
「いくら推薦をもらっても、学力で留年はあり得るからな」

 東崎先生は綺麗に釘を刺していくと、教壇へと戻って行く。
 俺はその背中を見つめつつ、仕方ないとノートを広げた。ペンケースからシャーペンを取り出し、八割先輩に思考を割いたまま、俺は授業に取り組んだ。



 いろいろ考え、考え抜いた結果。
 俺は放課後にちょっと会うくらいならいいんじゃないか、と気が付く。
 試験が終わった三年生は、試験の終わりを先生に連絡する必要があるらしい。その時、学校に来る生徒も多いらしく、運よくそこで会えるのではないかと思ったのだ。
(天才か、俺?)
 連絡をするよりもハードなことをしようとしている自覚は、その時の俺にはなかった。


 疎らな三年生らしき人達の姿を何人も見送り、俺は寒さに凍える指先に息を吹きかける。
 先輩を待って、三十分程度。
 部活のない時間はやっぱり暇だと思う。

 俺は空を見上げ、息を吐き出した。白い息が空気に紛れて溶けていく。
 まだ夕方前なのに、陽射しは既に落ち込み始めている。空のオレンジ色は綺麗だったけれど、どこか寂しさを孕んでいた。それよりはすっとした青空の方が好きだな、と思う。

「甘利?」
「!」

 ふと、鼓膜を揺らす声音。
 俺はゆっくりと首を戻し、声がした方を見た。

「……春先輩」

 そこには、制服姿にダークブラウンのコートを羽織り、カーキー色のマフラーをした先輩が立っていた。
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