逃げた先に、運命

夢鴉

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一章 歪な世界

3-2 遠くに行ってしまいそうで

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「換気している間に風呂に入ってくるか」

 階段を下り、言われた通り階段の先――奥にある扉を開ける。
 先には脱衣所が広がっていた。
 左手には洗濯機が置かれており、右手には浴室の扉がある。

 浴室を覗けば、やはり綺麗にされていた。
 蛇口をひねれば、透明な水。
 最初は冷たかった水がだんだんと温まっていくのを見て、安堵した。どうやら問題なく入れそうだ。



「服は……洗濯しておいた方がいいよな」

 洗濯機を覗き込めば、綺麗な銀色の中身が見える。
 上の棚には“洗剤”と書かれたボトルがあった。
 手に取り、俺はフリーズする。

「……液体?」

 液体洗剤って、なんだ。どうやって使うんだ。

 家ではいつもポンと投げ入れるタイプしか使ったことがない。
 これも中にそれが入ってると思ったのに、液体だなんてどうすればいいんだ。

 そもそも、この洗濯機だって初めて見る形だ。
 最新型……じゃないな。ひと世代前の奴か。

(洗濯機って、みんなあの丸いやつだと思ってた)

 蓋が開いていたから、取り出し口はわかったけど、蓋ってどうなってるんだ。
 スイッチは? 洗剤はそのまま入れていいのか?

「わ、わからない……」

 俺は困惑する。



「何してるの?」
「!!」

 立ち尽くしていると、突然声をかけられた。
 洗濯機にぶつかり、ガタンと音を立てた。
(び、びっくりした)

「なっ、みつ、蜜希さっ、いつからそこに……っ!?」
「ちょうど今来たばっかりだよ。入って来てすぐに真っ裸で仁王立ちしてる暁月くんを見つけて声をかけたんだけど」
「まっ、!」

(そうだった! 俺、今服着てない!)
 ブワッと顔が熱くなる。
 さすがに初対面の人間に裸を見られて平気でいられるほど、俺の神経は図太くない。
 
 さっと前を隠せば、蜜希さんは目を見開いた。
 パチパチと瞬きをして――ふはっと吹き出す。

「ふ、ふふふふっ……ご、ごめん。まさかそんな反応されるとは思ってなくてっ」
「い、いえっ」
「ていうか、今更隠さなくてもいいよ。さっき見ちゃったし」

 「立派なやつ」と言われ、俺は羞恥に顔が熱くなる。
(見られてた……!)

 蜜希さんのフォローが逆に痛い。
 恥ずかしさに俺は俯いた。


「別にそんなに気にしなくていいのに」
「ふ、普通は気にするものでしょっ! ていうか、気にしない方がおかしいです!」
「そう? アルファの人って自信満々な人多いから、むしろ見せつけたい人の方が多いんだと思ってた」
「……え?」


 俺は顔を上げる。
 一瞬聞き間違えたかと思ったが、どうやら聞き間違いではなかったらしい。

「あれ? 違った?」と言う蜜希さん。喉の奥がひゅっと音を立てる。

(なん、で)
 いつから? 蜜希さんはどこで俺がアルファだって気づいたんだ?

 蜜希さんは首を傾げ、「どうしたの?」と問いかけて来る。

 指の先が冷たくなっていく。喉の奥が緊張に張り付く。


「な、んで、俺がアルファだって……」
「そんなの、見ればわかるよ」


 ――見れば。
 その言葉に、俺は愕然とした。

(……そうか、見ればわかってしまうのか)
 大きなショックが圧し掛かる。
 心臓が嫌な音を立てた。

「そう、ですか」
「うん」

「あ、はいこれ。君の服ね」と蜜希さんが服を差し出してくる。
 俺は無言でそれを受け取る。

 アルファであることを知られることが、こんなに自分にとってショックだとは思わなかった。



「それで? 暁月くんは何をしてたの?」
「えっ? ……あ、こ、これ。洗濯機のやり方がわからなくて」
「ん? ああ、もしかしてこのタイプ見たことなかった?」

 何でもないように話をし始める蜜希さん。
 ぎこちなく頷けば「そっか。じゃあ教えるね」と脱衣所に入って来た。

 ――アルファがいる、脱衣所に。


「ここが洗剤を入れるところ。こっちが柔軟剤ね。柔軟剤はないから洗剤だけになるけど、今回は許して」
「あぁ、はい。それは全然……」
「そう? よかった」

「それで蓋は、ちょっと上に持ち上げるようにして、手前に引くんだよ」と言われ、俺は言われた通りに動かす。
 洗濯機は軽い音を立てて、蓋が閉まった。

「後はこの順番でボタンを押して……」

 蜜希さんがボタンを押していく。
 その指先を見つめる。
 さっきのショックでそれどころかじゃないのに覚えようとしている自分が、何だかおかしく思える。


 動き出す洗濯機。
 蜜希さんは「はいこれでおっけー」と手を叩いた。

「あ。乾燥機能は付いてないから、明日干してね」
「は、はい。ありがとう、ございます……」
「いえいえー」

「あ、タオルも持ってきたから使って」と先ほどの服の山を指差す。
 確認をすれば、確かにタオルも入っていた。
 俺はお礼を告げる。蜜希さんは「それじゃあ、ごゆっくり」と言って脱衣所を出て行った。

(……何事もなかったみたいだ)
 俺は呆気に取られてしまう。
 予想していた反応じゃなかったことに、頭がまだついてこない。


 俺は茫然としながら、とりあえずシャワーを浴びることにした。




 蜜希さんは旅館のアニメティも持って来てくれたらしい。
 使いきりのシャンプーやリンスに感謝しながら、シャワーを浴びる。

 浴室を出て、脱衣所で体を拭き――――俺はようやく状況に理解が追い付いて来た。

(俺がアルファだってことは、蜜希さんにはとっくにバレてたんだな)

 別に隠していることじゃないけど、突然言われたから驚いたんだ。
 出来れば、そういうのとは無縁で居たいと思っていたのもあるけど。

(となると、蜜希さんは俺の正体をわかってて、泊めるなんて言ったんだろうか)

 もしそうなら、俺はこの好意に甘えるわけにはいかない。

 アルファなんてただ人より元のスペックが高いだけの人間なのだ。
 騙されることもあれば、利用されることもある。――俺の、父のように。


(……蜜希さんはオメガじゃないけど、家族にオメガがいないとは限らない)
 変なことを企んでいないとは限らない。
 今日であった、初対面の人間なのだから。


「……蜜希さんには悪いけど、やっぱり帰らせてもらおう」

 洗濯した服は袋に詰めてもらって、今着てる服は後で郵送でもすればいい。
 やりようはいくらだってある。
 大丈夫。今なら逃げられる。

 俺は深呼吸をし、決意した。

 俺は騙されない。
 絶対に。





 蜜希さんの靴は玄関にあった。
 リビングにもキッチンにもいなかったので、上にいるのだろう。
 階段を上がり、俺は左の扉を開けた。

「蜜希さ――あれ」

 しかし、そこには蜜希さんの姿はなかった。
 

 あるのは、綺麗になった畳とちゃぶ台。
 それと、さっきまでは無かった布団が畳の上に置かれているだけ。

(ここだと思ったんだけど……)
 そう思いかけて、ハッとする。
 そうだ。二階には二部屋ある。此処にいないとなれば、向こうの部屋にいるはずだ。



 俺は踵を返し、後ろを見た。
 僅かに開かれた扉から、中が伺い見れる。


 中には予想通り――蜜希さんはいた。

 本の壁の中。唯一隠されていなかった窓際で、ぼんやりと空を見上げている。
 生温い風が吹く。部屋の中の空気を攫い、紙の匂いが薄れた気がする。

 同時に、蜜希さんのさらりとした髪も撫でていく。

(……綺麗だな)

 無意識に、そう思う。
 視線が奪われるというのは、こういうことか。


 蜜希さんの蜜色の瞳が細められている。
 どこか何か遠くのものを見つめているような表情に、俺は息を飲んだ。
 どこか遠くに行ってしまいそうな雰囲気だ。





「蜜希さん」

 気が付けば、俺は彼を呼び止めていた。

 俺の声に、蜜希さんがゆっくりと振り返る。
 遠くを見つめていた目が、俺を見た。そのことに、ひどく安堵する。



「ああ。出たんだ、暁月くん。おかえり」
「っ、た、ただいま? です」
「何で疑問形なの」

 ふふふ、と笑う蜜希さん。
 その笑顔に俺はほっと胸を撫で下ろした。

 ――良かった。
 蜜希さんはちゃんと、こっちを見ている。

 俺は小さく痛む胸元を、小さく握りしめた。
 この感情の意味に、今の俺は気づいていなかった。
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