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閑話
練磨
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「ゴホッ、ゴホッ」
安宅船・大和の甲板で忠勝は激しく咳き込む。
船は荒れた波浪で揺れ、老いた身体には激しい潮風が沁みる。
いや、沁みるでは足りない。
正確には削ると言うのが正しいだろう。
かつては巌の様であったその身体は、随分と細く小さくなった。
上海や南京での戦いの際、信繁にそう指摘された。
その時より、もしかすると一層。
「ゴボッ、グフッ」
口を押えていた掌を開けば、生暖かい液体の感触。
咳に混じった赤いそれが、主の意志などは完全に無視して外に出てしまったそれを忌々し気に見つめる。
「あと、どれほど持つ?」
誰も答えはしない自問自答。
死ぬのは良い。
どうやらそれが戦場ではなさそうなことが不本意ではあれど、渾身の生を果たせばそれはそれで満足すべきもの。
しかし・・・・・・。
ヒンッ
大きく足を踏み出し、蜻蛉切を横一線に薙ぐ。
遠目にも目の端に捕らえられるかどうかの一撃。
「・・・・・・我が武に陰り、有り」
だが、それは武人であれば目視できるもの。
忠勝が上海要塞で見せた神速の槍とは明らかに異なるもの。
元を知る者が見れば、その衰えに表情を陰らせるだろう。
今の忠勝の槍であれば止められる。
「あと、どれほど持つ?」
もう一度そう呟く。
忠勝はまだまだ死ぬわけにはいかない。
今死ねばただの不忠者。
生涯を誓ったただ一人の主を異国の者に奪われたままになど、誰が許そうと忠勝自身が許すことが出来ない。
そんなものは犬畜生にすら劣る生だと断言する。
それが忠勝と言う男だった。
ッパアァーン
大和の舳先が大波を喰い破る。
波は粉々になり、多くの水滴が忠勝を襲う。
ピゥッ
また一閃。
だが、それは先ほどとは全く違う。
「・・・・・・殿を助け出すその時までもてば良い」
無数の水滴の中のたった一滴。
たった一滴だけを蜻蛉切で真一文字に切り払う。
まるで、自身の肩に手を置いた死神を斬るかのように。
「もう少し、引っ込んでおれ」
・・・・・・恐らく、疾うに限界は超えている。
今生きているのはただ一つ、無念を晴らすため。
奪われた主を取り戻し、いるべき場所、散るべき場所に帰すため。
忠勝が救い出そうと、家康は日本に戻れば罪に問われ処刑される。
しかし、忠勝は主を救い出し大阪に連れ帰る。
それは、目標などではない。
絶対に為すべきこと。
それをするまで死ぬことなど許されない。
それさえ叶うならばのたれ死のうが、犬に喰われて死のうがどうでも良い。
「殿、待っていてくだされ」
本多正信は忠を果たして死んだ。
臆病者と蔑んだ彼は、己に備わらぬ武をそれでも奮い死んでいった。
だが、有り余る武を持つ忠勝は未だ何も出来ていない。
「正信よ、許してくれ」
シュゥッ
次に迫った水滴を一突きにする。
刃先に当たった水滴が左右二つに分かれ、忠勝を避ける様に両側を過ぎていく。
「直政よ、面目次第もない」
互いに功を競い、共に徳川を盛り立てた井伊直政は十年前の関東で死んだ。
徳川方の最先鋒となり、天下人と天下一の軍師を相手にあと一息まで迫り、華々しく散っていった。
死してなお味方を盛り立てた戦振りは、今後も語り継がれていくのだろう。
ジュッ
身を回転させながらの石突の一撃は、水滴を霧に変える。
「・・・・・・康政、済まぬ」
榊原康正は同じ歳で、長年共に家康に仕えてきた。
八丈島にも同行し、四年前に逝った。
後事を全て正信と忠勝に任せ無念そうに。
心友との誓いを果たせなかった己の不甲斐なさにギリと奥歯を噛み締める。
ッ
音も消えるその一撃は触れもせずに水滴を切り裂く。
「酒井殿、どうか力をお貸しくだされ」
ずっと目標と見据えて来たその男は、もう十四年も前に逝った。
まだ幼かった家康を支え、筆頭家老として常に若い家臣たちの模範であった。
その姿に忠勝も康政も直政も憧れ、励んだ。
ゆえに情けない。
唯一残された自分が、何も出来ずにいることが。
「・・・・・・殿、忠勝がお救い致します」
何処にいるかも分からぬ主を見つめ、もう一度心に誓い直す。
「今少し、今少しだけ共に参れ」
愛槍に付いた水滴を拭き取り、愛おし気に声を掛ける。
最後の時に向け、忠勝の武はただ一点に向かい練磨されていく。
細く、鋭く、他の一切を斬り捨て、ただただ美しき一本の槍へと己が身を変え。
安宅船・大和の甲板で忠勝は激しく咳き込む。
船は荒れた波浪で揺れ、老いた身体には激しい潮風が沁みる。
いや、沁みるでは足りない。
正確には削ると言うのが正しいだろう。
かつては巌の様であったその身体は、随分と細く小さくなった。
上海や南京での戦いの際、信繁にそう指摘された。
その時より、もしかすると一層。
「ゴボッ、グフッ」
口を押えていた掌を開けば、生暖かい液体の感触。
咳に混じった赤いそれが、主の意志などは完全に無視して外に出てしまったそれを忌々し気に見つめる。
「あと、どれほど持つ?」
誰も答えはしない自問自答。
死ぬのは良い。
どうやらそれが戦場ではなさそうなことが不本意ではあれど、渾身の生を果たせばそれはそれで満足すべきもの。
しかし・・・・・・。
ヒンッ
大きく足を踏み出し、蜻蛉切を横一線に薙ぐ。
遠目にも目の端に捕らえられるかどうかの一撃。
「・・・・・・我が武に陰り、有り」
だが、それは武人であれば目視できるもの。
忠勝が上海要塞で見せた神速の槍とは明らかに異なるもの。
元を知る者が見れば、その衰えに表情を陰らせるだろう。
今の忠勝の槍であれば止められる。
「あと、どれほど持つ?」
もう一度そう呟く。
忠勝はまだまだ死ぬわけにはいかない。
今死ねばただの不忠者。
生涯を誓ったただ一人の主を異国の者に奪われたままになど、誰が許そうと忠勝自身が許すことが出来ない。
そんなものは犬畜生にすら劣る生だと断言する。
それが忠勝と言う男だった。
ッパアァーン
大和の舳先が大波を喰い破る。
波は粉々になり、多くの水滴が忠勝を襲う。
ピゥッ
また一閃。
だが、それは先ほどとは全く違う。
「・・・・・・殿を助け出すその時までもてば良い」
無数の水滴の中のたった一滴。
たった一滴だけを蜻蛉切で真一文字に切り払う。
まるで、自身の肩に手を置いた死神を斬るかのように。
「もう少し、引っ込んでおれ」
・・・・・・恐らく、疾うに限界は超えている。
今生きているのはただ一つ、無念を晴らすため。
奪われた主を取り戻し、いるべき場所、散るべき場所に帰すため。
忠勝が救い出そうと、家康は日本に戻れば罪に問われ処刑される。
しかし、忠勝は主を救い出し大阪に連れ帰る。
それは、目標などではない。
絶対に為すべきこと。
それをするまで死ぬことなど許されない。
それさえ叶うならばのたれ死のうが、犬に喰われて死のうがどうでも良い。
「殿、待っていてくだされ」
本多正信は忠を果たして死んだ。
臆病者と蔑んだ彼は、己に備わらぬ武をそれでも奮い死んでいった。
だが、有り余る武を持つ忠勝は未だ何も出来ていない。
「正信よ、許してくれ」
シュゥッ
次に迫った水滴を一突きにする。
刃先に当たった水滴が左右二つに分かれ、忠勝を避ける様に両側を過ぎていく。
「直政よ、面目次第もない」
互いに功を競い、共に徳川を盛り立てた井伊直政は十年前の関東で死んだ。
徳川方の最先鋒となり、天下人と天下一の軍師を相手にあと一息まで迫り、華々しく散っていった。
死してなお味方を盛り立てた戦振りは、今後も語り継がれていくのだろう。
ジュッ
身を回転させながらの石突の一撃は、水滴を霧に変える。
「・・・・・・康政、済まぬ」
榊原康正は同じ歳で、長年共に家康に仕えてきた。
八丈島にも同行し、四年前に逝った。
後事を全て正信と忠勝に任せ無念そうに。
心友との誓いを果たせなかった己の不甲斐なさにギリと奥歯を噛み締める。
ッ
音も消えるその一撃は触れもせずに水滴を切り裂く。
「酒井殿、どうか力をお貸しくだされ」
ずっと目標と見据えて来たその男は、もう十四年も前に逝った。
まだ幼かった家康を支え、筆頭家老として常に若い家臣たちの模範であった。
その姿に忠勝も康政も直政も憧れ、励んだ。
ゆえに情けない。
唯一残された自分が、何も出来ずにいることが。
「・・・・・・殿、忠勝がお救い致します」
何処にいるかも分からぬ主を見つめ、もう一度心に誓い直す。
「今少し、今少しだけ共に参れ」
愛槍に付いた水滴を拭き取り、愛おし気に声を掛ける。
最後の時に向け、忠勝の武はただ一点に向かい練磨されていく。
細く、鋭く、他の一切を斬り捨て、ただただ美しき一本の槍へと己が身を変え。
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