ギフテッド

路地裏乃猫

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1章

1話 出会い/海江田漣の場合

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 羨ましいな、と、どこかで誰かの囁く声がした。

「――えっ、で、何?」

 背後の声に、ではなく、目の前に立つ二人の女子に問い返す。

 相手はいずれも同じ医学部の子で、ただ、顔はわかっても名前までは思い出すことができない。同部といっても、一年の頃は必須授業以外で会うことは少なく、おまけにそのコマ自体も少なかった。二年に進級し、専攻科目の授業が増えたことで、ようやく同部の子らと会う機会も増えた。が、進級して間もない今は、顔と名前を一致させるのはまだまだ難しい。……と、脳内で一応の言い訳を試みる。

 一方、彼女たちは気を悪くするでもなく、「うん、だから一緒に飲みに行かない?」と返す。

「二年に上がったし、改めて同部の子と親睦を深めよう、みたいな?」

「でも俺、ギリ未成年だよ?」

「あ、海江田かいえだくん現役合格なんだっけ。じゃ、普通のカフェで」

 大病院の跡取り息子だろ? ああ、だから早めにツバつけとけってか、逞しいよな女子は――先程と同じ声が背後で聞こえる。

 羨ましい、か。

 そう、海江田漣かいえだれんは自嘲気味に苦笑する。声の主が誰かは知らないが、こんな境遇、代われるものならいつだって代わってやりたい。

「ごめん、今日は用事があるんだ」

「用事?」

「うん、デート」

 席を立ち、広げていたテキストやノートをボストンバッグに手早くまとめる。

 対する女の子たちは、驚いたように目を丸く見開きながら「えっ海江田くん彼女いるの?」と、なおも食い下がってくる。実際にいようがいまいが君らには関係ないだろう――そう、喉まで出かかるのを漣はぐっと堪えると、まあね、と曖昧に笑い、足早に講堂を出た。

 校舎を出たところで、カーテンウォールのガラスに映る自分と目が合う。

 我ながら、よく化けているなと漣は思う。初夏らしい淡いグリーンのサマーセーターに細身のデニムパンツ、キャンパススニーカー。どこからどう見ても、ごく普通の、真面目に学業をこなす大学生のいでたちだ。いや事実そうなのだが、こんな自分の姿を目にするたび、ほんの少しだけ漣は皮肉な気分になる。

 身長は一八三センチ。日本人の平均身長に比べればまぁ高い方だろう。顔立ちも、妹に言わせれば友人に自慢できる程度には整っているそうだ。その意味では、確かに、男として目立つ存在ではあるのだろう。キャンパスや街中で、さっきのように異性に声をかけられることも珍しくない。

 ただ、漣自身は、そんな自分の性的魅力にあまり価値を置いていない。どのみち在学中は恋愛を楽しむ余裕はないだろうし、結婚も、どうせ父が適当な相手を見つけてくるのだろう。父が、そのまた父に母をあてがわれたように。

 そうでなくとも今の漣には、恋愛よりも優先したいことがある。

 キャンパスの正門を出ると、そのまま漣は最寄りの信濃町駅に向かう。が、向かったのは帰宅ルートの下り線ではなく、反対側の上り線。ホームにはちょうど中央線のオレンジ色の車両が停まっていて、しかし漣はこれを見送ると、次にやってきたレモン色の車両に乗り込む。

 秋葉原で総武線から山手線に乗り換え、今度は上野へ。その公園内にある都美術館が今回の目的地だ。

 館内のロッカーに、テキストを満載した重いボストンバッグを押し込む。ようやく身体が軽くなったところで、漣は企画展の入り口へと向かう。チケットは、オンラインですでに購入済み。せっかく足を運んだのに、人数オーバーで入れない、なんて事態は悲しい。

 窓口でスマホに表示したQRコードをかざし、いざ中へ。今回の展示は、ポール・セザンヌをピックアップした企画展で、国内外の美術館から百点近くもの作品が会する大掛かりなものだ。

 実のところ漣は、この日をずっと心待ちにしていた。

 近代絵画の父とも呼ばれるセザンヌは、印象派を経て彼独自のスタイルを見出し、それが、ピカソやマティスなど二十世紀のアーティスト達の重要な指標となってゆく。目に映る色やかたちをそのままカンバスに落とし込み、そこからさらに〝見える〟とは何かを問い続けた彼のアートは、その後のアートのトレンドを、ある意味、決定づけたと言っても過言ではないだろう。

 さっそく展示フロアに足を踏み入れる。この企画展示室は地下一階から二階まで縦に連なり、フロアを上がるにしたがって初期から後期の作品へと時系列を辿るかたちになっている。

 その、最初の地下フロアに展示されていたのは、セザンヌが自身のスタイルを掴み取る以前の作品。ゴッホやモネなど錚々たるアーティストが名を連ねる印象派の、その一人でしかなかった頃の作品群だ。

 ああ、ここから旅が始まるのだ。

 彼が、彼だけの色とかたち、光を手に入れるまでの物語。

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