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2章
22話 くるしみ
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施設へと戻るマイクロバスから眺める街は、相変わらず雨に濡れていた。
アスファルトに乱反射する色とりどりの光。行き交う傘は、皆、どこか急ぎ足で、帰るべき場所があるのは良いもんだな、と、他人事のように漣は思う。
そんな意識の片隅で、昼間の三原の話をぼんやりと思い出していた。
おそらく瑠香は、純粋な善意からその女性に手を差し伸べたのだろう。だが、その善意は結局、裏目に出てしまう。この場合、犯人捜しは不毛だ。施設内でのギフトの濫用を防ぐためにも、現行のルールは理にかなっている。とはいえ、その女性が死んだのは、規則どおり瑠香にペナルティを負わせたことも原因の一つではあっただろう。
誰が悪いわけでもない。
一個の人間ではなく、国家の財産として管理され、外出時には首に爆弾を嵌められる危険物。だが漣たちは、そうした扱いを甘受してでも表現を続けることを選んだのだ。ならば、守らなくてはいけない。秩序を守るためのルールを。
ただ、同時に漣はこうも思うのだ。
もし自分が、目の前の人間を救えるギフトを持っていたとして、ルールだからと見捨てることはできるだろうか。仮に見捨てることを選んだとして、そんな自分を果たして許せるだろうか。
施設に戻ると、漣は、食事も摂らずに自室のアトリエへと直行する。
ドアを開くと、嗅ぎ慣れたテレピンの臭いがむわりと鼻腔に漂う。入所時にはがらんどうだったアトリエは、今や壁という壁を棚に占領され、それらの棚も膨大な画材によって埋め尽くされている。充満するテレピン臭は油画用の薄め液のそれ。嶋野に貰った油絵具を使ってみたくて、あれから油彩画用の道具をあれこれと揃えたうちの一つだ。
実のところ漣は、昔から油彩画に憧れていた。ただ、親の目を盗むには臭いがきつく、場所も食うのでどうしても目立ってしまう。なので、どうしても手を出せずにいたのだが、入所をきっかけにそうした制約からも解放され、今では、スプレー缶より油彩画用の絵筆を握る時間の方が長い。
カンバス上で絵の具を練り上げ、ライブ感覚で新たな色彩を描き込むのは、手法こそグラフティとは違うものの、創作の手触りはよく似ている。油彩画を始めた頃は、技術以前の、例えばうすめ液の種類だとか絵の具の乾燥に要する時間だとか、諸々覚えることが多くて苦労した。が、今では、ともすればグラフティより手に馴染む感じがある。
今日も漣はエプロンを着ると、絵筆を手に取り、湧き上がるイメージをカンバスに刻みはじめる。心を打つアートに触れた後、漣はきまって絵筆を取りたくなる。が、今日に限ればそれだけが理由ではない。美術館で目にしたアートへの感動や、そこから得た学びとは別に――否、それ以上に強烈な何かが胸の奥にくすぶっていて、漣の筆先から迸り出る瞬間を待ち構えているのだ。
受け入れていたはずだった。この状況を。
それでも筆は、怒りのまま、憤りのままに色を刻みつける。瑠香は何も悪くなかった。悪くなど、なかったのだ。なのに、どうしてこんなことに――
なぜ人は、苦しまねばならないのだろう。
あるいは病気。あるいは戦争。愛する誰かとの死別。もしくは夢が破れて。飢餓や貧困。傍目には恵まれているように見える人達さえ、失恋や嫉妬、親からの抑圧など、日々の小さな苦しみに喘いでいる。
何にせよ世界は、多くの苦痛に満ちていて。
だから救いたいと、救わなければと、そう、思っていた。ずっと。ずっと。
――ふと耳に届いたチャイムの音に、漣は我に返る。
正しくは、目覚めたと言った方がよかった。実際、漣は気付かないうちにアトリエの固い床に転がっていて、身を起こすと、不自然な姿勢で圧迫された肩や背中がやたらと痛んだ。
軽く肩を回しながら、とりあえず呼び出しのあった玄関に向かう。そういやモニターホンで来客を検めるべきだったかなと廊下を歩きながら思い、いや、欲しいものは何でもタダで揃う施設で強盗もないだろう、とすぐに思い直し、結局そのままノブに手をかける。
「お待たせしまし――えっ?」
ドアを開いた漣は、そのままの姿でしばし呆然となる。
目の前の廊下に立つ、あまりにも意外な来客の姿に。
「……瑠香、さん?」
アスファルトに乱反射する色とりどりの光。行き交う傘は、皆、どこか急ぎ足で、帰るべき場所があるのは良いもんだな、と、他人事のように漣は思う。
そんな意識の片隅で、昼間の三原の話をぼんやりと思い出していた。
おそらく瑠香は、純粋な善意からその女性に手を差し伸べたのだろう。だが、その善意は結局、裏目に出てしまう。この場合、犯人捜しは不毛だ。施設内でのギフトの濫用を防ぐためにも、現行のルールは理にかなっている。とはいえ、その女性が死んだのは、規則どおり瑠香にペナルティを負わせたことも原因の一つではあっただろう。
誰が悪いわけでもない。
一個の人間ではなく、国家の財産として管理され、外出時には首に爆弾を嵌められる危険物。だが漣たちは、そうした扱いを甘受してでも表現を続けることを選んだのだ。ならば、守らなくてはいけない。秩序を守るためのルールを。
ただ、同時に漣はこうも思うのだ。
もし自分が、目の前の人間を救えるギフトを持っていたとして、ルールだからと見捨てることはできるだろうか。仮に見捨てることを選んだとして、そんな自分を果たして許せるだろうか。
施設に戻ると、漣は、食事も摂らずに自室のアトリエへと直行する。
ドアを開くと、嗅ぎ慣れたテレピンの臭いがむわりと鼻腔に漂う。入所時にはがらんどうだったアトリエは、今や壁という壁を棚に占領され、それらの棚も膨大な画材によって埋め尽くされている。充満するテレピン臭は油画用の薄め液のそれ。嶋野に貰った油絵具を使ってみたくて、あれから油彩画用の道具をあれこれと揃えたうちの一つだ。
実のところ漣は、昔から油彩画に憧れていた。ただ、親の目を盗むには臭いがきつく、場所も食うのでどうしても目立ってしまう。なので、どうしても手を出せずにいたのだが、入所をきっかけにそうした制約からも解放され、今では、スプレー缶より油彩画用の絵筆を握る時間の方が長い。
カンバス上で絵の具を練り上げ、ライブ感覚で新たな色彩を描き込むのは、手法こそグラフティとは違うものの、創作の手触りはよく似ている。油彩画を始めた頃は、技術以前の、例えばうすめ液の種類だとか絵の具の乾燥に要する時間だとか、諸々覚えることが多くて苦労した。が、今では、ともすればグラフティより手に馴染む感じがある。
今日も漣はエプロンを着ると、絵筆を手に取り、湧き上がるイメージをカンバスに刻みはじめる。心を打つアートに触れた後、漣はきまって絵筆を取りたくなる。が、今日に限ればそれだけが理由ではない。美術館で目にしたアートへの感動や、そこから得た学びとは別に――否、それ以上に強烈な何かが胸の奥にくすぶっていて、漣の筆先から迸り出る瞬間を待ち構えているのだ。
受け入れていたはずだった。この状況を。
それでも筆は、怒りのまま、憤りのままに色を刻みつける。瑠香は何も悪くなかった。悪くなど、なかったのだ。なのに、どうしてこんなことに――
なぜ人は、苦しまねばならないのだろう。
あるいは病気。あるいは戦争。愛する誰かとの死別。もしくは夢が破れて。飢餓や貧困。傍目には恵まれているように見える人達さえ、失恋や嫉妬、親からの抑圧など、日々の小さな苦しみに喘いでいる。
何にせよ世界は、多くの苦痛に満ちていて。
だから救いたいと、救わなければと、そう、思っていた。ずっと。ずっと。
――ふと耳に届いたチャイムの音に、漣は我に返る。
正しくは、目覚めたと言った方がよかった。実際、漣は気付かないうちにアトリエの固い床に転がっていて、身を起こすと、不自然な姿勢で圧迫された肩や背中がやたらと痛んだ。
軽く肩を回しながら、とりあえず呼び出しのあった玄関に向かう。そういやモニターホンで来客を検めるべきだったかなと廊下を歩きながら思い、いや、欲しいものは何でもタダで揃う施設で強盗もないだろう、とすぐに思い直し、結局そのままノブに手をかける。
「お待たせしまし――えっ?」
ドアを開いた漣は、そのままの姿でしばし呆然となる。
目の前の廊下に立つ、あまりにも意外な来客の姿に。
「……瑠香、さん?」
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