都市街下奇譚

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三十六夜目『しえん』

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これは、友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



千倉奈保は何気なくクローゼットを開いて、ふと香った紫煙の香りに立ち止った。奈保は煙草を吸わない人間なのに、その香りは確実にクローゼットの中に充満している。そして奈保はその臭いの素に気がついて、小さく溜め息をついた。先日別れたばかりの彼氏の服がまだ数枚そのクローゼットの中にかかっていて、それが彼が嫌になるほど吸っていた煙草の臭いを中に留めていたようだ。

別れた男の服を未練たらしく持っているなんて馬鹿みたい。

酷い煙草の臭いにうんざりしながら、彼女はその服を無造作に引き出し無言でゴミ袋に突っ込んだ。どうせ二度と会うつもりもない男だ、服を返すために会う事もない。彼女の元彼・矢根尾は、付き合った途端に浮気はするし人の金は無断で使うし、最低なクズ男だった。しかも次第に特殊な性癖を、奈保で試そうとする最低な変態男だ。下手するとこの部屋に住み込むつもりでいたのではないかと思うが、奈保はそこまで呑気ではないしそこまで尽くすほどの男でもない。若くてイケメンならともかく、中年で顔もソコソコな上に定職もないと知ったら奈保の反応は当然じゃないかと思う。まぁ奈保自身三十路ではあるが、四十路はまだ先の話で四十路なのを誤魔化して三十路だと言ったあいつが悪い。話題が噛み合わないのに何処か違和感を感じて、追求したら実は十も歳の差があるとは知らなかったのだ。しかも、相手は意図的に奈保にそれを隠して付き合った。

胡散臭い上に詐称って、もうキチガイの世界だわよ。その上女には手が早いし、人の財布から金は抜くし、上げ連ねたらいいとこなんて一つもない

ある時急にその事に気がついた。だから、彼女からさっさと分かれたのだ。あんなクズと別れるのに、後悔などするべくもない。彼女は新しい生活をして新しい恋をして、あんなクズ男の事は綺麗さっぱり忘れてしまうつもりだった。



※※※



「あれ?千倉さん、煙草吸い始めたの?」

その言葉は予想外の人からかけられた。自分の出版社の書籍をおいて欲しいと営業に来ている早瀬亘は、実は最近奈保が密かにいいなと感じている男性だ。年齢は彼の方が一つ上、次男坊で現在はマンションに独り暮らし、彼女は一年ほどなし。周りからの情報では酒を飲んでも豹変しないし、穏やかな人柄で人気だ。去年営業職に変わったばかりで、忙しかったせいですれ違いになって前の彼女とは別れたらしい。その後は営業にも慣れてきて、余裕が出来つつあるが元々合コンはあまり好まない。そんな優良物件の彼から、女の子としては甚だ遺憾な指摘に奈保は驚く。

「え?吸いませんよ。」
「あ、そうなの?ごめん、何か煙草の臭いがした気がして。」

頭に浮かんだのはクズ男の吸っていた煙草だ。あいつとは別れて一ヶ月も経っていて、服だって棄ててやった。でも、服が入っていたクローゼットの中に入っていた自分の服はどうなのか。全部をクリーニングに出せるわけでもないが、残った服に臭いがつく可能性はある。

最悪。別れてもクズの弊害なんて。

顔には天使のような微笑みを張り付けて、内心では般若のように怒りに震えながら奈保は通勤の時にコーヒーショップに寄ったからかなと答えた。その日の夜、奈保は考えうる消臭材を買い込み、クローゼットの衣類を全て取り出し一枚ずつ消臭材を吹き掛ける。グチグチと男の文句を言いながら、クローゼットの中に顔を突っ込み臭いを嗅ぐ。

嫌だ!クローゼットの中、すっごい煙草臭い!

クローゼットの板がまるでそれ自体から臭いを発散しているように、強い煙草の臭いがする。必死でスプレー消臭材を散々吹き掛け、緑茶の出がらしや消臭ビーズを大量に並べて置く。クローゼットの扉を開放しているだけで、部屋の中で今も煙草を吸われているみたいでウンザリする。こんなに臭いがしていたのに今まで気がつかないでいたのかと、奈保自身も正直驚いてしまうくらいだ。付き合ってから別れるまでのここ何ヵ月か自分がこの臭いをさせて辺りを歩いていたんだと思うだけで、心の底から忌々しい思いに舌打ちしたくなる。



※※※



それから暫くして。
親友の中村夏穂が泊りがけで部屋に来ることになったある日の事。夏穂は高校時代からの親友で大分長い付き合いだが、奈保にとっては隠し事のない腹を割って話せる一番の親友だ。何を隠そう矢根尾が浮気しているのを見つけ、奈保に教えてくれたのは彼女だ。態々写メ迄撮ってあんたの彼氏浮気してると告げられた時には、一瞬彼女を恨んだが結果としてはお陰で早い内に縁を切ることができた。そういう意味でも今は夏穂の連絡に、奈保は感謝すらしている。
夏穂は奈保の部屋に入るなり、訝しげに眉をひそめた。

「奈保…煙草吸う様になったの?」
「え?」

そう言われてみると微かに室内に煙草特有の臭いがする。最悪な気分になりながら、奈保は最近購入した空気清浄機のスイッチを入れた。あれから何となく煙草の臭いがクローゼットの中に残っている気がして、臭いを逃そうとクローゼットを開いているのが癖になっていた。しかも、臭いは執念深くクローゼットの中に居座って、気がつくと室内に煙草の臭いが漂うのだ。何時になっても消えてくれない煙草の臭いに、正直なところ奈保はウンザリしている。まるで、まだ矢根尾が通ってきているみたいな気がするからだ。
微かに室内に漂う煙草の臭いに、いやだ…と溜め息混じりに呟いて奈保は窓を開いた。空気清浄機も動いているが、何より籠った臭いを消したかったのだ。理由を夏穂話しながら微かに冷たい夜気をはらんだ風を入れるように窓を開けた。

「ふぅん、結構煙草の臭いって残るもんなんだね。」
「確かにクローゼットに入れたままだったけど、全然消えないのよ。いやんなるなぁ。」

思わぬ弊害に苦笑いを浮かべる奈保に、夏穂もドジだねーと声をたてて笑う。最近は禁煙ブームだし、喫煙者の方が形見の狭い世の中だ。奈保も夏穂も非喫煙者だから禁煙ブームは大歓迎だし無くてもいいものなのだから、気に障る残り香は余計なものでしかない。
やがて籠っていた臭いが消え去り、冬夜気の冷たさに窓を閉めるとやはり微かな紫煙の香りが室内に漂う。傍で誰かが吸っているほどの香りではないが、けして間違いとも思えない。クローゼットの中が確かに臭いが強い気がするが、かといってソコが出所とも言い切れない。

「作り付けだから、天井とかで他の部屋の煙草の臭いだったりして。」
「嘘!そんなのありうるの?」
「んー、適当?」

夏穂の言葉にやだぁと笑う。空気清浄機が稼働しているし、ほんの微かな香りだから残り香じゃないと夏穂が言うのに奈保も同意した。やがて微かな香りに慣れてしまったのか、二人は貯まり溜まっていた他愛のないおしゃべりをビールを片手に続けた。そろそろ寝ようかとお互いが口にする頃には、もう既に夜半を過ぎていただろう。後からシャワーを浴び部屋に戻った奈保の鼻にまたプンと煙草の香りが鼻についた。
話し疲れたのか既に夏穂は、床に敷いた布団にくるまって横になって眠っているようだ。奈保は夏穂を起こさないようにそっと室内を歩き煙草の臭いの出所を嗅ぐ。やはりクローゼットの方のようで、彼女はふぅっと溜息をつく。もしかして本当に夏穂のいう通り作り付けのクローゼットの向こうに設計的な空洞があって、他の部屋の煙草の臭いが流れてきているかもしれない。隣やその隣が誰が住んでいて、何時引っ越してきたかなんて気にもしていないのだ。新しい人が来て煙草を吸っているのなら何となく理解できる。少なくとも元彼の矢根尾が留守の間に来て忍び込んで、態々煙草の臭いだけ残していると考えるよりは大分ましだ。それにしても空気清浄機でも、対応できない煙草の臭いには心底ウンザリだった。そろそろ引っ越しを考えてもいいのかもしれないと考えながら、奈保は諦めた様にベットに潜り込んだ。



※※※



眠りの中で煙草の臭いが一際強くなった気がした。夢の中で煙草を咥えた男が、ベットの奈保を見下ろし立っている。何処から家に入ってきたのか、声もかけずにただ自分を見下ろしているのは確かに男だ。人相も体つきも分からないのに、男で煙草を加えていて息を殺して奈保を見下ろしている。
そんな気分の悪い夢に魘されながら、奈保は寝苦しい夜を過ごした。目が覚めるとやはり部屋の中が、煙草臭い。

「もぉ、何なの、この臭い。…夏穂?」

夏穂は気がつかず眠っているようだ。時間は朝九時を過ぎているのに、奈保は寝過ぎたと呟く。

「夏穂ぉ…?朝ごはんどうするぅ?」

眩く射し込む朝の光の中で目をこすりながら起き上がった奈保は、背筋を伸ばしながら夏穂に視線を向けた。暑くないのか頭までスッポリ布団に潜り込んだ夏穂は昨日と全く変わりない姿勢のように見える。

寒かったのかな?

でも、エアコンもついていないし、寒いなら夏穂ならそう言いそうなものだ。もう一度眠い目を擦りながら奈保は、布団にくるまった夏穂を揺り起こした。途端ゴロリと頭が転げてきて、奈保はその顔を意味も分からず見下ろす。
奈保は次の瞬間大きな悲鳴を上げ、文字通り飛び上がっていた。そこには布団の中を赤黒い液体でぐっしょりと濡らした冷たい体が横たわっていたのだ。

奈保はやってきた警官に自分の部屋の中を無残にあらされながら、室内にこもった煙草の香りと矢根尾の事を必死で訴えた。あの夢はきっと本当の事で、きっとあいつだと必死に訴える奈保に警察も不審そうに色々な場所に電話をしたりと動いている。隣で寝ていた奈保が容疑者にならなかったのは、奈保が全く血に触れた形跡がないのと、夏穂の遺体の損壊が女の細腕では無理だろうと思われたからだ。そして、何より室内に残った血塗れの大きな手形と、奈保の持ち物ではあるが包丁に残された血の手の跡のおかげだった。でも、同時に奈保がいる真横で凶行が繰り広げられていたという事でもある。男がいたんだと半狂乱で制服の警官に訴える奈保に、やがて一人のスーツの警察官らしき男がやって来て冷静な声をかけた。

「申し訳ありませんが…貴方の言う矢根尾という男はこの男ですか?」

そこには数ヵ月前に見慣れた男の顔が固く凍り付いた表情で写っていて、奈保はそうだと言いながら大きく頷く。しかし、その相手は、不思議そうにその写真をまじまじと見つめ囁く様な呟きを漏らした。

「ですが…この男、今勾留中で警察にいるんですよね…。」



※※※



忍び込んでる男がいるってことですよね?

自分の圧し殺した声に久保田はどうでしょうねぇと朗らかに答える。玄関からなのかそれとも他に忍び込める場所があるのだろうかと考えるが、思わず脳裏に浮かんだのが自分のマンションなのに自分は苦虫を噛み潰した思いになった。自分の今住んでいるマンションで考えてしまったら、そこから侵入出来ると認めたような気がする。そう告げると久保田はおやおやと可笑しそうに笑い、気を付けないといけませんねぇと言いながらおまけのように告げた。

でも、殺された方にも何かあると思いませんか?
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