都市街下奇譚

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四十六夜目『操作不能』

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これは、とある友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。芳しい珈琲の香りの中で客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは何時もの通り自分ただ一人だった。



※※※



最近は大概の事が上手く進んでいる気がする。そう独り矢根尾俊一は、自分の身なりを姿見で眺めながら考えた。姿見の中の自分は濃紺のスーツに身を包んで、キッチリとネクタイもしめている。最近色々なことがあって住んでいるアパートの室内は、ゴミを貯めることもなく大家との関係も良好だ。以前勤めていた塾は火事で燃えてしまったが、新しい勤め先の塾は規模は小さいが経営状態もいい。しかも、最近になって頭の中にタイムスケジュールが組めるようになったせいか、時間に送れる事もなく勤務態度は高評価だ。塾の受付をしている女性と仲良くなり始め、もしかしたら久々にまともなお付き合いというやつに発展しそうな気配もある。年を重ねた分滲み出て来るものがあるのか、十五も年下の彼女は何時もはにかんだ微笑みで矢根尾を見上げるのだ。

「矢根尾さん、何時も時間通りですね。」
「安斎さんに会えるからかな。」

安斎千奈美はその言葉にはにかんだ微笑みを浮かべて、冗談ですかと言う。冗談じゃないと笑いながら話し、彼女の体はどんなものだろうと頭の中で彼女を裸にするのを想像する。想像するのは自由で頭の中を覗くことはできないから、散々はしたない姿を妄想して楽しむ。穏やかな笑顔の頭の中で、散々裸にされ弄ばれて四つん這いで虐げられていると知ったら目の前の安斎はどう感じるだろう。最近は女と寝ることもご無沙汰だから想像はドンドン過激で淫らなものになっていく。最近になってタイムスケジュールというものを理解できた矢根尾には、そのためのスケジュールを組む楽しみが出来た。安斎を手に入れてどんな風に調教するかスケジュールを組んで、その過程を妄想を楽しむのだ。

「矢根尾さん?どうかしました?」
「ああ、ちょっと考え事。安斎さんに告白するにはどうしたらいいかなぁって。」

またまたぁと安斎がにこやかに微笑むのを眺めながら、いい加減そろそろ一つ段階を踏みたいものだと矢根尾はコッソリと頭の中で呟く。



※※※



「矢根尾さん、お家もキチンとしてるんですね。」

安斎が感心したように矢根尾に背を向けて言う。案外一つ段階を踏むのは簡単な事だったのだ。家にこない?と冗談めかして誘ったら、安斎は頬を染めていいんですか?と答えた。そして、食事を作りますと材料を片手にノコノコと家迄やって来た安斎が、矢根尾に背を向けて室内を眺めている。綺麗に整えられた室内を眺めている安斎は、振り返りながらキッチンお借りしますと微笑んで手慣れた風に食材を取り出す。矢根尾は奥で部屋着に着替えながら、安斎をどうやってベットに連れ込むかを算段する。やがて、料理を作り終えた安斎がテーブルにそれを並べた時、矢根尾は一瞬表情が強ばるのが分かった。持ってきた食材は人参に玉葱、じゃが芋に肉、そして分かりやすいカレールーの存在。出来上がるのは子供でも分かるカレーなのだと思っていたが、出てきた米にかけられた物体が何だか異様なのだ。カレーの匂いは微かにしているが、それ以外の臭いが強すぎて独特な臭いが立ち上っている。

「あんまり料理上手じゃなくて、恥ずかしいですけど。」

どうぞと差し出される皿の上で、米を黒いタールのようなものが滴り落ちていく。一体何をいれるとこんなコールタールみたいなものが生まれるのか、それとも見た目と違って案外上手いカレーなのか。安斎が期待に満ちた視線で矢根尾が口をつけるのを見守っていて、矢根尾は恐る恐るスプーンを手に取った。一匙掬って口に運ぶ途中で異臭が鼻についたが、観念して口に入れてみる。市販のカレールーは良くも悪くも平均値だ。何に入れても全部カレーの味に持ち込めるパワーがあるくらいで、水の量さえ調整出来ればほぼ間違いなく食べられるカレーになる。料理が殆ど出来ない矢根尾ですら、箱の裏さえ見ながらなら作れる料理なのだ。ところが安斎の料理はカレールーを惨殺して、上回る別なものに出来る凶悪なものだった。何をいれたらこの味になるのか。甘いのか辛いのか苦いのかすら分からないのに、この異臭はなんだろうか。飲み込むことの方が辛い異臭を必死に堪えながら一口を飲み下すと、安斎は子供のように喜んで一杯食べて下さいねと笑いながら自分もそれを食べ始めたのだ。

何でこれを食べられるんだ?!

目の前の安斎は平気で口に運んでいるが、矢根尾は半分もいかない内に脂汗が滲み始めた。何か発酵食品が入っているのか、生臭い臭いが喉を競り上がってくる。カレーだと暗示をかけても飲み込むことが困難になって、矢根尾は作り笑いで立ち上がると音が聞こえないように何度も水を流しながらトイレで嘔吐した。


「ごめんね、美味しい手料理なんて久しぶりで腸が驚いたみたいだ。」

脂汗を流しながら作り笑いでそう告げる矢根尾に、安斎は全く動じた気配もなく自分の分の料理を平らげる。そして、また作りに来ますねと子供のように嬉しそうに微笑んで何事もなかったように帰っていった。鍋一杯の得体の知れない黒いコールタールを残して、台所の恐ろしい惨状に安斎の帰った後矢根尾は呆然と立ち尽くす。最近綺麗に整えて磨いてあった台所が、コールタールで無惨に汚されている。汚れていてはゴミが貯まり注意事項が届きかねないのに、矢根尾は奥歯を噛みながら異臭を放つ台所の掃除を始めるしかなかった。
その出来事があって矢根尾は安斎は諦めるしかないと判断したのに、相手はそうは感じなかったらしい。安斎はそれから毎日のように食材を片手に矢根尾の家を訪れるようになった。しかも、料理は何時も同じ。食材全てを確認しようにも作る前に部屋に追いやられ、出てくるのは何時も同じで微かなカレーの臭いのするコールタールかけご飯だ。しかも、米の炊き方がまちまちで、一度はコールタールかけ生米という有り様の事があったのには、さすがの矢根尾も無言になるしかなかった。まるで罰ゲームか拷問のような料理なのに、安斎はまるで平気な様子でそれを食べる。

「これって隠し味はいってる?」
「うふふ、入ってますよ。よく分かりましたね。」

安斎がにこやかに笑うのを見ながら、心の中で隠してないだろうがと叫びながら矢根尾も作り笑いを浮かべた。その隠し味をやめて欲しいと何と言えば安斎に分かるのか、思案しながら必死に発酵臭のするコールタールを飲み込む。安斎が何故これを平気で食べられるのか分からないが、恐らくこの味に安斎は疑問を持たないことだけは分かる。つまりこの味は安斎にとっては、他の人で言う普通のカレーなのだ。何時もと同じく嘔吐して脂汗をかきながら、安斎を送り出す。

「何時も作って貰って悪いから、今度は外で食事を奢るよ。」
「いいんです、作るの楽しいから。また来ますね。」

そうして本音では二度とくるなと言いたいのを奥歯を噛みながら飲み下し、台所の掃除を始める矢根尾は明日は居留守か本気で留守にしようと心に誓う。



※※※



翌日久々に友人と待ち合わせ明け方までまともな料理を堪能しながら、矢根尾は泥酔するまで飲んで家に帰った。余りにも飲んでいて記憶すらあやふやで、一体何処で最後に飲んで帰宅したのかすら覚えていない。そんな状況で帰宅した矢根尾が気がついたのは、朝日が差し込む部屋の中だった。自分の部屋の中なのに、違和感があって矢根尾は視線を上げる。

「おはようございます、矢根尾さん。」

にこやかな声がそう告げて、矢根尾はポカーンとしながら目の前の安斎を見つめた。矢根尾が感じている違和感は、目の前に安斎がいる事ではない。矢根尾が自宅に泥酔で戻って安斎を招き入れた可能性があるからだ。違和感の元は、矢根尾がベットにいないということだった。矢根尾は座った状態で、目の前の安斎の事を見ている。

「安斎さん…?」

座ったまま動けない。それに気がついた矢根尾は自分の体が、デスクチェアに麻縄で括りつけられているのに気がつく。普通の家にはない筈の麻縄は、矢根尾が趣味で購入した歪な性癖の道具だ。安斎はそれを持ち出し泥酔した矢根尾を椅子に括りつけて、彼が起きるのを待ち構えていたに違いない。何とかして麻縄を緩めようにも、麻縄というのが身動きすればするほど絞まるのを肌に直に感じる。

「安斎さん、これどういうこと?外してくれない?」

しかも、矢根尾のお道具にある手錠がご丁寧に手足それぞれを拘束していて、矢根尾は自分のSMという性癖に初めて苦虫を噛み潰したような思いにかられる。他人にこれらを使うことはあっても、自分自身に使ったことは今だかつてない。安斎はにこやかに微笑むとキッチンから、あのコールタールかけ生米を持って歩み寄った。

「安斎さん?」
「はい、矢根尾さん、アーン。」

彼女は微笑みながらコールタールかけ生米を一匙掬い、矢根尾の口元に運ぶ。普段より一段と発酵を通り越して腐敗臭のする一匙が、矢根尾の口元に近付けられる。首を振って匙を避けようとした矢根尾の髪の毛を、安斎の手が鷲掴みにして斜め上を向いたまま固定した。

「はい、お口開けて下さいね。」

そんな乱暴をしているのに全く変わらない笑顔の安斎に、矢根尾は背筋が凍りつくのを感じる。笑顔なのに安斎の目は一つも笑っていないのに、今になって気がついたのだ。食べる迄許さないというその安斎の目に、矢根尾は渋々だが口をあける。そこに捩じ込まれたコールタールの味は、過去最高の腐敗臭の塊だった。吐き気が一度に込み上げる矢根尾の口に彼女は顔だけは微笑んだままで、無造作に口にコールタールかけ生米を捩じ込んでくる。何度矢根尾が堪えきれず嘔吐しても、安斎は矢根尾にコールタールかけ生米を飲み込ませた。延々と繰り返される安斎の匙を捩じ込む容赦ない動きに、矢根尾は泣きながら止めてくれと懇願する。

「もう、やめて下さい、頼むから。」

それなのに安斎はにこやかに見える微笑みの仮面を被ったまま、矢根尾の口に匙を捩じ込む。それはまるで機械仕掛けの人形のようだが、矢根尾には操作不能の機械だ。匙を捩じ込むタイミングが外れて唇が切れても、吐物で手が汚れるのも安斎は気にもかけない。

「矢根尾さん、まだ残ってます。一杯作ってあげたんですよ、ほら、アーンして。」

矢根尾が室内を自分の吐物で汚しながら、鍋一つを全て一度は飲み込むまで安斎は手を止めなかった。やっと鍋一つが空になったのを見て泣きながら嘔吐する矢根尾を見下ろして、安斎は初めて冷ややかな表情を浮かべ矢根尾を見下ろす。

「矢根尾さんが食べ物を粗末にするような人だとは思いませんでした、ほんと幻滅。」

泣きながら見上げた矢根尾を冷ややかに見下し、安斎は最低と言い捨てて踵を返し立ち去る。
矢根尾は解放された衝撃かそのまま意識を失ったようだったが、夕暮れ時に異臭にまみれた状態で目を覚ました。矢根尾は未だにコールタールに自分の吐物まみれ、それに自分は麻縄と手錠でデスクチェアに括りつけられたままなのだ。
絶望的な状況に、矢根尾は有らん限りの声で悲鳴を上げ始めていた。



※※※



…自業自得ですよ。

吐き捨てるように口から出た言葉に、久保田がおやおやと言いながら苦笑いを浮かべる。何度もこの男の話を聞かされてきたけど、何度も痛い目を見ながら一つも改心しない。それに呆れていた自分は、拘束されたまま汚物にまみれていたと聞いても憐憫の情すら感じないのだ。強いて言うなら飲食店でする話としては、食事の味を悪くしそうではある。そう告げると同時に味がなんですって?と厨房から鈴徳良二が顔を見せた。

いや、料理が不味くなるような話を聞いたんだよ。鈴徳君、今日のランチは何なの?

先程から厨房から微かにスパイスの臭いがしているから、本当は答えは分かっているのだ。恐らく久保田も無意識にこの香りから今の話をしたに違いない。ただ、今の話の後にそのメニューは些か間が悪すぎる。

今日は特性の黒カレーですよ。

更に間の悪いメニュー名を告げた鈴徳に、久保田と自分は思わず頭を抱えていた。
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