都市街下奇譚

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九十八夜目『部屋』

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これは、私の特別な友人から聞いた話なんですけどね、そうマスターの久保田はグラスを磨きながら口を開く。芳しい珈琲と紅茶の香りのする店内には客足は奇妙なほど途絶えていて、大通りの喧騒が微かに遠く響いている。白磁のポットが見守る中で、その言葉を耳にしたのは何時ものごとくカウンターに座る自分ただ一人だった。



※※※



それにちゃんと気がついたのは、実際にはその部屋に寝泊まりし始めて二日目の事だった。
だが、先ずは全ての事の始まりから説明しようと思う。
全ての始まりは一昨々日の夜中。
真夜中に急な腹痛で脂汗をかきながらのたうち回った上に、下痢と嘔吐を数回。しかも翌日の早朝に下痢をしたと思ったら、尻から出てきたのは鮮やかな血液で腹の痛みはまるで引かない。これは我慢しても駄目なやつだと、流石に我慢ができずに病院にかかり、

「虚血性大腸炎ですね。」

主治医は淡々とそう診断した。
そうしてファイバースコープが腸を動く痛みに身悶える自分に、これは入院するしかないですと意図も容易く言いはなったのだった。どうやら腹の左側の下降する腸の部分が全体的に爛れていて、そこから出血して痛みが出ているのだという。昨夜からのたうち回っているこの痛みは腸の炎症の痛みだからと言うわけだ。先ずは腸管を動かさないように休めるしかないらしくて、食事も止められ点滴を刺されての絶食の指示。飲む方は大腸に届くまでに小腸で吸収されるからいいというのは知らなかったけれど、痛みを緩和するためには食べずに休ませるしかないのでそのまま入院だという。まぁ確かに痛みが酷すぎて家でどうにも出来ないし食欲なんて感じないし、これで仕事をするのも無理なのは分かっているから大人しく医者の言うことを聞くしかないのは確かだった。

「今は申し訳ないのですが大部屋が空いてないので、個室になります。」

そんなわけで入院して偶々病室が空いてなくてこうして個室に入れられたのだけれど、ある意味では個室で何よりだったと思う。何しろ入院当日の夜は腹の痛みが強くて、ベットから身動き出来ないままにボンヤリと天井をみて我慢して過ごすしかなかったからだ。腰が痛いとか歯が痛いとか限局的な痛みとは全く違って左の側腹部にジリジリと焼けつくような痛みが走り続けて、自分は上手いこと眠るどころか体を休めることも出来ないでいる。

そんな有り様で一夜を過ごしたから、隣の部屋の事なんか自分には気にする余裕もなかったのだ。

翌日やっと痛みが引けてきて幾分体調も回復に向かいつつあったが、痛みは時折だが周期的に容赦なく自分を襲ってくる。それでも何も食べていないから腸があまり動かず出すものがないのが何よりで、下血も入院してからはほんの少しだけしか出てこないから痛むのは周期的な痛みだけなのだ。これで下血に気がつかずに物を食べていたら、あの激痛を感じながらのたうち回ったのかと思ってしまう。何しろ逆向きとは言え尻からファイバースコープというカメラが腸に入ってきて炎症部分を擦るのが、途轍もなく痛くてのたうち回ったのは記憶に余りにも新しい。

「あーぁ、早く何か食べれるようになんないかな…………。」

痛みがないだけでなく何か物を食べられるようになるということが、先ずは回復への第一条件なのは理解できる。そうでないと24時間繋がれっぱなしの点滴も終わらないし、終わらないということはこの点滴台を押しながらトイレにいくのも変わらない。何しろこんなモノを伴ってトイレに行くなんてそうそうしたことがないから、どうしても壁に点滴台がぶつかって大きな音を立ててしまうのだ。

ガチャン!

再び同じ場所に点滴台の足が当たって、思わず舌打ちしたくなる。どうしても慣れないものだから感覚がつかめない上に、車輪が上手く回らなかったりして想定外の動きになってしまうのだ。何しろその点滴台には、自分の身体に針を刺してあってチューブで繋がれた点滴の袋がぶら下がってもいる。下手に点滴台の存在を忘れると、その刺してある針のところがビインッと引っ張られて途轍もない激痛に見回れたりするのだ。しかもそれを繰り返すと刺してある針のところが腫れ上がり、点滴の針を刺し替えることにもなる有り様。

「血管みえないですねぇ。」

溜め息混じりにそう言いながら点滴の針を刺し替えるのも一度で済めばいいが、体調が安定してないせいか5回も上手く刺せなかったりすると最悪だ。そんなわけだけどこれが個室だからまだましだけど、これで大部屋だったらトイレに幾度に散々な目に遭いそうだと呆れてしまう。

早く治んないかなぁ…………。

そんなことをボンヤリと考え天井を眺めていたら、ガタガタと壁越しに何かが動く音がしたのだ。隣も個室で作りは同じだと病院のパンフレットをみて知っていたのだが、隣に患者がいるとは知らなかった。確かにそこまで自分は自分の事で手一杯で、隣の部屋の事なんか気にする余裕はなかったのだ。

ガタン、ガタガタ

壁越しの大きな音を聞きながら、どうもこのガタガタする音は室内に据え付けている椅子を動かす音のように聞こえるなぁとボンヤリ考える。

ということは隣は自分と同じ程度に動ける患者なのか…………

自分は確かに痛みはあっても室内のトイレまで点滴台を押して歩くことは可能で、自分は時折カラカラと点滴台を押して病室内を動き回っている。向こうが同じ様に点滴をしているかは流石に分からないが、少なくとも動き回る音はしていたかもしれない。耳をすましても軽い点滴台の動く音までは流石に壁越しには聞こえないが、トイレの扉の音はもしかすると隣まで響いていたかもしれないのに端と気がついてしまった。この椅子の音が響くのはきっと椅子を持ち上げずに床を引きずっているからで、それに気がつくのは自分も同じことをここ数日していたからだ。

ヤバいな…………うるさかったかも…………。

もしかしたら自分がいつまでも煩いから、あえて同じ椅子で向こうも音を出したという可能性はある。いや、全く音は気にしてなくて関係ないという可能性もなくはないのだが、どちらにせよ隣の部屋に患者がいたのは事実なのだ。これは失敗したなと反省しながら、そこから自分はなるべく音を立てないように気を付けて、病室では過ごすよう心がけることに決めたのだった。



※※※



ガタガタ、ガタン

真夜中の病室に響く物音で浅い眠りから目が覚めた。病院のベットは固くて寝心地が悪く、熟睡には至れないから眠りは酷く浅くて痛みが少し収まりつつある現状での一番の問題なのだ。やっと点滴をしながらウトウトしたばかりだった最中の物音に、隣も同じ様に何か辛くて眠れないのだろうかと心の中で同情を禁じ得ない。物音はその一瞬だけだったようで、その後はシンと静まり返っていてコトリとも音がしないのに、自分は目を細めてお互いに早くよくなりたいものですねと心の中で声をかける。

最初はそうだった

最初はとあえていったのは、その後何度も眠りに落ちる度に物音で目か覚めるのを一晩中繰り返したからだ。もしかして相手も痛みや何かで頻繁に目が覚めているかもしれないし、自分は点滴を24時間しているからトイレも頻回なので点滴台が煩いのかもしれない。そう思ったのだが、流石に一晩中それが続くともう少し静かにしてくれないものかと思う。何しろ目が覚めている時には何一つもの音がしないのだから、余計にそう思ってしまうのだ。

ガタンッ

まただと思いながら目が覚める。それでも昼の最中のことだから、物音がするのは仕方がないのかもしれないと溜め息混じりに壁を眺めベットに腰かけた。個室に入るのは自分のような軽症でも部屋がない場合と本人が希望した時、後は状態が悪くて大部屋では対処が難しい時なんだという。椅子の音や物音は、患者だけが立てるとは言いがたいのだ。

隣はなんなんだろう…………

もしかしたら患者は余命幾ばくもなく、家族が入れ替わり立ち替わりしているのかもしれない。そんな勝手なことを考えながら少しずつ自分は痛みもよくなっているのだからと、諦めの溜め息を深くついたのだった。
だけどそうは思っても、3日目になっても4日目になっても物音が自分を眠らせてくれない。
腹の痛みは大分改善してきて、米も何も入っていない重湯からとは言え食事も開始になったから、回復としては順調だと思う。点滴も量が減ってきて3部粥から5部粥と少しマトモな米のみえるしょくじになりはじめたのだけど、やはり夜も昼も眠ろうとすると物音が邪魔をする。

なんだろうなぁ…………

最初に眠りを邪魔されていると感じてしまったから、そのようにしか感じられないのかもしれない。それでも互いに病の中なのだから我慢しないとと、実は互いに考えているのかもしれないとも思う。




※※※



入院5日目。
点滴がなくなって、食事は5部粥だけだけど腹痛もない。医者から自由に歩いてもいい(ただし貧血があるので、ユックリとだけれど)と言われて、初めて病室から出て院内の売店までユックリ歩くことが出来た。下血したせいで貧血はかなり酷いとのことだけれど、今のところ歩くのに眩暈はないし不自由なこともない。ノンビリと売店まで行ってペットボトルを買って病棟の廊下まで戻った瞬間、そういえば隣の部屋はどうなっているのだろうと頭の中を過る。

扉……しまってるかもしれないけどな

自分だって個室の扉を開け放っているわけではないから、隣の部屋も同じかもしれない。そうは思うがいる気配だけでも確認してみようと思ったのが、大きな間違いだった。

隣の部屋………………。

何で病室を出た時に隣の病室に気がつかなかったのか。そう考えながら廊下を歩いていた自分は気にしなければよかったと心の底から思ってしまったのは、あるはずの隣の部屋が存在しなかったからだ。

ない?意味が分からないかもしれないだろうけど、これが本当。

単純なことなのだが、自分の病室の位置を間違っていたのだ。自分の部屋の方が角部屋で隣は廊下しかなく、今まで考えていたのと反対側に患者の入っていない空き部屋があった。壁を伝わって反対側の部屋の音が響いたのかも?うん、確かにそれは考えた。でも、覗き込んだ空き部屋には椅子もベットも、床頭台と呼ばれる可動式の棚もない。後から看護師に聞いたら故障とかのせいで他の病室で使っていて、修理が終わるまで室内にはなにも置いていないのだと言う。それにここには上の階がないし、屋上もない。

見なきゃよかった…………。

心の底からそう思うのは仕方がないことだろう?何しろまだ自分は退院できる目処がついていない。つまりは今夜もあの物音が聞こえたら、自分は病室の外を覗いてみない自信がないのだ。



※※※



物音は確かに原因が分からないものも多いですよね。

それを全て不可思議なもののせいとは言いがたいが、確かに原因が突き止められない音はあるものだ。特に病院ともなれば、人の出入りや物を運んだりと様々な音源があってもおかしくない。そう言うと久保田はそうですよねと和やかに微笑む。

それにしても、隣の部屋が物がないなんて…………

その言葉を何気なく自分が呟くと、何故か久保田は目を細めてグラスを磨きながら意味ありげに笑みを深めていた。その様子に不意に疑問が頭を持ち上げているのに気がついてしまう。音がするのは初めてのことなのか?それとも以前から聞こえているから、病室として機能しないようものをいれないのか?でも、入院した病室にはキチンと物が揃っていた………………音の出所は本当に壁の向こうだったのだろうか?
そんなことを考えていた自分の直ぐ背後で椅子が動くガタンという音が鳴り響き、自分は思わず背後の客のいない店内をマジマジと見つめていたのだった。
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