都市街下奇譚

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九十九夜目 『秘密の』

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これは、私の特別な友人から聞いた話なんですけどね、そうマスターの久保田はグラスを磨きながら口を開く。芳しい珈琲と紅茶の香りのする店内には客足は奇妙なほど途絶えている。白磁のポットが見守る中で、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※


因果応報なんて言葉があるけれど、世の中にはその一言ではすまされない出来事だってある。何しろ仕事の最中に階段から滑り、足を踏み外して転んだら骨が折れて。この骨折が因果だとしたら、その因果はどこから繋がるのか。これがもしも生まれる前の因果だとしたら、正直やってられない。

「平岡さん、骨折したって本当ですか?」
「うん、抗議の最中演壇踏み外してさ、勅使河原君も気を付けなよ。第三講義室の右側の階段。」

勅使河原叡は、文学部の教授なのに何でか建築学部の座学に一つ特別講義を持っている。その勅使河原叡も自分が転んだ第三講義室を使うことがあるから、平岡正顕は溜め息混じりにそう忠告したのだった。
件の第三講義室は一見すると、別段特色のないただの講義室に過ぎない。ところが図面などをキチンと確認すると左右の壁が実は微妙な非対称になっていて、演壇から席をみて右側の階段の幅が一段毎に踏み板の幅が少しずつ異なるのだ。ただしそれは目には殆んど分からない程度のものなので、現実にはセンチ単位の差があるのに一目では左右対称に見える錯覚を起こす。人間というものは視覚に左右されるもので、目で見て対称だと思っていると身体もそれは対称なのだと錯覚して動いてしまう。
お陰で時折そこを忘れて転ける講師や教授が必ず一人か二人いて、平岡のように骨折したり足を挫いたりする。結果としてそのため休講になったこともあって、第三講義室は授業潰しの異名を持つ所謂『魔の部屋』なのだ。ところが原因がちゃんと分かっているのに、その階段を改修するには演壇全部を撤去しないとならないのと案外まだ古くないのが災いして予算がたたない。それを平岡がこうして因果応報というのは、その講義室自体が、建築学部の何代か前の教授のチャレンジ精神に燃える設計で建てたものだからだ。そして殆ど怪我をするのは、そこで講義をしている建築学部の人間だからだとも言える。

「因果応報ですかぁ……。でもそれだと前世の行いですからねぇ。」

流石に文学部の教授だけあって、勅使河原は言葉の本当の意味で反応してくる。
因果応報は仏教用語で簡単に言えば、前世における行為の結果として現在における幸不幸があり、現世における行為の結果として来世における幸不幸が生じることなのだという。つまりはこの場合だと建てた人間の行為の結果として、その人物の来世に何か起きるというのが本来の意味であって、流石に設計者当人は逝去したとはいえ同じような怪我をするのが同じ学部の人間だから…………は少し拡大解釈で意味が違うと言いたいらしい。因果関係は適切でも因果応報は違うなんて、文学だなぁと言うと国際大百科だと違うんですなんてマニアックな話に代わり出す。

「因果ねぇ……………。」

何かのせいで何かが起きると考えてしまうのは人間の常だとは思うが、然りとて講義の最中に階段を踏み外して骨折した因果なんて余り考えたくはない。それでもそんな話をしてしまうとあの階段が気になってしまうのは、建築関係の教鞭をとるからだろうか。
そんなわけで何気なく話したせいで、どうしても気になって図面片手に演壇の階段を眺めていた平岡に不思議そうに声をかけたのは自分の講義をとっている学生だった。

「平岡教授、もしかしてそれここの図面?」
「あ、ああ、佐久間と源川か。」
「足平気ですか?手術しないの?」

案外キレイに折れたのでギプス固定だけの平岡の足を眺め、学生達はここってそんなに転ぶの?と不思議そうに問いかけてくる。こうして見ているだけでは数センチの幅の差は、まるで識別できないものだ。それでも足の踏み場が二センチ足りないと知らないで、そこに足を下ろすとあるべき過重のバランスがとれない。だから転ぶと説明すると二人は、以前講義で話したバリアフリー設計のミリ単位の段差でも危険性があるという話を思い出したようだ。

「何でそんな設計したの?教授がしたんでしょ?」

当時はまだバリアフリーや設計に安全性は求められていなかったのではないかと思うが、学問として教鞭をとっていた人間がするには確かにお粗末な設計と言えなくもない。確かに言われてみたら建築学部の教授なのだから、もう少しやりようがあったのではないかと平岡も図面を眺めて思う。

「………あれ………何かここ、空間ない?」
「…………あ、ほんとだ、何か空間ありそう。」

横から手元の平面図をスマホ片手に覗き込んでいた学生二人の指摘に、平岡は改めてその図面を眺めて目を丸くする。手にしているのは先達の建築様式を学ぶために何度も見てきた筈の設計図面なのに、その空間の存在を指摘されるまで気がつかなかったのだ。

何で気がつかない?

言われてしまえば、何故この演壇が歪な形なのか根本的な事を考えたことがなかった。外観の校舎の基礎はキチンとしているのに、演壇だけが歪になる理由はわざとそうしたとしか言えないのではないだろうか。自分がそれに気がつかなかったのは既に出来上がったものしか見ていなくて、この形でしか作れなかったと勝手に思い込んでいたからかもしれない。
学生二人が帰途についてからも、暫く平岡は演壇を眺めて考え込んでいた。

何で空間?空間…………秘密の空間…………空間なら出入りできるだろうか…………

普段当然のように講義をして歩き回る演壇。その歪な形の理由がそこに秘密の空間を作るためだとして、その空間には何が作られたのだろうか。もしかして設計者である教授が何か秘密の部屋でも作ったとか?そんな子供の秘密基地染みた事が、本当にあり得るだろうかと考え込む。演壇を歩いていても足の下に空洞があるような響きはなかったけれど、もしかしたら空間全てセメントとかで充填していたり?でもそうなると強度と荷重の問題もある筈だ。第三講義室は三階なのだから、設計図の空間を全て充填したら天井が抜けてもおかしくない。

空間だとして、何でこんな事を…………

もしかしたら建築学部の誰かが、こうして気がつくのではと思って作ったなんて事もあり得るのだろうか?そんな夢のような事はあり得るだろうかと考えながら、幅の違う踏み板に屈み込んで一枚一枚を観察する。組み込まれた板は触れてもビクともしないが、それに手を滑らせている内にふと疑問が沸き上がっていた。

踏み外す………………。

確かに数センチの幅の差で踏み外して転げ落ちるのは説明できるが、足の大きさに左右される部分もあるのに体格は関係なくここで転ぶ人間は後を絶たない。それが実はこの嵌め込まれた踏み板が、微妙に浮いて動くからだとしたら?踏んだ瞬間に板が下に向かって傾斜するなら、転げ落ちるのは当然とも言えないだろうか。そう考えながら何気なく平岡は、松葉杖から手を離して踏み板に全体重と共に手を乗せていた。

ガボン…………

無人の暗い第三講義室の中に響き渡ったくぐもった音に、平岡はゴクンと生唾を飲み込んで手の下に広がった埃っぽい闇を覗き込む。何年も……いや、何十年も誰も開けたことのない空間に、平岡は息を詰めて顔を近づけていく。

湿った…………土みたいな…………臭いがする………………

何十年も閉じ込められていた空気が何故か生臭く感じて、平岡は自分が冷や汗をかいているのに気がついていた。

ゴソリ………………

それはほんの微かなザラツク床を擦る音で、演壇の下に広がる空間の奥底から湿った空気と共に流れ出してきている。

なんの音だ……?他にも出入り口があるのか?

いや、他に出入り口があるのだとしても、開けた途端に物音が聞こえたということはここに何かがいるということになりはしないだろうか。そしてこっちはそれを何も知らないが向こうはここの事を熟知していて、ここをこうして平岡が開けたことで平岡の背後から光が射し込んでこっちは丸見え……だとかいう事はあり得るのか。

そうしたら…………向こうは寄ってくるか?

そう考えた瞬間床を擦る音がさっきよりも遥かに近く大きく聞こえていて、平岡の背筋が凍りついていた。



※※※



「平岡教授、今日も休講?」

足の骨折で入院と連絡が来ているらしいと他の聴講の学生から聞いて、佐久間翔悟と源川仁聖が思わず眉を潜めてしまうのは骨折後のギプスで松葉杖をつく平岡の姿を見ていたからだった。でもギプスで治りそうだったのだけれど、骨折面がずれてしまって手術が必要になったのだと言われるとなるほどとも思う。

「もしかして秘密の部屋でも見つけて無茶して入ってたりして?」

源川が笑いながらそんなことを口にするが、演壇の下に空間かありそうな設計図をみているから佐久間も何気なく背後の演壇を眺めてしまう。平岡が下に入り込むなんて姿を想像するのも妙だが、演壇の下にそんな空間を作る理由はなんだろうか。

秘密の空間には確固たる目的があるんだ

そう文学部教授でありながら秘密基地マニアの勅使河原教授は、秘密基地探求仲間である二人によく熱弁を振るっていた。秘密基地や秘密の部屋には、必ずそこに置くための『何か』が存在する。それが何かは秘密の場所を作った者のみぞ知るのだ。

「もしあそこにあるとして秘密の部屋…………ここに作る意味なんだろな?仁聖。」

二人の暮らす近郊にある喫茶店にあるとされる秘密基地は、喫茶店のマスターがどんな秘密基地を何に使っているのか興味がある。だから二人は勅使河原と一緒に密かにそれを探して来たけれど、大学の講義をうける場所の足の下にワザワザ作る理由はなんだろう。そしてその場所は『魔』のと呼ばれる程、人の怪我を引き起こす。

「……何か…………気持ち悪くないか?」
「確かに…………目的がわかんないな。」

二人は胡散臭そうに演壇を眺めて、そこにあるものには触れない方がいいかもしれないと結論をつけた様子だ。そうして演壇に登らない自分達にとっては左側の階段の前に、登り降りしないように密かにロープ柵を持ってきて設置したのだった。



※※※



自分はその話を聞いた途端黙り込み、話をしていた久保田の顔を見上げていた。そこには何時もと変わらない顔つきの久保田が、穏やかに見えるのに笑っていないと感じる瞳で自分を真っ直ぐに見つめている。

…………その話…………誰から聞いたんですか…………?

戸惑いに満ちた自分の声に、久保田は磨いていたグラスを音もさせずにそっと棚に置いて微笑む。幾つも幾つも様々な話を取り留めなく聞いてきたけれど、一体どれくらいの話をこの男から聞いてきただろうか。
そう、ここでこの男の話を聞き始めるきっかけになったのは、実はこの場所にあると思われるモノを聞き出そうとしたからだった。

秘密基地

そんなものが現実にあるわけがないと思うだろうが、実はこの場所の設計をした人物と自分は幼馴染みで知り合いだった。幼馴染みは守秘義務があったから詳細は教えられなかったが、長年の夢だった『秘密基地』を実現したと過去に自分に話してくれたのだ。建築家だった幼馴染みは他にも幾つか大きな建築物を設計していたが、公共建築物に秘密基地は流石に難しい。

秘密の小部屋なんてロマンですよね…………確かに

久保田はそう笑う。確かにそれに自分もロマンを感じて、ここにそれがあるかもとやってきたのは事実なのだ。だけど、今自分が絶句していたのはそのせいではない。今まで久保田や鈴徳良二の話は彼らの聞伝によるものでしかなく、所謂都市伝説伝播のための『友達の友達』のような存在からの聞伝でしかなかった。

久保田さんは……………………なんで…………

それなのにここに来て何故急にリアリティーを持ったのか。しかも平岡正顕が失踪する前に片足を骨折して松葉杖をついて学部に現れたのは、失踪当日のたった一日だけでギプス治療だけで大丈夫と会話したのはほんの数人なのだ。その後平岡が何処に行って何処を通って、その後にキャンパスからどうやって消えたのか誰も知らない。

足を折った男がどうやって公共機関も使わず、誰にも出逢わずに消息を絶てるのか。

勿論平岡と講義室で会話を交わした二人がいるのは知っている。ただ平岡はその後自分の教授室に松葉杖をついて向かっていて、他の学生と挨拶もしているから源川仁聖と佐久間翔悟は行方について何も知らないのはわかっている。そして平岡の失踪は学生には伏せられて、手術のため入院したと今は話を誤魔化している状況でもあった。
それでも確かに失踪後第三講義室内にロープ柵が密かに誰かの手で置かれたのを、自分も演壇の上から見ていて知ってもいたのだ。それでも全ては狭い範囲での話であって、大学のキャンパスからは数駅離れたここ近郊の喫茶店まで情報が流れた理由はなんなのだろう。

この話を…………なんで知ってる…………んですか?

不安に包み込まれながら自分が問いかけた言葉に、目の前の男は穏やかに見える顔で改めて微笑んでいた。

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