鵺の哭く刻

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悪化

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新幹線に乗りながらアキコは意味もなく一人で泣き出していた。
自分がしている行動が正しいかどうかを自分で考えることもない。ただアキコは自分にはそうする事しか道がないのだと奇妙な程に信じていて、そうすることが正しいと言うだろう男の言葉に完全にのまれてしまったのだ。アキコは検討するべきこともマトモに検討せず両親の思いすらも耳には届かず、盲目に呪詛の言葉に飲み込まれた。

お前は、ここにいていい人間ではない。
お前は、嫁に出た人間だから戻らなければならない。
お前は、俺の妻なのだからここにいてはいけない。
お前は、俺を愛しているのだから戻らないといけない。
一度崩れたモノは二度と元には戻らないし、そして一度溢れたモノも二度と元に戻る事はない。

そうアキコは今までの幾つかの経験の中からで、充分すぎる程に知っていた筈だった。元に戻ることはないのは本当ならアキコとシュンイチとの関係も含まれている筈なのに、それでもアキコはもう一度やり直せるかもと心の何処かで期待してもいたし、結婚したばかりの頃のような穏やかさを切望していた。
それが愛情なのかただの惰性の上の感情だったのかは、アキコ自身にも実は分からないのだ。ただ、それでも男の『愛している』という言葉があったことを信じたかったし、『今度こそやり直す』という言葉が成立すると信じたかったのだと思う。
でも現実には必死にその男の為に尽くし愛を捧げたつもりでいたのに、実はアキコ自身もそうではなかったのかもしれない。全てはアキコの自己満足でエゴだったのかもしれない。それでもアキコは男をまだ愛していると考えたし、戻る場所はもうその男の傍しかないとも考えてしまっていた。
それなのに何でこんなに意味もなく自分が泣き続けるのか、アキコは声もなく泣きながら穏やかに過ごせていた実家を後にする。それが自分が自分のために選択したことなのだと、苦い涙を流しながら心の中で言い訳のように繰り返していた。



※※※



そうして関東に戻りやっとのことで体調を整えて、なんとか職場にも復帰しようとしていたアキコに真っ先に向けられたのは、元いた病棟で新しく昇格した主任看護師の心ない言葉だった。挨拶のためと顔を出した病棟で、あからさまにスタッフの前で彼女は腕を組みこう言い放つ。

「精神病患者の気持ちなんか分からないんだけど。」

新しく主任に昇格したばかりのその人物から投げつけられた言葉で、アキコは一瞬にして心がへし折れるのを感じてしまった。アキコの休職は腰痛と体調不良としてあって、鬱病は実は前の主任と師長の計らいで伏せられていたのだ。一時的な精神的な不安定さは改善すれば問題ないからと主任は肩を叩いてくれて、顔出す度に「待ってるからね、無理しないで治しておいで」と声をかけてくれていた。その師長と主任がそれぞれの理由で退職して、新たに主任になった看護師はアキコを毛嫌いしていた女性だったのだ。
幸せな結婚に見えていたアキコを毛嫌いして良く仕事を押し付けて来る人だったその主任の放った言葉で、アキコはもう職場に戻る事を諦めた。アキコにとって頼りだったウノはその主任になった看護師が苦手だったし既にその職場も辞めてしまっていて、しかも看護師自体をもうしていないのだと聞くことになる。ウノシズコはアキコが休むようになって直ぐかなり年の若い青年と付き合うようになったと、違う病棟に移動になったヨツクラリオが偶々荷物を片付けていた更衣室で出逢って教えてくれたのだ。

「顔色悪いな、まだ体調整わないの?」

心配そうにそう問いかけるヨツクラが言うには何度かウノはヨツクラと一緒にアキコのアパートにも訪ねてきてくれたらしいが、何度訪れてもアキコが不在だったのだ。そしてアキコが暫く療養で関東にいない内に、ウノ自身が仕事を辞めて引っ越してしまったということなのだった。

ウノさん…………。

同じような経験をしてアキコを気遣ってくれた彼女がいなくなってしまっていて、ヨツクラも違う病棟にいってしまって勤務が合わずに連絡も取りにくい。そして独りぼっちのアキコには既に病棟スタッフの間でも精神病患者というレッテルが貼られてしまい、そこから逃れるには新しい職場を求めること位しかアキコにも考えられなくなっていた。

精神……病…………

言葉という衝撃が脆くなっていたアキコの心を酷く打ちのめし、何とか立ち上がろうとしていた心を完全にへし折っていた。確かに鬱病は精神科や心療内科の病名だ。そして、現在のようにメンタルヘルスに対しての理解は社会的に広がっていなかったし、同時にアキコ自身も理解してはいなかった。直ぐ様立ち直ることのできなかったアキコは、やむを得ず休職のまま傷病手当を受け取りながら生活を始める事になった。そして、その方法を知ったことが更に悪い結果を生もうとしていた。
傷病手当とは社会保険(健康保険)の傷病手当金の事で、傷病の療養のため仕事を休み給料が支給されなかったときに支給されるものである。支給期間の限度は、同じ傷病について支給を開始した日から1年6ヶ月が限度だ。それを受け始めたアキコの姿を見て何と男も同じように心療内科を嬉々として受診し、休職し傷病手当での生活を始めてしまったのだった。
アキコはその現実を絶望の中で見つめる。
鬱病と診断された患者と共にいることで同居している家族も気鬱に引き摺られ同じ病を発症することかあると現在では知られているのだが、アキコがみている限りシュンイチはそれとは違うと思う。診断書を出してもらうためにシュンイチがしたのは、アキコが一度目に自殺未遂を起こした時の遺書をしたためたノートを読み、その頃のアキコの訴えを自分のこととして医者に向かって話したのだ。
何故それをアキコが知っているのかって?
答えは単純でこの鬱病の妻であるアキコをワザワザ同伴して心療内科を受診し、その妻の目の前で当然のように症状を口にしたのだ。アキコを連れて行ったのは自分が言う症状を肯定させるためであって、アキコをどうにかしたいわけではないのは言うまでもない。

「…………眠れません、食事も食欲がなくて、朝が辛くて……。」

その思考や行動自体に呆れ果ててしまうが、まるでしおらしくそんなことを医者に向かって口にしている姿をアキコは黙ったまま見ていた。何でワザワザこうして連れていかれたかもうんざりするし、診断書を出して貰った後にクリニックの外に出て自分の演技は上手いもんだろと笑う男をどう考えていいのかアキコにはまるで分からない。
アキコはそこで初めて自分の内面の新たな変化に気がついた。
心はへし折られ自分は精神病であるのは事実だろうが、この男はそれを悪用して自分の利益を得ようとしたのだと気がついた瞬間、何かスイッチが切り替わった気がする。

馬鹿にして………………

始めにあったはずの愛情の存在が今の行動を見て完全にどす黒い憎しみに変わり果てて、全ては自分の内面に渦を巻き激しく煮え立つ憎悪にすりかわり始めていた。そして憎悪は、男だけではなく自分にも向けられていた。
これは全部自分の選んできた事のせいなのだと。
全ての現況は自分の存在のせいなのだと、アキコは考え始めていた。
ヤネオシュンイチはこれ程までに、陰湿に卑怯であざとい人間ではなかった筈だ。自分と関わってここまで堕落してしまったのは、呪われた自分の存在が隣にいるからなのだろうとしか思えなかった。帰ってきたのが間違いなのか、それとも出会ったこと自体が大きな間違いだったのか、もうそれも分からない。

「それじゃ遊びにいってくる。」

平然と休職して、その休みでゲームセンターに向かう男を、アキコは部屋から出ることもなく見送ることもしない。もうそうする気持ちにもならないアキコは、自分に向けられた憎悪は確実にアキコを再び自分を傷つけるための行為へと向けさせていく。だが、それを一番間近で見つめる男はやはり、それをただ見るだけで何かをしようとは決してしなかった。



※※※



二度目の過剰服薬の後、アキコは再び救急病院で目を覚ました。また失敗してしまったと心のどこかが呟くのを聞きながらアキコは真っ白な天井を見つめ、その横に座って漫画を読んでいた男がアキコが目覚めたのに気がつくと嘲笑いながら言った。

「薬飲んだんだってわかっていた。」

嘲笑う言葉。その時の気持ちを何とアキコは表現したら良いのだろう。
前日の夜中薬を多量に飲んだ後のアキコを、男は無理矢理引き摺るようにして夜中に歩かせていた。二度目だから今回は発泡するような飲み物で服用するなんて間抜けなことはしなかったし、両親が来るなどのきっかけもなかったのだが。それでも服用は直ぐに気がつかれていたらしく、シュンイチは最寄りのコンビニまで往復十分もアキコを無理矢理に歩行させた。アキコは既に薬に酩酊して呂律どころか記憶すらない状況で、それでも必死に歩き帰宅した扉の前で倒れたのだ。

「醜く膨らんだお前の腹を見たら、俺は同じ事はできないな。」

鼻で嗤うその言葉に、薬を飲むほど追い詰められているアキコの気持ちは何処にあるのだろう。男に笑われ嘲り罵られたアキコは日をおかずに退院し、よろめきながらまた暗闇の巣のような部屋に籠る。再び左の手首を切ったアキコを見つけると、二人分の傷病手当で遊び歩いてきた男はその傷を捻りあげながら罵った。

「当てつけにするのはやめろ。死ぬ気もないくせに。」

当て付け。確かにそうだろう。でも、そうするしかできなくなってしまったアキコの気持ちは何処にあるのだろう。殴られ嘲笑われ苦しむアキコは、どうやったら楽になれるのか。
更に荒廃していく自分の精神の中でアキコは、荒れ地の様なこの夫婦の関係を心の底から憎むのように変わっていく。痛みしかもたらさない愛情を憎み、自分を深く憎み、初めて自分の夫である男を心から憎んだ。そうしてアキコは今までよりもずっと深く暗い心の淀みの中で、自分の全てにけりをつけるためずっと慎重に丁寧に綿密に準備を始めていく。

今度は………………

深く心に刻まれた小さな愛情と遥かに大きな憎しみに飲み込まれたまま、けして失敗しないようにと今までの失敗の原因を考える。愛情を糧に育った強く深く全てを荒廃させるかのような深い憎悪が、まるで侵食していくかのように時にアキコを慰め、同時に時に苛む。

アキコは愛していると思ったからまだ傍にいたいと考えた筈なのに、だけど今のアキコは憎悪しているからアキコは全てを男には残さない事に決めていた。
結婚を期に自分にかけられた生命保険の受け取りは夫である男に一度変えていたのだが、アキコはこっそりとその受け取りを密かに実父に戻していた。それに元々男の方は、生命保険等に入ってはいないのだ。アキコだけが死亡した時に受け取れる生命保険には、アキコが結婚する遥か前・子供の頃から堅実な両親のすすめで入っていたのだ。勿論受取人を変えたことはシュンイチには決して口にはしなかった。受取人がアキコの父であって、シュンイチが受け取れないと気がつくのはきっとアキコが死んだ後の事になる。アキコが二人が暮らす場所に持つ物の権利は全て男に渡しても構わないが、アキコが死んだ事で利益を得ることだけはさせたくないと奇妙な程にハッキリと心の何処かでアキコは考えたのだ。

何故なら男は、その時病気と偽って普通の生活ができるのに病人として過ごしているから。

しかもアキコの苦悩を嗤い、アキコの真似をして病を装い働かずに傷病手当で遊び歩いてるのだから。そしてその自分の金銭がなくなると、アキコの傷病手当を遊興費に使うようになっていたのだから。それは過去にアキコをつけ回したあのイワキという男が、社会を欺いて遊び暮らしているのと言うなれば何も変わらない。

あんなにおぞましいと思った男と同じことを愛した男がやっている。

何時も男が楽なように、気分よくいられるように、そればかりを考えてそればかりを優先してきたアキコにだけ非があるのだと最初は心から信じていた。でもここにきてアキコに非があるからと言って、それにシュンイチが甘んじてもいいとはもう思っていない。自分から自立しようとしなかったシュンイチにも同じ位の非があるはずだ。つまりは、シュンイチもアキコと同罪なのだ。だからこそ、アキコがいなくなった後にアキコの死で利益を得る事は許さない。
いや、本当はそれだけではない。
男が憎かったのだ。
自分を省みる事もなく、自殺未遂をする姿を醜いと笑われ痛みを伴う傷を罵られる。そして自分をみろといい続け自分は他の女に向かい遊び歩く男を、自分の病を装い遊び歩く男を、アキコは今では自分自身と同じ位に憎悪していたのだ。
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