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悪化
113.
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アキコが何よりも憎悪したのは他ならない自分自身で、自分を憎悪する者は全てが見えなくなる。事実アキコにはもう周りは見えなくなりアキコは殆ど毎日を部屋に篭ってベットの中で過ごしているし、男が遊びに出歩いている時も殆ど一緒に出る事もない。次第に光すら苦痛になったアキコは窓を遮光のカーテンで締め切り、暗い室内で何をするでもなくテレビを眺め、眠り、何かを口に運ぶだけの生活に落ちていった。玄関のチャイムにすら反応せず、息を潜め居留守を決め込む。アキコのいる世界は更に荒廃の一途をたどり、やがてアキコは殆ど言葉を発しなくなった。
それは緩慢な死への準備だった。
ある意味では緩やかな自殺ともいえるほどの、時間をかけた綿密な準備を毎日している。
一言も発する事もなく、今までの失敗の原因を導き出す。
どうしたら今度は失敗しないのか。
どうしたら今度こそ全てを終わらせる事ができるのか。
それだけがアキコの思考を占めて、全てはそれだけに変わる。今まで興味があったものは遠のき、今まで好きだったものも全ての交流も、何もかもが全て遠のいて行く。そうしてアキコが望むのは全ての終結だけになっていった。
出逢って八年目の春を向かえ、アキコはもう何も男に望まなかった。
記念日を一緒に祝う事も何もかもがもうどうでもいい事で、そして男自身もその日が過ぎることに気がつくこともない。それこそが既に二人の関係を表しているような気がした。それでも準備さえ整いタイミングが合えば、アキコはその家で最後を迎えようとは思っていたのだ。
その日が来るまでは。
不意にかかってきたらしい電話の声にアキコはボンヤリと身を起こした。男が電話を受け何かを声高に話している。どうやら男の親からの電話らしいと、アキコはボンヤリとした眠りの向こうで聞いていた。男はアキコが起きて聞いていると思っていない様子で普通に会話を続けている。男はアキコがどれだけ物音に敏感なのか、実は知らないのだ。
「知らないよ………俺は使ってないから。アキだろ?」
その甲高い声音にアキコは音もなく更に身を起こして、自分が一体何を使ったのかとアキコはその会話に耳を澄ます。壁と受話器越しだというのに電話越しの義理の母親の声音が漏れ聞こえ、何かを詰問しているかのように少し甲高くとがって聞こえていた。そして親子だけあって声の甲高くなっていく様は、親子の声はよく似ている。
「だから、俺は貯金の事はあいつに任せてるから知らないって。」
アキコは不意にその言葉に目を見開いた。そしてアキコは眉を潜め緩慢な思考ではありながら、その言葉のさす物に思い至る。
男が勝手に最初の退職をした直後に、ヤネオの両親から渡された貯金通帳。だがそれに手をつけたのはアキコではなかったし、幾ら入ってるかも知らない。シュンイチが自分で保管している貯金通帳の話を、何故当の本人が電話で詰問されているのかとアキコは眉を潜める。
「知らないって、記帳もしてない、残金がそれしかないのも知らない!アキが勝手に取ったんだろ?!」
アキコは思わず重い体を引きずるようにして、その声音の背後に音をたてて立ち上がった。何時にない物音に青ざめ振り返った男が、アキコの姿に慌てたような表情で見つめ言葉を濁す。もうそれだけでアキコは全てを見通したような気がして、心の底から絶望しながら昔愛したはずの男を絶望の暗い淵から眺めた。
貯金の使い込んだのを私のせいにしたの、今。
憎悪に滾るアキコの目の色に、男は慌てて言葉を濁して電話を切る。その姿にアキコは音をたてて身を翻し、巣に閉じ籠るように扉を閉めようとした。しかし、男の手が歩み寄り腕をとるのが一歩早かった。
「アキ、今のは違うんだよ。」
猫なで声に吐き気を感じたアキコは、いつになく弱いその手から身を捩って逃れる。アキコはすぐさま踵を返しベットへとかけ戻って布団を被ったが、過食の為に急激に増えた体重を持て余す体が酷く息苦しく心臓は喘ぐような痛みを感じる。背後で男が何かを弁解する言葉すら耳に入らないままに、アキコは胸を鷲掴みにする様にして嗚咽しながら切れ切れに喘いだ。
私は泥棒の汚名まで着せられたんだ。精神病だけでなく。
「貯金通帳の残高がもうなくって……………泥棒でも入ったんだよ、な?」
白々らしい言葉が扉を開け隙間から射し込む電灯の明かり越しに追ってきて、アキコは布団の隙間から凄まじい憎悪が滲む視線で男を射抜くようにしながら睨み付けた。その激しい感情にアキコは自分の心臓の不穏な動きを感じた。痛みと同時に襲う呼吸の詰まるような感覚を覚えながら、アキコはまた視線を外す事無く睨み付け男を心底憎悪しながら苦い涙を溢していた。
「あ、……アキ。」
もう何もその男の存在はアキコには信じられなかったし、そしてアキコは不意にその現実に我に返り気がついたのだ。自分を泥棒扱いして親にまで平然と罪を擦り付けて話していた男は、アキコにとってまだ戸籍上では夫なのだった。
ここでは…死ねない。ここで死んだら、こいつと同じ墓に入れられる。
それはまるで閃光の様に脳裏をかけて心を貫いて、咄嗟にアキコは喘ぎながら「どっかへ言って」と男に向かって叫んでいた。アキコの剣幕に恐れをなしたかのように、いや、その場から逃げ出す口実を得たように男はゲームセンターに遊びに行くのだろうそそくさと車を出して姿を消す。
アキコは皮肉な気持ちでそれを改めて考えた。
ゲームセンターで一度に一万円近く使うような遊び方をしたら、今のような二人の生活状態が成り立つはずがない。アキコの身を心配して送ってくれたアキコの親から貰った金銭もシュンイチは当然のように持っていってしまうのだ。そんな男が、残っている貯金に手をつけていないはずがない。そう考えれば直ぐに分かる事だったけど、まさかアキコが盗んだことにするなんて微塵も思わなかった。
アキコはずっと眠りに逃避する事だけで精一杯でその行動に気がつこうとしなかったし、自分の準備だけで精一杯になってしまっていたのだ。それに憎いとは思っていても、まさかそこまでアキコを貶めることはないとどこかで信じてしまっていた。しかも、きっとあの男の親だから、アキコではなく息子の言葉だけを信じるだろう。つまりはアキコは嫁として嫁いだ家系で、完全な泥棒として認識されたのだ。
もういやだ、あいつと同じ墓に入りたくない。
アキコは燃えるような憎悪を自分と夫である男に向かって激しく放ちながら、必死に薬でぼやけた思考をめぐらせていた。それは混濁した意識に波紋をもたらすように心に漣を立てて、アキコに強い決意を抱かせる。
絶対に死ぬ………でも、ここでは死なない………絶対に………嫌だ…………。
アキコは薬でボヤけた世界の中にいたのに、心の中は激しく燃えさかる憎悪が自分の身の内をジリジリと焦がしていく。
自分が愛したはずだった男。
だけど男は何度も自分を裏切り、自分を傷つけてきた。
そして今、何よりも酷い裏切りをして見せた。
自分の保身の為に私を落としめた。最低の方法で。
それは、自分だけに向けていた深い憎悪が明確に彼に向かうのに十分な行為だった。
アキコは様々に思いを巡らせる。
あいつを殺して一緒に死ねばいいだろうか?どうやって殺してやったらいいだろう、どうしたらあいつを苦しめて殺してやれるだろうか。
だけどそれは直ぐに心が否定した。アキコは自分を消したいほど憎み、同等に男を憎んだ。だけど、一緒に消えたいとはもう少しも思えなかった。あの男と同時にこの世から消えるなんて、真っ平ごめんだ。そしてその考えに至ると男を殺したとして、自分がその罪を背負うことが嫌だと気がついた。アキコはその男を殺したという汚名を被るのもいやだったのだ。
自分が許せない。
自分を消してしまいたい。
あいつが許せない。
あいつをこのままのさばらせたくない。
その濁って淀んだどす黒い感情だけが心の中を巡り、アキコは息が詰まりそうな気がした。不意にその空気の中にさした一条の光のように携帯がメールを着信する。先程の電話に動揺した男が、隠し忘れたアキコの携帯が男の机の上で振動音をあげていたのだ。アキコはフラフラと立ち上がり、携帯を手に取るとメールに目を向ける。
『……………変わりないですか?』
その書き出しで始まるメールに目が向いた時、アキコの感情は大きく揺らぎ雷にでも打たれたかのようにわなないた。かと思うと、アキコは声を上げて泣き出した自分に気がつく。自分を案じる父親・アツシからのメールが淀んだ心に酷く痛かった。父親は何度も何度も送ってきてくれていたのだろう、それにアキコが返したのではない味気なく素っ気ない返事のメールが残されている。それにアキコは、虚しさと悔しさのないまぜになった思いで泣き続けた。汚い感情だけになってしまった自分の姿を恨めしく思いながらアキコは長く声を上げて泣き続け、やがて再び自分の心臓が奇妙な音を立てるのを感じる。
ここではいや……家に……、家に帰ろう…。
アキコは嗚咽を上げながら、受話器をとり懐かしい番号を押す。そうして懐かしい景色と思いに向かって心の底から、アキコは懇願していた。
「お願い………助けて、連れて帰って………迎えに着て………お願い。」
ただならぬアキコの泣きながらの声に両親は迷う事無く、もう一人で外を出歩く事の出来ないアキコを迎えに来ると約束した。そしてアキコは安堵したように受話器を置くと今だ止まらない涙もそのままに、痛みを感じる胸を押さえながら震える手でペンを持ったのだった。アキコは無表情にリビングに座り込み、一点を見据えるようにして待ち構えていた。男はぎょっとしたように息を飲んだが、何も話しかけもしないのをどう感じたのだろうかソロソロと家の中に入ってくる。ご機嫌取りに買ってきたお菓子を手渡そうと愛想笑いをするその男を、アキコは酷く冷ややかな視線で見つめながら口火を切った。
「実家に帰るから、迎えに来てくれるって。」
一瞬その言葉にもう見慣れた不快な表情が男の顔には浮かぶ。それでも今まで見たことの無いアキコの睨み付ける視線の異様さに、今は文句を言えるわけでもなく不承不承と言った風でその言葉に同意した。男の姿を横目に思い体を引きずるようにして衣類をバックにつめようとしてアキコは悲しげに手を止めた。
もうそこに男はいない。リビングにそそくさと姿を消してアキコただ独りしかいない。
ここ一年間の自分の姿がまざまざと目に見えるような気がした。
一年間、一度も私は服を買っていなかった。
一年間、私は化粧品も購入していない。
一年間、髪すらも切っていない。
一年間、私は自分の為に買ったのは薬ばかりだった事に気がついて私は涙が溢れそうになる。
一体この一年はなんだったのだろう。
ふとそんな想いが心を過ぎる。実家に帰る為に着る服も靴すらもない自分の醜い姿。荷物をまとめようにも、入れる服すらない。入れる下着すらない。アキコはいったいどうやってこの一年を生活していたのだろう。アキコは一体周りからどんな風にみえていたのだろう。
助けて欲しい男はもうただ憎むだけの存在になり、今やその憎悪は深く根深いような気がする。
しかしそれ以上アキコは自分自身が憎かった。
誤った方法を選び続けた自分。
誤った選択を正そうとできなかった自分。
そして今もなおこの場所で、夫である男の間違いも正せず、それ以上に自分の身を立てられずに泥棒にまでされてしまった。そして、全てに甘んじて布団の中に潜り込み全てから逃避してきた自分。
その全ての元凶は自分なのだと私は自分を呪っていた。
何もかもは自分が招き自分が悪化させたのだ。
そうアキコは自分を呪う。
でも、それも後、僅かの事なのよ。
アキコは殆どものの入らないバックの中に、先ほど密かに震える手でしたためた手紙と何とか集め続けた薬を大事な宝物のようにそっとくるむようにして丁寧に包み込んでいた。そしてそれを愛しい気持ちでソッと撫でながら、どうか今度は願いがかないますようにと心の中で呟く。そして、それから数日とたたないうちにアキコは電車に乗れない・外を歩けない自分の為に、無理を押して自家用車で迎えに来てくれた父親に伴われて懐かしい実家へと帰途についていたのだった。
久々にあったアキコを見て父親は酷く狼狽した瞳を浮かべた。
それもそのはずだろう。
久々に再会した小柄なアキコは、その体では考えられないほど醜く太り少し歩くだけで息切れがするような状態だった。それはまさに病的に見える太り方で、父親はいたわるようにアキコを車に乗せながらも、夫である男には何一つ声をかけようとしなかった。何故なら、その太りかた以上に初夏の陽気の最中に冬物の靴を履きパジャマのような服しか着る物のないアキコの状態で、いかにアキコが一人で過ごしてきたのか・男がどれだけ夫としてアキコの面倒を見ていたかが分かったからだろう。その地獄のような日々が、まさに目に見えるような気がしたのかもしれない。そんな様子に幸か不幸か、アキコは何も感じないままの瞳で数年自分が住んだ場所を車窓越しに眺める。
ここも見納めだ。
そうアキコは心の中で呟き、微かに安堵の微笑みを浮かべていた。
それは緩慢な死への準備だった。
ある意味では緩やかな自殺ともいえるほどの、時間をかけた綿密な準備を毎日している。
一言も発する事もなく、今までの失敗の原因を導き出す。
どうしたら今度は失敗しないのか。
どうしたら今度こそ全てを終わらせる事ができるのか。
それだけがアキコの思考を占めて、全てはそれだけに変わる。今まで興味があったものは遠のき、今まで好きだったものも全ての交流も、何もかもが全て遠のいて行く。そうしてアキコが望むのは全ての終結だけになっていった。
出逢って八年目の春を向かえ、アキコはもう何も男に望まなかった。
記念日を一緒に祝う事も何もかもがもうどうでもいい事で、そして男自身もその日が過ぎることに気がつくこともない。それこそが既に二人の関係を表しているような気がした。それでも準備さえ整いタイミングが合えば、アキコはその家で最後を迎えようとは思っていたのだ。
その日が来るまでは。
不意にかかってきたらしい電話の声にアキコはボンヤリと身を起こした。男が電話を受け何かを声高に話している。どうやら男の親からの電話らしいと、アキコはボンヤリとした眠りの向こうで聞いていた。男はアキコが起きて聞いていると思っていない様子で普通に会話を続けている。男はアキコがどれだけ物音に敏感なのか、実は知らないのだ。
「知らないよ………俺は使ってないから。アキだろ?」
その甲高い声音にアキコは音もなく更に身を起こして、自分が一体何を使ったのかとアキコはその会話に耳を澄ます。壁と受話器越しだというのに電話越しの義理の母親の声音が漏れ聞こえ、何かを詰問しているかのように少し甲高くとがって聞こえていた。そして親子だけあって声の甲高くなっていく様は、親子の声はよく似ている。
「だから、俺は貯金の事はあいつに任せてるから知らないって。」
アキコは不意にその言葉に目を見開いた。そしてアキコは眉を潜め緩慢な思考ではありながら、その言葉のさす物に思い至る。
男が勝手に最初の退職をした直後に、ヤネオの両親から渡された貯金通帳。だがそれに手をつけたのはアキコではなかったし、幾ら入ってるかも知らない。シュンイチが自分で保管している貯金通帳の話を、何故当の本人が電話で詰問されているのかとアキコは眉を潜める。
「知らないって、記帳もしてない、残金がそれしかないのも知らない!アキが勝手に取ったんだろ?!」
アキコは思わず重い体を引きずるようにして、その声音の背後に音をたてて立ち上がった。何時にない物音に青ざめ振り返った男が、アキコの姿に慌てたような表情で見つめ言葉を濁す。もうそれだけでアキコは全てを見通したような気がして、心の底から絶望しながら昔愛したはずの男を絶望の暗い淵から眺めた。
貯金の使い込んだのを私のせいにしたの、今。
憎悪に滾るアキコの目の色に、男は慌てて言葉を濁して電話を切る。その姿にアキコは音をたてて身を翻し、巣に閉じ籠るように扉を閉めようとした。しかし、男の手が歩み寄り腕をとるのが一歩早かった。
「アキ、今のは違うんだよ。」
猫なで声に吐き気を感じたアキコは、いつになく弱いその手から身を捩って逃れる。アキコはすぐさま踵を返しベットへとかけ戻って布団を被ったが、過食の為に急激に増えた体重を持て余す体が酷く息苦しく心臓は喘ぐような痛みを感じる。背後で男が何かを弁解する言葉すら耳に入らないままに、アキコは胸を鷲掴みにする様にして嗚咽しながら切れ切れに喘いだ。
私は泥棒の汚名まで着せられたんだ。精神病だけでなく。
「貯金通帳の残高がもうなくって……………泥棒でも入ったんだよ、な?」
白々らしい言葉が扉を開け隙間から射し込む電灯の明かり越しに追ってきて、アキコは布団の隙間から凄まじい憎悪が滲む視線で男を射抜くようにしながら睨み付けた。その激しい感情にアキコは自分の心臓の不穏な動きを感じた。痛みと同時に襲う呼吸の詰まるような感覚を覚えながら、アキコはまた視線を外す事無く睨み付け男を心底憎悪しながら苦い涙を溢していた。
「あ、……アキ。」
もう何もその男の存在はアキコには信じられなかったし、そしてアキコは不意にその現実に我に返り気がついたのだ。自分を泥棒扱いして親にまで平然と罪を擦り付けて話していた男は、アキコにとってまだ戸籍上では夫なのだった。
ここでは…死ねない。ここで死んだら、こいつと同じ墓に入れられる。
それはまるで閃光の様に脳裏をかけて心を貫いて、咄嗟にアキコは喘ぎながら「どっかへ言って」と男に向かって叫んでいた。アキコの剣幕に恐れをなしたかのように、いや、その場から逃げ出す口実を得たように男はゲームセンターに遊びに行くのだろうそそくさと車を出して姿を消す。
アキコは皮肉な気持ちでそれを改めて考えた。
ゲームセンターで一度に一万円近く使うような遊び方をしたら、今のような二人の生活状態が成り立つはずがない。アキコの身を心配して送ってくれたアキコの親から貰った金銭もシュンイチは当然のように持っていってしまうのだ。そんな男が、残っている貯金に手をつけていないはずがない。そう考えれば直ぐに分かる事だったけど、まさかアキコが盗んだことにするなんて微塵も思わなかった。
アキコはずっと眠りに逃避する事だけで精一杯でその行動に気がつこうとしなかったし、自分の準備だけで精一杯になってしまっていたのだ。それに憎いとは思っていても、まさかそこまでアキコを貶めることはないとどこかで信じてしまっていた。しかも、きっとあの男の親だから、アキコではなく息子の言葉だけを信じるだろう。つまりはアキコは嫁として嫁いだ家系で、完全な泥棒として認識されたのだ。
もういやだ、あいつと同じ墓に入りたくない。
アキコは燃えるような憎悪を自分と夫である男に向かって激しく放ちながら、必死に薬でぼやけた思考をめぐらせていた。それは混濁した意識に波紋をもたらすように心に漣を立てて、アキコに強い決意を抱かせる。
絶対に死ぬ………でも、ここでは死なない………絶対に………嫌だ…………。
アキコは薬でボヤけた世界の中にいたのに、心の中は激しく燃えさかる憎悪が自分の身の内をジリジリと焦がしていく。
自分が愛したはずだった男。
だけど男は何度も自分を裏切り、自分を傷つけてきた。
そして今、何よりも酷い裏切りをして見せた。
自分の保身の為に私を落としめた。最低の方法で。
それは、自分だけに向けていた深い憎悪が明確に彼に向かうのに十分な行為だった。
アキコは様々に思いを巡らせる。
あいつを殺して一緒に死ねばいいだろうか?どうやって殺してやったらいいだろう、どうしたらあいつを苦しめて殺してやれるだろうか。
だけどそれは直ぐに心が否定した。アキコは自分を消したいほど憎み、同等に男を憎んだ。だけど、一緒に消えたいとはもう少しも思えなかった。あの男と同時にこの世から消えるなんて、真っ平ごめんだ。そしてその考えに至ると男を殺したとして、自分がその罪を背負うことが嫌だと気がついた。アキコはその男を殺したという汚名を被るのもいやだったのだ。
自分が許せない。
自分を消してしまいたい。
あいつが許せない。
あいつをこのままのさばらせたくない。
その濁って淀んだどす黒い感情だけが心の中を巡り、アキコは息が詰まりそうな気がした。不意にその空気の中にさした一条の光のように携帯がメールを着信する。先程の電話に動揺した男が、隠し忘れたアキコの携帯が男の机の上で振動音をあげていたのだ。アキコはフラフラと立ち上がり、携帯を手に取るとメールに目を向ける。
『……………変わりないですか?』
その書き出しで始まるメールに目が向いた時、アキコの感情は大きく揺らぎ雷にでも打たれたかのようにわなないた。かと思うと、アキコは声を上げて泣き出した自分に気がつく。自分を案じる父親・アツシからのメールが淀んだ心に酷く痛かった。父親は何度も何度も送ってきてくれていたのだろう、それにアキコが返したのではない味気なく素っ気ない返事のメールが残されている。それにアキコは、虚しさと悔しさのないまぜになった思いで泣き続けた。汚い感情だけになってしまった自分の姿を恨めしく思いながらアキコは長く声を上げて泣き続け、やがて再び自分の心臓が奇妙な音を立てるのを感じる。
ここではいや……家に……、家に帰ろう…。
アキコは嗚咽を上げながら、受話器をとり懐かしい番号を押す。そうして懐かしい景色と思いに向かって心の底から、アキコは懇願していた。
「お願い………助けて、連れて帰って………迎えに着て………お願い。」
ただならぬアキコの泣きながらの声に両親は迷う事無く、もう一人で外を出歩く事の出来ないアキコを迎えに来ると約束した。そしてアキコは安堵したように受話器を置くと今だ止まらない涙もそのままに、痛みを感じる胸を押さえながら震える手でペンを持ったのだった。アキコは無表情にリビングに座り込み、一点を見据えるようにして待ち構えていた。男はぎょっとしたように息を飲んだが、何も話しかけもしないのをどう感じたのだろうかソロソロと家の中に入ってくる。ご機嫌取りに買ってきたお菓子を手渡そうと愛想笑いをするその男を、アキコは酷く冷ややかな視線で見つめながら口火を切った。
「実家に帰るから、迎えに来てくれるって。」
一瞬その言葉にもう見慣れた不快な表情が男の顔には浮かぶ。それでも今まで見たことの無いアキコの睨み付ける視線の異様さに、今は文句を言えるわけでもなく不承不承と言った風でその言葉に同意した。男の姿を横目に思い体を引きずるようにして衣類をバックにつめようとしてアキコは悲しげに手を止めた。
もうそこに男はいない。リビングにそそくさと姿を消してアキコただ独りしかいない。
ここ一年間の自分の姿がまざまざと目に見えるような気がした。
一年間、一度も私は服を買っていなかった。
一年間、私は化粧品も購入していない。
一年間、髪すらも切っていない。
一年間、私は自分の為に買ったのは薬ばかりだった事に気がついて私は涙が溢れそうになる。
一体この一年はなんだったのだろう。
ふとそんな想いが心を過ぎる。実家に帰る為に着る服も靴すらもない自分の醜い姿。荷物をまとめようにも、入れる服すらない。入れる下着すらない。アキコはいったいどうやってこの一年を生活していたのだろう。アキコは一体周りからどんな風にみえていたのだろう。
助けて欲しい男はもうただ憎むだけの存在になり、今やその憎悪は深く根深いような気がする。
しかしそれ以上アキコは自分自身が憎かった。
誤った方法を選び続けた自分。
誤った選択を正そうとできなかった自分。
そして今もなおこの場所で、夫である男の間違いも正せず、それ以上に自分の身を立てられずに泥棒にまでされてしまった。そして、全てに甘んじて布団の中に潜り込み全てから逃避してきた自分。
その全ての元凶は自分なのだと私は自分を呪っていた。
何もかもは自分が招き自分が悪化させたのだ。
そうアキコは自分を呪う。
でも、それも後、僅かの事なのよ。
アキコは殆どものの入らないバックの中に、先ほど密かに震える手でしたためた手紙と何とか集め続けた薬を大事な宝物のようにそっとくるむようにして丁寧に包み込んでいた。そしてそれを愛しい気持ちでソッと撫でながら、どうか今度は願いがかないますようにと心の中で呟く。そして、それから数日とたたないうちにアキコは電車に乗れない・外を歩けない自分の為に、無理を押して自家用車で迎えに来てくれた父親に伴われて懐かしい実家へと帰途についていたのだった。
久々にあったアキコを見て父親は酷く狼狽した瞳を浮かべた。
それもそのはずだろう。
久々に再会した小柄なアキコは、その体では考えられないほど醜く太り少し歩くだけで息切れがするような状態だった。それはまさに病的に見える太り方で、父親はいたわるようにアキコを車に乗せながらも、夫である男には何一つ声をかけようとしなかった。何故なら、その太りかた以上に初夏の陽気の最中に冬物の靴を履きパジャマのような服しか着る物のないアキコの状態で、いかにアキコが一人で過ごしてきたのか・男がどれだけ夫としてアキコの面倒を見ていたかが分かったからだろう。その地獄のような日々が、まさに目に見えるような気がしたのかもしれない。そんな様子に幸か不幸か、アキコは何も感じないままの瞳で数年自分が住んだ場所を車窓越しに眺める。
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