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第10章:木漏れ日の境界線
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土曜日の公園。
待ち合わせ場所に現れた風巻さんは、いつものタイトなスーツではなく、柔らかなアイボリーのニットにデニムという、驚くほど軽やかな服装だった。
「……山﨑さん。私服、いいな。似合ってる」
「風巻さんこそ……。なんだか、別の人のみたいです」
眩しさに目を細めながら、僕たちは公園の奥へと歩き出した。
猫を探すという名目の、散歩。
道すがら、彼は仕事の話を一切しなかった。代わりに、子供の頃に好きだった本の話や、実は運動が少し苦手だという意外な告白をしてくれた。
「完璧じゃない風巻さんを知るたびに、なんだか安心します」
「……俺もだ。君といると、自分が何者でもなくていい気がして、体が軽くなる」
植え込みの陰に、例の三毛猫を見つけた。
二人で息を殺してしゃがみ込み、どちらが先にシャッターを切るか競い合う。
触れそうなほど近い肩。木漏れ日の中で、彼が僕を見て穏やかに笑った。
――このままずっと、この時間が続けばいいのに。
その、幸せの絶頂を切り裂くように、彼のポケットでスマートフォンが激しく震えた。
一瞬で、彼の顔から温度が消える。
「……すまない」
画面を見た彼の指が、あの日と同じように微かに震えていた。
「トラブルか?」
「……海外の取引先との、数字に齟齬があったらしい。今から確認して、明日の朝までに修正案を出さないと、月曜の契約が飛ぶ」
せっかく脱いだはずの「エース」の重圧が、一瞬で彼を包み込む。
彼は公園のベンチに座り、ノートパソコンを開いた。だが、強い日差しのせいで画面が見えづらく、さらに焦りからか、彼のタイピングが乱れていく。
「くそっ、この資料、会社に戻らないと……でも今からじゃ間に合わない……」
追い詰められ、呼吸が浅くなっていく隼人さん。
その時、僕は彼の横に座り、自分の薄手の上着を広げて、彼のパソコンの画面を覆うように「陰」を作った。
「風巻さん、落ち着いて。僕がここで日除けになってますから」
「山﨑さん……」
「僕は低スペックで、その難しい資料のことは分かりません。でも、数字の読み上げや、データの照合くらいなら手伝えます。二人でやれば、会社に戻る時間を短縮できるはずです」
僕は自分のスマートフォンを出し、彼が指示したサーバーから、かつて僕がメール室で仕分け、記憶していた「過去の類似案件のデータ」の番号を検索して見せた。
「……これ、あの時の書類の控え番号です。照らし合わせてみてください。きっと役立つはずです」
メール室で何千通もの封筒を見続けてきた、僕だけの「記憶の整理術」。
ハイスペックな彼が気づかなかった小さな矛盾を、地下の住人が拾い上げる。
隼人さんは目を見開き、そして力強く僕の手を握った。
「……ありがとう、智之。助かる」
初めて呼ばれた、名前。
木漏れ日の下、僕たちは「エース」と「メール室」ではなく、たった一つの難問に立ち向かう、最高のパートナーになっていた。
待ち合わせ場所に現れた風巻さんは、いつものタイトなスーツではなく、柔らかなアイボリーのニットにデニムという、驚くほど軽やかな服装だった。
「……山﨑さん。私服、いいな。似合ってる」
「風巻さんこそ……。なんだか、別の人のみたいです」
眩しさに目を細めながら、僕たちは公園の奥へと歩き出した。
猫を探すという名目の、散歩。
道すがら、彼は仕事の話を一切しなかった。代わりに、子供の頃に好きだった本の話や、実は運動が少し苦手だという意外な告白をしてくれた。
「完璧じゃない風巻さんを知るたびに、なんだか安心します」
「……俺もだ。君といると、自分が何者でもなくていい気がして、体が軽くなる」
植え込みの陰に、例の三毛猫を見つけた。
二人で息を殺してしゃがみ込み、どちらが先にシャッターを切るか競い合う。
触れそうなほど近い肩。木漏れ日の中で、彼が僕を見て穏やかに笑った。
――このままずっと、この時間が続けばいいのに。
その、幸せの絶頂を切り裂くように、彼のポケットでスマートフォンが激しく震えた。
一瞬で、彼の顔から温度が消える。
「……すまない」
画面を見た彼の指が、あの日と同じように微かに震えていた。
「トラブルか?」
「……海外の取引先との、数字に齟齬があったらしい。今から確認して、明日の朝までに修正案を出さないと、月曜の契約が飛ぶ」
せっかく脱いだはずの「エース」の重圧が、一瞬で彼を包み込む。
彼は公園のベンチに座り、ノートパソコンを開いた。だが、強い日差しのせいで画面が見えづらく、さらに焦りからか、彼のタイピングが乱れていく。
「くそっ、この資料、会社に戻らないと……でも今からじゃ間に合わない……」
追い詰められ、呼吸が浅くなっていく隼人さん。
その時、僕は彼の横に座り、自分の薄手の上着を広げて、彼のパソコンの画面を覆うように「陰」を作った。
「風巻さん、落ち着いて。僕がここで日除けになってますから」
「山﨑さん……」
「僕は低スペックで、その難しい資料のことは分かりません。でも、数字の読み上げや、データの照合くらいなら手伝えます。二人でやれば、会社に戻る時間を短縮できるはずです」
僕は自分のスマートフォンを出し、彼が指示したサーバーから、かつて僕がメール室で仕分け、記憶していた「過去の類似案件のデータ」の番号を検索して見せた。
「……これ、あの時の書類の控え番号です。照らし合わせてみてください。きっと役立つはずです」
メール室で何千通もの封筒を見続けてきた、僕だけの「記憶の整理術」。
ハイスペックな彼が気づかなかった小さな矛盾を、地下の住人が拾い上げる。
隼人さんは目を見開き、そして力強く僕の手を握った。
「……ありがとう、智之。助かる」
初めて呼ばれた、名前。
木漏れ日の下、僕たちは「エース」と「メール室」ではなく、たった一つの難問に立ち向かう、最高のパートナーになっていた。
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