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54.王太女に戻るとき①
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木を燃やしたような、ほのかな香り。幼い頃どこかで嗅いだ記憶が呼び起こされる。この人の懐は、いつも暖かくて落ち着くのだ。
わたしが目を覚まして最初に見たのは、割れた腹筋だった。びっくりして飛び起きようにも、抱きしめられていて身動きができない。唯一自由になる頭を上げると、そこにはグラシアンの寝顔があった。
「……っ!」
濡れ羽色の長いまつげ、高い鼻梁。艶を帯びた唇。視覚破壊が強すぎて、こっちは朝から心臓が止まりそうだ。
――眠っていても隙がないわね、この男。
人間、寝てる間にいびきをかいたり、涎を垂らしたりすることもあるというのに。グラシアンの目を閉じた顔は威圧感もなくて、意外に穏やかだった。そして、彼の上半身はシャツを纏っていない。
――わたしに、身体を見られたくなかったわけではないのね。
昨晩、グラシアンはわたしのまえでボタン一つ外さなかった。わたしを四つん這いにさせたとき、彼はブリーチズの前を開けたはずだが、わたしは見ていない。一方的に裸にされて果てはお尻の穴まで見られたのだ。こんな屈辱があるだろうか。
恥ずかしさと悔しさが頭のなかを占めて、腹いせに目の前の六つに割れたお腹を触ってやった。力も入っていないのに硬くて弾力があって、わたしの軟弱な身体とは大違いだ。グラシアンが眠っているのをいいことに、筋肉のついた腕や顎から鎖骨につながる美しい首筋にも手を伸ばす。くすぐったいのか、一瞬グラシアンの眉間に皺が寄ったが、わたしは彼が起きたら起きたでかまわなかった。言いたいことが山ほどある。
結局、わたしたちは最後までしなかった。正直、そこまでわたしに魅力がないのかと落ち込むけれど、考えてみればそれでよかったかもしれない。
初夜の床で王太女が処女でないと知ったら、グラシアンはどう感じるか。新妻を愚かでふしだらな女と蔑むだろう。本当のことを話して、王太女がメイドだとは知られるわけにもいかない。
グラシアンが王太女と結婚するのは、自分の野望を叶えるためだ。どんな野望かまだ知らないが、わたしは次期女王の威厳を保つために、彼の能力を利用しつつも牽制し続けなくてはならない。今以上に冷たい対応を取らざるを得ないし、グラシアンもそんな女とずっと一緒にいれば嫌気がさすだろう。いずれ、気持ちがほかの女性に向かってしまうことも予想にたやすい。
――いやだ。
考えただけで、胸が苦しくなった。彼に愛されなくとも、無視されたり嫌われたりするなんて、考えたくもない。
空恐ろしくなったわたしが頭を振ると、何故かグラシアンの拘束が緩んだ。その隙に抜け出したわたしは、髪も身体がさっぱりして、おまけに新しいシュミーズを身に着けていることに気が付いた。
――もしや、グラシアンがやってくれたの?
火の精霊魔法に、身体を綺麗にする類のものはない。グラシアンに直に身体を洗われたり、下着を着せられたりする姿を想像して、羞恥心と申し訳なさに顔が熱くなる。
――絶対、『この女重たい』って思われたわ!
絶望感に襲われ下を向いたわたしの目に、むき出しの腕や胸の谷間に描かれたいくつもの紅い小花が飛び込んできた。
――虫刺され?
いいや、違う。キスマークだ。首元が開いた服を着られないからやめてと言ったつもりが、記憶していたよりはるかに多くなっている。
そのとき、ドンッ、ドンッと窓ガラスを叩く音がした。ふりむけば、明け方の薄闇の景色のなか、赤くて可愛い幻獣が窓の外で浮いている。
「おはよう、アンバー。昨日はゆっくり休めた?」
窓ガラスを開けると、グレードサラマンダーが勢いよく飛び込んでくる。朝の挨拶なのか、ピィピィと小鳥のようにさえずっていた。
「あなたは、いつも可愛いわね」
赤い幼獣はうんうんと頷いてから、眠るグラシアンの上でパクパクと口を動かす。あれは彼から漂う火のマナを食べているに違いない。それを尻目にわたしはバスルームを借りて、身支度を済ませる。昨日贈られた小花柄のワンピースをもう少し着たくて、ハンガーから外した。
着替えて出てくると、アンバーが早くもトランクの取っ手を四本指で器用に掴んでいた。
「わたしを送ってくれるの? アンバー、王宮までの抜け道を知っているの?」
アンバーが首を縦に何度も振る。
「ありがとう、荷物を持ってくれるのね。……ちょっと待っていて、アンバー」
わたしは振り返って、眠るグラシアンの頬に手を添える。深く眠っているのか、ピクリともしない。いつまでも触っていたい滑らかな肌触りだけれど、顎のところはちょっとだけガサガサした。
――そうね、男の人だもの。髭が伸びるわよね。
あたりまえのことなのに、妙に感心してしまう。わたしは屈んで、その口元に自分の唇を寄せた。
「素敵な時間をありがとう、グラシアン様。昨夜のことは、わたしにとって一生の宝物よ」
アンバーに促されて、窓から外へ出る。去り際にそっと『さようなら』と呟き、未練を断ち切るために振り返らなかった。だから、わたしは彼がわたしの背中をじっと見つめていたことに最後まで気が付かなかったのだ。
わたしが目を覚まして最初に見たのは、割れた腹筋だった。びっくりして飛び起きようにも、抱きしめられていて身動きができない。唯一自由になる頭を上げると、そこにはグラシアンの寝顔があった。
「……っ!」
濡れ羽色の長いまつげ、高い鼻梁。艶を帯びた唇。視覚破壊が強すぎて、こっちは朝から心臓が止まりそうだ。
――眠っていても隙がないわね、この男。
人間、寝てる間にいびきをかいたり、涎を垂らしたりすることもあるというのに。グラシアンの目を閉じた顔は威圧感もなくて、意外に穏やかだった。そして、彼の上半身はシャツを纏っていない。
――わたしに、身体を見られたくなかったわけではないのね。
昨晩、グラシアンはわたしのまえでボタン一つ外さなかった。わたしを四つん這いにさせたとき、彼はブリーチズの前を開けたはずだが、わたしは見ていない。一方的に裸にされて果てはお尻の穴まで見られたのだ。こんな屈辱があるだろうか。
恥ずかしさと悔しさが頭のなかを占めて、腹いせに目の前の六つに割れたお腹を触ってやった。力も入っていないのに硬くて弾力があって、わたしの軟弱な身体とは大違いだ。グラシアンが眠っているのをいいことに、筋肉のついた腕や顎から鎖骨につながる美しい首筋にも手を伸ばす。くすぐったいのか、一瞬グラシアンの眉間に皺が寄ったが、わたしは彼が起きたら起きたでかまわなかった。言いたいことが山ほどある。
結局、わたしたちは最後までしなかった。正直、そこまでわたしに魅力がないのかと落ち込むけれど、考えてみればそれでよかったかもしれない。
初夜の床で王太女が処女でないと知ったら、グラシアンはどう感じるか。新妻を愚かでふしだらな女と蔑むだろう。本当のことを話して、王太女がメイドだとは知られるわけにもいかない。
グラシアンが王太女と結婚するのは、自分の野望を叶えるためだ。どんな野望かまだ知らないが、わたしは次期女王の威厳を保つために、彼の能力を利用しつつも牽制し続けなくてはならない。今以上に冷たい対応を取らざるを得ないし、グラシアンもそんな女とずっと一緒にいれば嫌気がさすだろう。いずれ、気持ちがほかの女性に向かってしまうことも予想にたやすい。
――いやだ。
考えただけで、胸が苦しくなった。彼に愛されなくとも、無視されたり嫌われたりするなんて、考えたくもない。
空恐ろしくなったわたしが頭を振ると、何故かグラシアンの拘束が緩んだ。その隙に抜け出したわたしは、髪も身体がさっぱりして、おまけに新しいシュミーズを身に着けていることに気が付いた。
――もしや、グラシアンがやってくれたの?
火の精霊魔法に、身体を綺麗にする類のものはない。グラシアンに直に身体を洗われたり、下着を着せられたりする姿を想像して、羞恥心と申し訳なさに顔が熱くなる。
――絶対、『この女重たい』って思われたわ!
絶望感に襲われ下を向いたわたしの目に、むき出しの腕や胸の谷間に描かれたいくつもの紅い小花が飛び込んできた。
――虫刺され?
いいや、違う。キスマークだ。首元が開いた服を着られないからやめてと言ったつもりが、記憶していたよりはるかに多くなっている。
そのとき、ドンッ、ドンッと窓ガラスを叩く音がした。ふりむけば、明け方の薄闇の景色のなか、赤くて可愛い幻獣が窓の外で浮いている。
「おはよう、アンバー。昨日はゆっくり休めた?」
窓ガラスを開けると、グレードサラマンダーが勢いよく飛び込んでくる。朝の挨拶なのか、ピィピィと小鳥のようにさえずっていた。
「あなたは、いつも可愛いわね」
赤い幼獣はうんうんと頷いてから、眠るグラシアンの上でパクパクと口を動かす。あれは彼から漂う火のマナを食べているに違いない。それを尻目にわたしはバスルームを借りて、身支度を済ませる。昨日贈られた小花柄のワンピースをもう少し着たくて、ハンガーから外した。
着替えて出てくると、アンバーが早くもトランクの取っ手を四本指で器用に掴んでいた。
「わたしを送ってくれるの? アンバー、王宮までの抜け道を知っているの?」
アンバーが首を縦に何度も振る。
「ありがとう、荷物を持ってくれるのね。……ちょっと待っていて、アンバー」
わたしは振り返って、眠るグラシアンの頬に手を添える。深く眠っているのか、ピクリともしない。いつまでも触っていたい滑らかな肌触りだけれど、顎のところはちょっとだけガサガサした。
――そうね、男の人だもの。髭が伸びるわよね。
あたりまえのことなのに、妙に感心してしまう。わたしは屈んで、その口元に自分の唇を寄せた。
「素敵な時間をありがとう、グラシアン様。昨夜のことは、わたしにとって一生の宝物よ」
アンバーに促されて、窓から外へ出る。去り際にそっと『さようなら』と呟き、未練を断ち切るために振り返らなかった。だから、わたしは彼がわたしの背中をじっと見つめていたことに最後まで気が付かなかったのだ。
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