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第1話 洗礼の日、あるいは内政の始まり
しおりを挟む大陸歴千四百八十二年。春の月。
バーンズ伯爵領の朝は、石畳を叩く硬質な車輪の音と、市場へ向かう人々の喧騒によって幕を開ける。
マイルズ・バーンズは、その音で目覚めたわけではなかった。
彼の意識は、東の窓から差し込む陽光がその角度を変え、寝台にかけられた深紅の天蓋を淡く照らし出す、その正確な時刻に覚醒していた。
十歳になった今日まで、一日たりともその習慣が崩れたことはない。
(もう、十年か)
ベッドの上でゆっくりと上体を起こす。
絹の寝間着が滑り落ち、まだ少年のそれである細い肩が露わになる。しかしその線は、同年代の子供たちと比べれば明らかに引き締まっていた。日々の剣と魔法の修練の賜物である。
マイルズはぼんやりと、自らの手のひらを見つめた。
白く、滑らかで、傷一つない子供の手だ。この手で、彼は今生の父や母、そして妹に触れる。この手で剣を握り、書物のページをめくる。
だが、この手の内側にある魂は、この滑らかな皮膚よりも遥かに多くの皺と、インクと、そして血の匂いを記憶していた。
間(はざま) 健(けん)。
それがマイルズ・バーンズの前世の名前だった。
日本の、それなりに大きな病院に勤める外科医。三十代半ばで、ようやく執刀医として脂が乗ってきた矢先。連続した当直勤務の帰り道、居眠り運転のトラックに撥ねられ、あっけなく死んだ。
その記憶が蘇ったのは、皮肉にもこの世界で生後三か月の頃。高熱にうなされ、この世界の侍医たちが匙を投げた時だった。
朦朧とする意識の中で、彼は前世の医学知識を総動員し、自らの症状が単なる乳幼児の発熱ではなく、何か特定の感染症である可能性を推測した。そして何より、不衛生な布で体を拭こうとする侍女の手を必死で払い除け、清潔な、煮沸した湯で冷やした布を要求した。
赤ん坊の必死の抵抗は奇行と映っただろうが、結果として彼は生き延び、そして思い出した。
それから十年。
彼はマイルズ・バーンズとして生きてきた。
バーンズ伯爵家の長男。次期領主。
そして今日、十歳の誕生日を迎えた。
この世界において、十歳は特別な意味を持つ。
貴族平民問わず、全ての子供が十歳になると、土地の教会あるいは大聖堂で「洗礼式」を受けるのだ。
それは単なる宗教儀礼ではない。
神の祝福を受け、自らの魔力の多寡や、魔法の適性、あるいは「スキル」と呼ばれる特殊な才能の有無を公に判定される、人生最初の関門だった。
この結果次第で、その後の人生が大きく左右される。貴族であれば、家督相続の序列にすら影響を与えかねない。
(だからこそ、今日が始まりだ)
マイルズは寝台から降り立ち、窓辺へと歩を進めた。
重厚な窓ガラス。これはバーンズ領の数少ない特産品である、魔力を帯びた砂から作られる高級品だ。王都でも重宝されている。
そのガラス越しに、領都の全景が広がっていた。
バーンズ領。王都から馬車で五日。
王国の東端に位置する、決して豊かとは言えない領地だ。
背後には険しい山脈が連なり、冬は厳しく、雪も深い。領地を貫く大河はあるが、毎年のように氾濫と日照りを繰り返し、農業生産は安定しない。
先代、先々代の伯爵たちの努力により、街道の整備や、前述のガラス産業の育成は行われた。だが、それだけでは領民全ての腹を満たすには至っていない。
マイルズの部屋は、領主の館である城館の最上階近くにある。
そこから見下ろす領都は、一見すると活気があるように見える。
石造りの家々が並び、市場には朝早くから人々が集まっている。
しかし、元医師であり、前世で公衆衛生を学んだ知識を持つマイルズの目には、その風景は「死」と隣り合わせの危うい均衡の上にあるようにしか見えなかった。
(ひどいものだ)
彼の視線は、市場の広場に据えられた共同井戸に向けられていた。
領民たちが桶を片手に列を作っている。生活用水の全てを、ほぼあの一か所に依存しているのだ。
そして、その井戸からわずか五十メートルも離れていない場所に、領都の汚水を集める大きな溜池が存在していた。
もちろん、溜池は井戸よりも低い位置に作られてはいる。最低限の知識はあったのだろう。だが、大雨が降ればどうなるか。あるいは、地下水脈がどこかで繋がっていたとしたら。
井戸水による集団感染。前世では歴史の教科書でしか見なかったような悲劇が、ここでは日常と紙一重だ。
市場で売られている肉。
朝早くから解体され、血抜きも不十分なまま、木の板の上に無造作に積まれている。気温が上がれば、瞬く間に腐敗が始まるだろう。
食中毒。あるいは、寄生虫。
人々が路上に吐き捨てる唾。家畜の糞尿の処理の甘さ。
全てが、マイルズの知識に警鐘を鳴らしていた。
(内政、か)
領主とは、領地の経営者だ。
父ロッシュは、厳格だが有能な領主だと聞いている。税収を管理し、軍備を整え、王家との関係を維持する。それがこの世界の「領主の仕事」だ。
だが、マイルズの目から見れば、それはあまりにも対症療法的で、不十分だった。
もっと根本的な問題。領民たちが健康で、文化的に生きるための基盤(インフラ)が、この領地には決定的に欠けている。
(俺がやるしかない)
転生者であることの是非など、とうに考えなくなった。
この知識を持って生まれてきた意味があるとするならば、それは目の前の人々を救うためだ。前世で救えなかった多くの命の代わりに、今世で救える命を救う。
医者としての本能が、そうしろと命じていた。
そして、バーンズ伯爵家の長男としての責任感が、それを後押ししていた。
コンコン、と。
控えめなノックの音が、マイルズの思考を中断させた。
「マイルズ様。お支度の時間でございます」
侍女長のマーサの声だ。
「ああ、入ってくれ」
マイルズが応えると、重い扉が静かに開き、マーサを筆頭に三人の侍女が入室してきた。
彼女たちはマイルズの前に深々と頭を下げると、手際よく湯の入った銀の盆や、清潔なタオル、そして今日のために仕立てられた正装を運び込む。
「おはようございます、マイルズ様。十歳のお誕生日、誠におめでとうございます。そして、洗礼式、心よりお祝い申し上げます」
マーサが、年季の入った顔に柔和な笑みを浮かべて言った。彼女は、マイルズが生まれた時から彼の世話をしている。
「ありがとう、マーサ。今朝も早いな」
「とんでもないことでございます。さあ、まずは身を清めましょう」
侍女たちによって手際よく体が拭かれ、髪が整えられていく。
そして、鏡の前に立たされた。
目の前に、今日の主役が出来上がっていく。
洗礼式用の正装は、バーンズ家の血統を示す深紅を基調とした、豪奢なものだった。
金糸で縁取られた白い上着、同色の短ズボン、ハイソックス。
そして、鏡に映る自分の姿に、マイルズは(十年経っても)未だに軽い眩暈を覚える。
(完璧すぎる)
我ながら、そう思う。
母マリアから受け継いだ、月の光を溶かし込んだようなきめ細かな銀髪。
父ロッシュ譲りの、理性を感じさせる怜悧な青い瞳。
幼いながらも、その造作は寸分の隙もなく整っていた。肌は雪のように白く、長い睫毛が知的な瞳に影を落とす。
神は二物を与えず、と前世では言った。
だが、この世界の神は随分と気前が良いらしい。
この完璧な容姿に、前世の知識(チート)まで与えたのだ。
そして、とマイルズは内心で付け加える。
(まあ、そちらの「出来」も、どうやら神に愛されているようだが)
入浴の際や、こうして着替えの際に確認する自らの(まだ幼い)身体的特徴。
それは明らかに、同年代の少年たちの標準を逸脱していた。
前世の知識がなくとも、これが「規格外」であることは理解できた。
侍女たちが時折、赤面しながら視線を逸らす理由も、マイルズは正確に理解している。
これが成長した暁には、色々と面倒なことになるだろうという予感もあったが、今はまだ、考えるべきことではない。
「……素晴らしい。マイルズ様。きっと、教会にいらっしゃる天使様も、マイルズ様の美しさに嫉妬なさいますわ」
マーサがうっとりとため息をついた。
「お世辞はいい、マーサ。時間だ。父上たちを待たせるわけにはいかない」
「はい。旦那様も奥様も、リリア様も、食堂でお待ちでいらっしゃいます」
マイルズは最後に鏡の中の自分を一瞥し、背筋を伸ばした。
十歳の少年の姿をした、三十代の外科医。
今日、彼はこの世界で正式な「個」として認められる。
そして、自らの知識を、この領地のために解禁する。
食堂へ向かう長い廊下を、マイルズは迷いのない足取りで進んだ。
磨き上げられた床に、彼の小さな靴音が小気味よく響いた。
食堂の扉を開けると、そこには既に家族の顔が揃っていた。
「おはよう、マイルズ。随分と待たせたな」
上座に座る父、ロッシュ・バーンズ伯爵が、分厚い羊皮紙の束から顔を上げて言った。
齢三十八。厳格な面差しに、領主としての重責が刻まれている。短く刈り込んだ黒髪、鋭い青い瞳はマイルズに受け継がれている。
今朝は領地の税収に関する報告書に目を通していたようで、その表情はやや険しい。
「おはようございます、父上。お待たせして申し訳ありません」
マイルズは完璧な貴族の礼法で頭を下げた。
「まあ、アルノ…マイルズ。なんて立派になって」
父の隣に座る母、マリアが感極まったように目元をハンカチで押さえた。
マリアは、その銀髪と類い稀な美貌をマイルズに与えた張本人だ。王都でも有名な侯爵家の出身で、その美しさは三十五歳になった今も衰えを知らない。ただ、彼女は体が少し弱い。特に、季節の変わり目には咳き込むことが多い。
(これも、この世界の医療レベルの低さ故だ。本来なら、予防できるはずなのに)
マイルズは、母の健康も自分の「内政」の対象だと考えていた。
「おはようございます、母上。お加減はいかがですか」
「ええ、ありがとう。あなたの晴れ姿を見たら、どんな病気も吹き飛んでしまいそうだわ」
そう言って微笑む母は、本当に嬉しそうだった。
「お兄様! かっこいい!」
テーブルを半周して、小さな影がマイルズに飛びついてきた。
妹のリリア。八歳。
マイルズの銀髪とは対照的な、母の若い頃にそっくりな柔らかな金髪を揺らし、無邪気な笑顔を向けてくる。
「リリア、はしたないですよ」
マリアが優しく窘めるが、リリアは気にした様子もなくマイルズの腰に抱きついている。
「こら、リリア。今日の兄上は主役だ。服を汚すな」
ロッシュが低く言うと、リリアは慌てて飛び退いた。
「ごめんなさい、お兄様」
「構わないよ、リリア。ありがとう」
マイルズは妹の頭を優しく撫でた。
この妹の健康と笑顔を守ること。それが、マイルズの最も原始的な行動原理の一つだった。
席に着くと、侍女たちが手際よく朝食を並べていく。
焼きたてのパン。温かいスープ。ベーコンと卵のソテー。
バーンズ伯爵家とはいえ、質素倹約を旨とする父の方針で、朝食は決して贅沢ではない。だが、素材は領内で採れた新鮮なものだ。
「マイルズ」
ロッシュが、パンをスープに浸しながら口を開いた。
「はい、父上」
「今日で、お前も十歳だ。洗礼式が終われば、お前はバーンズ家の人間として、正式に社会に認められることになる」
「はい」
「もはや子供扱いはされん。長男としての自覚と、次期領主としての責任を、その両肩で背負う覚悟を決めろ。……分かっているな?」
「はい。肝に銘じております」
マイルズは背筋を伸ばして答えた。
ロッシュの言葉は厳しいが、その青い瞳の奥には、息子への不器用な愛情と、そして期待が込められているのをマイルズは知っていた。
「あなた。そんな怖い顔ばかりなさらないで。今日はお祝いの日ですよ」
マリアが夫を優しくたしなめる。
「それに、マイルズは大丈夫。私たちの自慢の息子ですもの。ねえ?」
「ふん。自慢の息子が、神からどんな『適性』を賜るか。見ものだな」
ロッシュはそう言って、スープを一口すすった。
この世界では、洗礼式で判明する「適性」が重要視される。
剣術、魔法(火、水、風、土の四大属性が基本)、あるいは治癒、鍛冶、商業といった特殊なスキル。
ロッシュは「剣術」と「土魔法」の適性を持ち、自ら領軍の先頭に立って魔物を討伐することもある武闘派の領主だ。
マイルズがどのような適性を持つか、父として当然、気になっているのだろう。
「そういえば、リーナからもお祝いの伝書が届いていましたよ」
マリアが話題を変えた。
リーナ。マイルズの姉だ。
二十歳になる彼女は、二年前に王都のハール侯爵家に嫁いでいた。ハール侯爵家は、王国でも有数の力を持つ名門だ。バーンズ家にとっては、この婚姻は非常に大きな意味を持っていた。
「姉上から? なんと?」
「『可愛い弟の晴れ姿、見られないのが残念です。きっと、王都中の令嬢が溜息をつくような、素敵な殿方になるのでしょうね』ですって。あの子ったら」
マリアが嬉しそうに手紙の内容を真似る。
王都はここから馬車で五日。
姉のリーナは、去年の冬に一度帰省したきりだ。この距離が、家族の交流を容易ではないものにしていた。
「ハール侯爵家は、お元気だそうか」
ロッシュが低い声で尋ねた。
「ええ。旦那様も、リーナも。……ただ、少し気になることも書いてありましたわ。王都では、このところ『赤い咳』が流行っているとか……」
「赤い咳?」
ロッシュの眉がピクリと動いた。
マイルズも、思わずスプーンを止めた。
「ええ。一度咳き込むと止まらず、血の混じった痰が出るのだとか。特に、子供や老人がかかると、命を落とすことも少なくないと」
「……不吉な。伝染病か」
ロッシュが呟いた。
(赤い咳。血痰。……結核か? それとも別の呼吸器系感染症か)
マイルズの脳内で、前世の知識がデータベースを検索し始める。
王都から馬車で五日。人の交流があれば、病気もまた、同じ速度で伝播する。
対岸の火事ではいられない。
「王都の侍医たちが総出で対応しているそうですが、あまり芳しくないようですわ」
マリアは、深刻な意味を理解せず、ただの世間話として続けている。
「ふん。王都の連中も、贅沢に慣れて体が鈍っているからだ」
ロッシュはそう一蹴したが、その表情は晴れなかった。
朝食が終わり、いよいよ大聖堂へ向かう時間となった。
家族四人が、バーンズ家の紋章が描かれた豪奢な馬車に乗り込む。
「お兄様、緊張してる?」
隣に座ったリリアが、マイルズの袖を小さく引っ張った。
「いや。別に」
「ふふん。私はね、お兄様はきっと『聖剣士』みたいな、すっごいスキルが出ると思う!」
リリアは目を輝かせている。
「そうだといいな」
マイルズは苦笑しつつ、馬車の窓から外を眺めた。
馬車は、城館地区を抜け、領都の中心部へと進んでいく。
街道沿いには、領民たちが出ていた。
年に一度の収穫祭でもないのに、これだけの人が集まっているのは、ひとえにマイルズの洗礼式を見物するためだ。
「マイルズ様だ!」
「十歳になられた! なんと美しい……」
「次期領主様! おめでとうございます!」
領民たちの歓声が、馬車の中まで届く。
マイルズは、窓から彼らに小さく手を振った。
彼らは好意的だ。マイルズが「神童」と呼ばれていることも、その完璧な容姿も、彼らにとっては希望の象徴なのだろう。
だが、マイルズの目は、その歓声の裏にあるものを見逃さなかった。
手を振る母親に抱かれた赤ん坊。その腕は、標準的な乳児よりも明らかに細い。
歓声を上げる若者。その顔色は、栄養状態の悪さを示す土気色だ。
道端に座り込む老人。その足は、浮腫(むくみ)でパンパンに膨れ上がっている。
(栄養失調。ビタミン欠乏症。そして、おそらくは腎機能か心機能の低下)
彼らは、病んでいる。
この領地そのものが、緩やかな「病」に侵されているのだ。
「マイルズ」
不意に、ロッシュが声をかけた。
「どうした。顔色が優れんぞ。緊張しているのか」
「……いえ。少し、領都の様子を見ていました」
「ふん。見てどう思った」
試すような父の視線。
マイルズは、あえて真っ直ぐに父を見返した。
「……人々は、我々に期待している。そう思いました」
「当然だ。我々は領民から税を取り立て、その代わりに彼らの生命と財産を守る義務がある。期待に応えられねば、領主失格だ」
ロッシュは、窓の外に視線を移した。
「だがな、マイルズ。現実は厳しい。今年は春先から日照りが続いている。このままでは、秋の小麦の収穫は例年の七割にも届けば御の字だろう」
「……七割」
「冬の蓄えが、心許ない。今から手を打たねば、この冬、領民は飢えることになる」
重い事実だった。
疫病。そして、食糧危機。
これこそが、この世界の「内政」が直面する二大脅威だ。
(七割。単純計算で三割の人間が飢える。実際には、富の偏在があるから、貧しい者から順に餓死していく。このままでは、領地は内側から崩壊する)
マイルズは、拳を固く握りしめた。
元医師の知識。それは、公衆衛生や疫病対策だけではない。
前世では、趣味と実益を兼ねて、栄養学、土壌学、果ては発酵技術や保存食料の知識まで、幅広く学んでいた。
生き残るためのサバイバル知識。それが、この異世界で「内政」の武器になる。
(父上。俺がやる。俺なら、この領地を救える)
だが、まだその言葉を口にする時ではなかった。
十歳の子供が、いくら神童と呼ばれていようと、領地の運営に口出しできるはずがない。
だが、今日、洗礼式が終われば。
神から「適性」という名の「お墨付き」さえ手に入れれば。
彼の言葉に、重みが加わる。
馬車が、ゆっくりと速度を落とした。
領都の中央広場に面した、大聖堂に到着したのだ。
荘厳な石造りの建物。
バーンズ領で最も大きく、最も古い建造物だ。
大聖堂の前には、既に多くの人々が集まっていた。マイルズたちのような貴族だけでなく、同じ日に十歳を迎えた平民の子供たちとその家族もいる。
洗礼式は、身分に関係なく、この聖堂で合同で行われるのが習わしだった。
「マイルズ・バーンズ様御一行、ご到着!」
教会の衛兵が、高らかに叫んだ。
集まった人々が一斉に道を開け、バーンズ一家は馬車を降り、聖堂の中へと進んでいく。
ひんやりとした空気が、マイルズの頬を撫でた。
天井は高く、ステンドグラスから差し込む光が、床に色とりどりの模様を描き出している。
厳かな聖歌が流れ、祭壇の前には、この地を統括する司教が神妙な面持ちで立っていた。
「ようこそおいでくださいました、バーンズ伯爵様。そしてマイルズ様。本日は誠におめでとうございます」
老司教が、深く頭を下げる。
「うむ。司教殿。つつがなく、進めていただきたい」
ロッシュが威厳を持って応えた。
洗礼式は、身分の低い平民の子供たちから順に行われていく。
彼らは一人ずつ祭壇の前に進み出ると、司教が持つ水晶玉に手をかざす。
「ライアン。魔力値、十三。適性、なし」
「サラ。魔力値、二十。適性、水魔法(微弱)」
「トーマス。魔力値、八。適性、鍛冶(下級)」
淡々と、子供たちの未来が判定されていく。
魔力値は、一般成人で平均三十。適性なしも珍しくない。
この世界の現実は、リリアが夢見るような「聖剣士」がそうそう現れるほど甘くはなかった。
平民の部が終わり、いよいよ貴族の番が回ってきた。
バーンズ領には、伯爵家以外にもいくつかの下級貴族(騎士爵家など)が存在する。
彼らの子供たちも、緊張した面持ちで判定を受けていくが、結果は芳しくない。
「魔力値、四十五。適性、火魔法(初級)」
これでも、かなりの高水準であり、その子供の親は歓喜の声を上げていた。
そして、ついにマイルズの番が来た。
「最後に。バーンズ伯爵家ご長男。マイルズ・バーンズ様」
司教の声が、静まり返った聖堂内に響き渡る。
全ての視線が、マイルズ一人に集中した。
父ロッシュの、母マリアの、妹リリアの、そして領民たちの期待。
その全てを背中に感じながら、マイルズはゆっくりと祭壇へ進み出た。
(来るべき時が来た)
彼は、老司教の前に立ち、その手に持つ水晶玉を見据えた。
「……マイルズ様。この水晶に、両手を」
司教の声が、わずかに震えているように感じた。彼もまた、この領地の神童がどのような結果を出すのか、緊張しているのだろう。
マイルズは、言われた通り、白く小さな両手を水晶玉にかざした。
その瞬間。
ゴウッ、と。
聖堂内の空気が、まるで生き物のようにうねった。
祭壇に灯されていた全ての蝋燭の炎が、一斉に激しく揺らめき、そして消えた。
「なっ……」
「ひっ……!」
聖堂内が、どよめきと短い悲鳴に包まれる。
水晶玉が、ありえないほどの輝きを放ち始めたのだ。
最初は白く、やがて七色の光が渦を巻き、聖堂の高い天井まで突き上げるかのような光の柱を形成した。
「こ、これは……!」
老司教が、目をかっ開いたまま絶句している。
彼が長年洗礼式を執り行ってきた中で、このような現象は一度たりとも見たことがなかった。
「魔力値……魔力値が、測定不能(オーバーフロー)!」
司教の助手である神官が、震える声で叫んだ。
水晶玉は、一定以上の魔力を感知すると、このように制御不能の光を放つのだという。
「し、信じられん……」
父ロッシュが、上座で目を見張っている。
マリアは、口元に手を当てて、我が子の姿を呆然と見つめていた。リリアだけが「すごい! お兄様、すごい!」と小さな声で歓声を上げていた。
光の奔流は、しばらく続いた後、ゆっくりと収束していった。
だが、水晶玉は、その輝きを失わない。
玉の内部に、通常ならば「火」や「水」といった属性の紋章が浮かび上がるはずの場所に、見たこともない複雑な紋様が浮かび上がっていた。
それは、まるで蛇が絡み合った杖のようにも、あるいは、生命の系統樹のようにも見えた。
「……適性……」
老司教が、汗をだらだらと流しながら、必死でその紋様を読み解こうとする。
「適性は……『解読不能』……いや、違う……これは……」
司教が、何かに気づいたように祭壇の傍らにある分厚い聖典を慌ててめくり始めた。
「まさか。まさか、まさか。伝説にのみ記された……」
震える指で、あるページを指し示す。
「……『生命』。適性、『生命(ヴィータ)』……! そして、『創造(クリエイト)』……!」
『生命』と『創造』。
聖堂内が、水を打ったように静まり返る。
四大属性魔法(火水風土)や、治癒魔法の上位互換。
『生命』は、文字通り生命そのものに干渉し、病を根絶し、肉体を強化し、果ては生命の源すら操作すると言われる神の領域の適性。
『創造』は、無から有を生み出し、物質を望む形に変える、これもまた神話級のスキルだ。
「神よ……」
老司教は、その場に膝から崩れ落ちた。
「我がバーンズ領に、これほどの才能をお遣わしくださるとは……!」
マイルズは、その結果を冷静に受け止めていた。
(生命と創造。なるほど。医者であった俺には、これ以上ない適性だ)
『生命』は、医療行為そのものだ。
そして『創造』は、この領地に足りないものを、前世の知識を基に「創造」するための力だ。
例えば、清潔な水を生み出す浄水施設。
例えば、食糧難を解決する、高効率な肥料や農具。
例えば、この世界の魔法と、前世の科学知識を融合させた、新たな「工業製品」。
(内政に、これほど適した力はない)
マイルズが、自らの掌を見つめ、静かな確信を抱いた、その時だった。
バタンッ! と。
聖堂の重い扉が、凄まじい勢いで開け放たれた。
「申し上げます!!」
血相を変えた一人の衛兵が、祭壇に向かって転がり込むように駆け込んできた。
その男の鎧は泥にまみれ、息は切れ切れだった。
「な、何事だ! 神聖な儀式の最中であるぞ!」
ロッシュが、玉座から立ち上がり、厳しく叱責した。
だが、衛兵の報告は、その叱責をかき消すほどの衝撃を持っていた。
「は、はあっ……申し上げます! 領都西側……貧民区の居住区にて、今朝より、謎の病が発生!」
「病だと!?」
ロッシュの顔色が変わる。
マリアが「まあ」と小さく息を呑んだ。
衛兵は、必死で言葉を続けた。
「はい! 高熱と、全身に赤い発疹を訴える者が続出しております! すでに、子供数名が意識不明に……!」
(高熱! 発疹!)
マイルズの脳が、警鐘を鳴らした。
朝、マリアが話していた王都の『赤い咳』とは違う。
高熱と発疹。この組み合わせで、感染力が強く、致死性が高い病気。
(麻疹(はしか)か? あるいは、天然痘(ほうそう)か? どちらにせよ、最悪だ!)
この世界の衛生環境、栄養状態を考えれば、感染爆発(パンデミック)は時間の問題だった。
「馬鹿な! この時期に、なぜ!」
ロッシュが呻く。
「呪いだ……きっと、西の森の悪霊の呪いだ!」
「司教様! すぐにお祓いを!」
領民たちが、途端にパニックに陥り始めた。
「落ち着け! 騒ぐな!」
ロッシュが怒鳴るが、聖堂内は恐怖と混乱に包まれつつあった。
「侍医を呼べ! 侍医はどこだ!」
「それが……侍医も、様子を見に行ったきり、戻りませぬ!」
衛兵の絶望的な報告。
(ダメだ。このままでは、パニックが広がり、感染者が領都中を逃げ回り、被害が拡大するだけだ)
マイルズは、この混乱の中心で、一人だけ冷静だった。
元医師として、何度も修羅場を経験してきた。
やるべきことは、わかっている。
彼は、膝をついたままの老司教の横をすり抜け、混乱の渦の中心にいる父ロッシュの前に進み出た。
「父上」
凛とした、十歳の少年とは思えないほど落ち着いた声だった。
聖堂内の全ての視線が、再びマイルズに集まる。
神の適性を授かったばかりの、完璧な容姿を持つ少年。
「マイルズか。……見た通りだ。今は儀式の途中だが……」
ロッシュも、さすがに動揺を隠せない。
マイルズは、父の青い瞳を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げた。
「父上、お待ちください」
「何だ」
「それは、呪いなどではありませぬ」
マイルズは、衛兵が「悪霊の仕業だ」と騒ぐ人々を、冷徹な目で見渡した。
「それは『病』です」
「……なに?」
「そして、父上。私には、その対処法がわかります」
十歳の少年、マイルズ・バーンズ。
バーンズ伯爵家の長男。
そして、元医師。
神から与えられた『生命』と『創造』の力。前世から引き継いだ膨大な『知識』。
全てを、この領地を救うために使う。
マイルズの内政改革は、この日、彼の十歳の洗礼式と共に、最悪の疫病対策という形で、幕を開けた。
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完全に手詰まりの中で、アクスは日本人として暮らしてきた知識を活用し、さらには領都から避難してきた獣人や亜人を仲間に引き入れ秘策を練る。
果たしてアクスは帝国軍に勝利できるのか!?
これは転生貴族アクスが領地経営に奮闘し、大貴族へ成りあがる物語。
《作者からのお知らせ!》
※2025/11月中旬、 辺境領主の3巻が刊行となります。
今回は3巻はほぼ全編を書き下ろしとなっています。
【貧乏貴族の領地の話や魔導車オーディションなど、】連載にはないストーリーが盛りだくさん!
※また加筆によって新しい展開になったことに伴い、今まで投稿サイトに連載していた続話は、全て取り下げさせていただきます。何卒よろしくお願いいたします。
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