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第5話 黄金のスープと提督の胃袋(ケミカル・クッキング)
しおりを挟むベルナ港の第三岸壁には、修理を終えたばかりの海軍の軍艦『グラン・シルフ号』が停泊している。
その甲板からは、安堵の溜め息とともに、腹の虫が鳴く音が合唱のように聞こえてきていた。
「……腹が減ったな」
「ああ。またあのカビの生えた乾パンと、塩辛いだけの干し肉か……」
水兵たちが力なくぼやいている。
無理もない。彼らは海賊との戦闘で疲弊し、さらに浸水事故のストレスで限界を迎えていた。
そんな彼らの前に、私は大鍋を抱えた漁師たちを引き連れて現れた。
「お疲れ様です、諸君。修理の次は補給だ。ベルナ領が誇る、最高の『燃料』を用意した」
私が指差した先、港の広場には、巨大な寸胴鍋が五つ、カマドの上に並べられていた。
下からは薪の火が燃え上がり、鍋からは白い湯気とともに、暴力的なまでの「香り」が立ち昇っている。
焦がした甲殻類の香ばしさ。
ニンニクと香味野菜の食欲をそそる匂い。
そして、濃厚な魚介の旨味が凝縮された、甘く深い香り。
「な、なんだこの匂いは……!?」
「魚……か? でも、俺たちの知ってる生臭い魚の匂いじゃねえ!」
水兵たちがざわめき立つ。
その反応を見て、私はニヤリと笑った。
これこそが、私の商品開発第二弾。
売れない雑魚(ざこ)や、今まで捨てていたエビ・カニの殻、そして規格外の野菜を煮込み倒した、漁師風濃厚スープ――『ブイヤベース』だ。
◇
広場に設置された長机に、次々と木椀が並べられていく。
スープの色は、食欲を刺激する鮮やかなサフラン・ゴールド(黄金色)。トマト代わりの赤野菜が溶け込み、琥珀色の油が表面に輝いている。
具材は、白身魚のぶつ切り、ムール貝、有頭エビ。
「さあ、遠慮はいらない。修理代の代わりだと言っただろう。好きなだけ食ってくれ」
私が合図をすると、最初は毒見をするように恐る恐るだった水兵長が、一口啜った。
その瞬間。
彼の目が見開かれ、身体がビクリと震えた。
「――っ!!」
彼は何も言わず、二口、三口と猛烈な勢いでスープを流し込み始めた。
そして、空になった椀を天に掲げて叫んだ。
「う、美味いッ!! なんだこれ!? 身体の芯から熱くなるぞ!」
その叫びが引き金だった。
数百人の水兵たちが、我先にと鍋に殺到した。
「俺にもくれ!」
「パンだ! このスープに浸して食うパンをくれ!」
「あああ……生き返る……! こんな美味い魚料理、王都のレストランでも食ったことがねえ!」
阿鼻叫喚の饗宴。
それを見守る家令のガルシアが、信じられないものを見る目で私を見た。
「アレン様……。あのスープ、中身は確か……」
「ああ。売り物にならない小魚と、漁師が捨てていたエビの頭、あとは農家から安く買い叩いた傷んだ野菜だ。原価はタダ同然だよ」
「タダ同然のゴミが、海軍の兵士をここまで熱狂させるとは……錬金術ですか?」
「料理は化学(ケミストリー)だよ、ガルシア」
私は鍋をかき混ぜながら解説した。
ただ煮込んだだけではない。
ポイントは二つある。
一つは『メイラード反応』。
魚のアラやエビの殻を、一度強火で徹底的に炒め、香ばしさを引き出してから煮込んでいる。これで生臭さが消え、複雑な風味が生まれる。
そしてもう一つが、私の隠し味――『魚醤(ガラム)』だ。
「この茶色い液体ですか?」
「そう。魚の内臓を塩漬けにして、私の火魔法で温度管理して発酵を早めた特製ソースだ。これには『グルタミン酸』と『イノシン酸』という、人が美味いと感じる成分が濃縮されている」
この世界にはまだ「出汁(ダシ)」の文化が薄い。
塩とハーブだけで味付けするのが主流だ。そこに、この魚醤による旨味の爆弾を投下すれば、舌の肥えていない兵士たちはイチコロだ。
さらに、このスープにはビタミンとミネラルが豊富に含まれている。壊血病予備軍の彼らにとって、これは食事であると同時に「薬」でもあるのだ。身体が欲するのは当然だった。
◇
宴の喧騒から少し離れた場所。
簡易テントの下で、セシリア・オルコット公爵令嬢は、一人優雅に紅茶を飲んでいた。
……いや、飲もうとしていたが、視線はチラチラと広場の方へ向いている。
喉が鳴る音が、ここまで聞こえてきそうだった。
「……セシリア殿」
「っ!? な、なんだ。私は別に、あんな野蛮な漁師料理など……」
私が声をかけると、彼女は慌てて澄ました顔を作った。
だが、そのお腹が「グゥ~」と可愛らしい音を立てて裏切った。
顔を真っ赤にするセシリア。
私は苦笑しながら、手にした盆を彼女の前のテーブルに置いた。
そこには、特別な白い陶器に入れたブイヤベースと、軽く焼いたバゲット、そしてよく冷えた白ワインが乗っている。
「毒見は済んでいます。提督の娘たる貴女が、部下と同じものを食べないわけにはいかないでしょう? 士気に関わります」
「……む。貴様、口が上手いな」
セシリアは言い訳の材料を与えられたことに安堵したのか、スプーンを手に取った。
琥珀色のスープをすくい、口元へ運ぶ。
その優雅な所作は、さすが公爵令嬢だ。
だが、スープが舌に触れた瞬間、その貴族の仮面が崩れ落ちた。
「んっ……!」
カチャリ、とスプーンが皿に当たる。
彼女は目を見開き、口元を手で覆った。
「……嘘。なに、これ」
「お口に合いませんか?」
「逆だ! ……美味すぎる。濃厚なのに、後味が爽やかで……それに、飲んだ瞬間から、指先の冷えが消えていくような……」
彼女はそこまで言うと、もう止まらなかった。
バゲットをスープに浸し、カリッとした食感と、ジュワッと染み出す旨味を楽しむ。
白身魚を口に含み、ホロホロと崩れる食感に陶酔する。
気取っていたのは最初の一口だけ。あとは夢中でスプーンを動かし続けた。
数分後。
綺麗に空になった皿を見て、セシリアは我に返った。
そして、咳払いを一つして、私に向き直った。その瞳は真剣そのものだった。
「アレン・フォン・ベルナ。……単刀直入に言う」
「はい」
「このスープを、我が艦隊の正式な糧食(レーション)として採用したい。レシピを……いや、この『謎の茶色い液体(魚醤)』と、乾燥させたスープの素を売ってくれ」
来た。
私が待っていた言葉だ。
私は懐から、一枚の羊皮紙(契約書)を取り出した。
「お安い御用です。すでに『携帯用・濃縮ブイヤベース瓶』と、長期保存可能な『魚の干物(高品質)』の量産体制を整えています」
「用意周到な男だ……。だが、いいだろう。言い値で買う」
「いえ、金銭は適正価格で構いません。その代わり、条件があります」
私は港の方角、水平線を指差した。
「我がベルナ港を、オルコット公爵家艦隊の『指定補給基地』および『優先修理ドック』として認定してください。そして、海賊が出た際は、優先的に警護に当たること」
「……なるほど。海軍の威光(ケツ持ち)が欲しいというわけか」
セシリアは少し考え込んだが、すぐに頷いた。
彼女にとっても、こんな「神業のような修理」と「極上の食事」が提供される港を手放す理由はない。
「良かろう。父上……提督には私が話を通す。今日からこの港は、我が海軍の友軍港だ。……文句はないな?」
「ありません。商談成立ですね」
私が手を差し出すと、セシリアはその手を取り、力強く握り返してきた。
その手は温かかった。スープのおかげだろうか。
「……あと、アレン」
「なんでしょう?」
「その……さっきのスープ、おかわりはあるか? いや、私が食べたいわけではないぞ! 今後の品質チェックのためにだな……!」
真っ赤になって早口でまくし立てる公爵令嬢を見て、私は堪えきれずに吹き出した。
どうやら、胃袋だけでなく、少しは心の距離も縮まったようだ。
◇
その夜。
修理と補給を終えた『グラン・シルフ号』は、満天の星空の下、ベルナ港を出港していった。
船倉には、銀鱗商会が集めた大量の「干物」と「魚醤の壺」が満載されている。
それを見送る私の背後で、ガルシアが震える声で報告してきた。
「アレン様……。公爵家から支払われた『修理費』と『食料代』ですが……」
「いくらだった?」
「き、金貨五百枚です……! たった一日で、当家の借金の半分が消えました!」
「五百枚か。セシリア殿も気前がいいな」
いや、それだけ彼女たちが「飢えていた」ということだろう。
まともな食事と、安全な港に。
「ガルシア、その金は借金返済には回さないぞ」
「は? では何に?」
「投資だ。次は陸だ。海からの物資が増えすぎて、今のボロ馬車じゃ運びきれない」
私は視線を、港から内陸へと続く街道に向けた。
デコボコで、雨が降れば泥沼になる悪路。
あれが次の敵だ。
「揺れない馬車を作る。そして、この国の物流を根底からひっくり返す」
私の【構造解析】には、すでに次なる設計図が浮かんでいた。
板バネとベアリング。そして、それを売り込むべき相手――国一番の金持ち、リリアーナ・メディシス侯爵令嬢の顔とともに。
(待っていろよ、陸の孤島。私が高速道路(ハイウェイ)に変えてやる)
ベルナ港の夜明けは近い。
だが、私の「整備」はまだ始まったばかりだ。
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