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第6話 悲鳴を上げる帳簿と、倒れた金庫番(オーバーワーク)
しおりを挟むベルナ港に「革命」が起きてから、一ヶ月が過ぎた。
港は今や、不夜城の様相を呈している。
古代ゴーレム『トライデント』による二十四時間体制の浚渫(しゅんせつ)作業によって、水深は安全圏の七メートルを確保。
それに呼応するかのように、銀鱗商会の手引きで近隣諸国の商船が次々と入港するようになった。
彼らの目当ては二つ。
一つは、私が修理したドックによる迅速な船体メンテナンス。
もう一つは、ベルナブランドとして確立された「魔法の氷漬け魚」だ。
ガガガガガ……ッ!
港のクレーンが唸りを上げ、木箱を吊り上げる。
活気がある。漁師たちの顔には生気が戻り、街の食堂は連日満員だ。
金が回っている。血液が循環している。
それは、為政者としてこの上ない喜びであるはずだった。
だが。
どんな精密機械にも、負荷をかければ必ず「ボトルネック(滞留箇所)」が発生する。
それが機械の部品なら交換すれば済むが、今回はそうはいかなかった。
◇
子爵邸、一階の家令執務室。
私は、扉の前で立ち尽くしていた。
中から、鬼気迫るようなペンの走る音と、ブツブツといううわ言のような独り言が漏れてくるのだ。
「……金貨三百枚の入金、元帳へ転記……次は氷の売上、銀貨八百……いや、未収金が……計算が合わん……どこだ、どこで間違えた……」
私は意を決してノックをした。
返事がない。
私は静かにドアを開けた。
「ガルシア?」
そこにあったのは、書類の雪崩だった。
床一面に散らばる羊皮紙、領収書、請求書。インクの瓶が空になり、何本もの羽根ペンが無残に折れて転がっている。
その中心、書類の山に埋もれるようにして、家令のガルシアが机に向かっていた。
最後に見た時よりも、頬がこけ、目の下に濃いクマができている。白髪はボサボサで、自慢の整えられた口髭もヨレヨレだ。
「……あ、アレン様……」
私の声に気づき、ガルシアが顔を上げた。
その瞳は充血し、焦点が定まっていない。
「申し訳、ありませぬ……今月の決算報告書ですが、あと少し……あと少しで……」
「もういい、ガルシア。休め。これは命令だ」
「何を……おっしゃいます……。金が入ってくるのです……私が数えねば……誰が……」
彼は震える手でペンをインク壺に突っ込んだ。だが、インクは既に干上がっており、ペン先がカツンと乾いた音を立てただけだった。
その瞬間。
プツン、と糸が切れたように、ガルシアの身体がグラリと傾いた。
「ガルシアッ!」
私は反射的に駆け寄り、崩れ落ちる老人の細い身体を受け止めた。
軽い。あまりにも軽い。
そして、身体が燃えるように熱い。
「起動……【構造解析(ブループリント)】」
私は即座にスキルを発動し、ガルシアの体内をスキャンした。
視界に青い人体図が浮かぶ。
心拍数、上昇。血圧、危険域。血糖値、極端な低下。
そして何より、脳の疲労度が限界突破(レッドゾーン)を示している。
「……過労(オーバーワーク)と栄養失調だ。馬鹿な、食事も摂らずに働いていたのか」
私はすぐに大声でメイドたちを呼んだ。
意識を失ったガルシアを寝室へと運ばせながら、私は自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。
港の設備(ハード)を直すことに夢中で、それを支える組織(ソフト)の整備を怠っていた。
急激な経済成長に、旧態依然とした「一人の家令の手書き管理」というシステムが追いついていなかったのだ。
これは、経営者である私のミスだ。
◇
ガルシアが倒れたことで、子爵家の事務機能は完全に停止した。
父上は領民への対応や外交(という名の挨拶回り)で手一杯だし、武人のヴァルガスに計算をさせれば、恐らく金庫を破壊して終わるだろう。
私がやるしかない。
私はガルシアの執務室に戻り、惨状を改めて確認した。
「……ひどいな、これは」
机の上の帳簿を開く。
そこには、几帳面な文字で数字が羅列されていた。
だが、その方式はあまりに古かった。
いわゆる「単式簿記」。
『〇月〇日、魚が売れた、金貨十枚』『〇月×日、給料を払った、金貨五枚』。
ただ現金の出入りを時系列に書くだけの、家計簿レベルの管理だ。
これでは、金の流れが複雑になった今、利益がどこから出て、資産がどうなっているのか把握するのに時間がかかりすぎる。一度計算を間違えれば、最初から全て計算し直しだ。
さらに、道具の問題もある。
私はインク壺と羽根ペンを手に取った。
数文字書くたびにインクをつける動作。紙に滲むインク。乾くのを待つ時間。
領収書の控えを作るために、同じ内容を二回手書きする手間。
非効率の塊だ。
「システムエラーの原因は、処理速度の低下と、データ構造の欠陥か」
エンジニアの視点で見れば、解決策は明確だ。
私は深夜の執務室で、二つの「発明」に取り掛かった。
◇
翌々日の朝。
丸二日昏睡していたガルシアが、ようやく目を覚ました。
私がスープを持って寝室を訪れると、彼は青い顔で飛び起きようとした。
「ア、アレン様……! 私はどれほど寝ていたのですか!? 帳簿が、決算が……!」
「落ち着け、ガルシア。仕事なら終わったよ」
「え……?」
彼は呆気にとられた顔で私を見た。
「終わったとは……あの膨大な山を、まさかアレン様がお一人で?」
「ああ。ついでに、今後のために『道具』と『ルール』も一新させてもらった。体調が良ければ、執務室に来てくれ」
半信半疑のガルシアを連れて、私は執務室へ戻った。
そこは、彼が見慣れた部屋とは一変していた。
床に散乱していた紙屑は消え、机の上には真新しい革表紙のノートと、見慣れない筆記具が置かれている。
そして何より驚くべきは、部屋の隅に二人の若い文官(私が街で募集した、計算が得意な商人の三男坊たち)が座り、静かに作業をしていることだった。
「これは……」
「紹介するよ。今日から君の部下になる新人たちだ。単純な計算や転記は彼らに任せればいい」
「し、しかしアレン様。人を雇う余裕など……」
「あるさ。君が倒れる前に稼いだ金で十分賄える。それに、彼らを使えば、君の仕事は『確認』と『承認』だけで済む」
私は机の上の新しい筆記具をガルシアに手渡した。
羽根ペンではない。金属製の軸に、ガラス質のペン先がついたものだ。
私が錬金術で即席作成した『魔導万年筆』だ。
「インクをつける必要はない。軸の中にインクが溜まっていて、毛細管現象……まあ、自然にペン先に染み出してくる仕組みだ。一度補充すれば、羊皮紙百枚は書ける」
「……なんと」
ガルシアが恐る恐る試し書きをする。
サラサラと、滑らかな書き味。インクをつける動作がないだけで、思考が途切れない。
「そしてこれだ」
私は二枚の紙を重ねた束を見せた。間に、黒い塗料(煤と蝋を混ぜたもの)を塗った薄い紙が挟まっている。
『カーボン紙』だ。
「上の紙に書けば、下の紙にも同じ文字が写る。これで領収書の控えを作る時間を半分にできる」
「魔法……いや、これも技術ですか」
「そうだ。だが一番重要なのは、これだ」
私は革表紙のノートを開いた。
そこには、左右に分かれた表が書かれている。
左側に『借方』、右側に『貸方』。
現代社会の経済を支える最大の発明の一つ、『複式簿記』だ。
「金の出入りだけでなく、『何のために(原因)』と『どうなったか(結果)』を同時に記録する。これなら、左右の合計が合わなければどこかで間違っていると一目で分かる。計算ミスの捜索に一晩中悩む必要はない」
私はガルシアに、複式簿記の基礎をレクチャーした。
最初は戸惑っていた彼だが、元々数字に強い男だ。三十分もしないうちに、その合理性に気づき、目が輝き始めた。
「……素晴らしい。これなら、金の流れが……まるで水路を流れる水のように見えます。どこで滞り、どこへ流れたかが手に取るように……」
「君なら使いこなせると思ったよ。君は優秀な家令だ、ガルシア。ただ、武器が古かっただけだ」
私は彼の肩に手を置いた。
「この一ヶ月、無理をさせてすまなかった。これからは、自分一人で背負い込むな。君が倒れたら、私の描く設計図(ブループリント)は画餅に帰す」
「アレン様……」
ガルシアの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼は万年筆を握りしめ、深く頭を下げた。
「……勿体なきお言葉。この老骨、新型のペンと帳簿を武器に、必ずやアレン様の覇業を支えてみせましょう。まずは……」
彼は涙を拭うと、キリッとした「金庫番」の顔に戻った。
そして、新人の文官たちに指示を飛ばし始めた。
「おい、そこの! 転記の数字が雑だ! アレン様が下さった万年筆を泣かせるな! ……ふふ、これは良い。仕事が三倍の速さで進むわい」
◇
こうして、子爵家の事務機能(バックオフィス)は劇的に改善された。
だが、一つの問題が解決すれば、また次の問題が浮上するのが領地経営というものだ。
数日後。
私は港の拡張工事現場を視察していた。
港湾長のゲンが、渋い顔で近づいてきた。
「若様。事務仕事が片付いたのは結構なんだがよ……現場の方は限界だぜ」
「どうした? 人手が足りないのか?」
「逆だ。人が増えすぎた」
ゲンが指差した先には、粗末なテントが立ち並ぶ一角があった。
仕事と食を求めて、近隣の村や他領から流れてきた移民たちだ。
港の景気が良いと聞きつけて集まったはいいが、彼らが住む家がない。
宿屋は満室、空き家も埋まり、彼らは雨風をしのぐために廃材で小屋を作って生活していた。
衛生環境は最悪だ。このままでは疫病が発生しかねない。
「……スラム化し始めているのか」
「ああ。仕事はあるから金は持ってるんだが、家がねえ。大工も手一杯で、家が一軒建つのに三ヶ月待ちだ」
私は【構造解析】でテント村を視た。
不衛生な排水、密接しすぎた空間。赤い警告色(アラート)が視界を埋め尽くす。
労働力は必要だが、彼らが安心して眠れる場所がなければ、街の治安も効率も悪化する一方だ。
(家が必要だ。それも、安くて、頑丈で、明日からでも住めるような家が)
普通の大工仕事では間に合わない。
ならば、また私の「技術」で常識を壊すしかない。
私はポケットからメモ帳を取り出し、新たな設計図を描き始めた。
「ゲン、木材を確保してくれ。それも、規格を統一した大量の角材と板だ」
「何をする気で?」
「『プレハブ工法』だ。現場で組み立てるだけの、規格住宅を作る」
港の次は、街作りだ。
急速に膨張する人口を受け止めるための「器」を作る戦いが、始まろうとしていた。
そしてそれは、近隣の領主たちに「自領の民がベルナ領に吸い取られている」という危機感を抱かせ、新たな火種を生むことになるのだが――それはまだ、少し先の話である。
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