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第18話 罪悪感と優しさのはざまで
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夜が明けた。
嵐の名残が残る空にはまだ雲が流れ、地面には昨夜の雨水が薄い鏡のように溜まっていた。
村の人々は倒れた木の片づけに追われていたが、その表情にはどこか明るさがある。
誰も怪我をせずに済んだこと、それが何よりの救いだった。
レティシアは小屋の前に立ち、冷たい風に髪をなびかせながら、空を見上げていた。
嵐の夜のこと――エドガーにすべてを伝え、お互いの想いを確かめ合ったあの瞬間。
夢ではない証拠に、胸の奥にはまだ彼の温もりが残っている。
だが同時に、胸の底に小さな不安が広がっていた。
あの夜の静寂が、まるで運命の前触れのようにも思えたからだ。
扉が開く音がして、エドガーが出てきた。
剣を腰に下げ、表情はいつもどおり無骨で、しかしどこか柔らかな気配がある。
レティシアは慌てて微笑んだ。
「おはようございます。」
「ああ。……眠れたか?」
「すこしだけ。あなたは?」
「ほとんど寝てない。」
その言い方に、思わず小さく笑ってしまう。
「やっぱり、そうだと思いました。」
「人の心配ばかりして、自分のことは後回しか。」
「それはお互い様です。」
言葉を交わせるだけで、こんなにも胸が温かくなる――それが幸せだと気づきながらも、どこか胸の奥が痛んだ。
「……監察官は?」
「朝一番で出て行った。だが、どうやら王都に報告する前に何かを調べているようだ。」
「調べている?」
「この村にいる“王国の裏切り者”の証拠をだ。」
エドガーの声には怒りが滲んでいた。
しかし彼はそれをぐっと押し殺し、深く息を吐く。
「俺が過去にしたことは、確かに罪かもしれん。だが、あの時守った人々がいたのも事実だ。あれを間違いだとは、どうしても思えない。」
「間違いなんかじゃないです。」
即答したレティシアの声が、風に乗って届いた。
「あなたの行いがなかったら、生きていなかった人がたくさんいます。私も、きっとその一人です。」
エドガーは視線を下に落とし、わずかに唇を動かした。
「お前にそう言われると、少し救われる。」
「救われてほしいんです。」
「だが……それでも罪悪感は消えない。守れなかった命は、今でも夢に出る。」
レティシアはその言葉に胸を締めつけられた。
彼の強さの奥に、こんなにも深い悲しみがあることを。
ただの優しさではなく、傷の上に築かれた優しさなのだと、改めて知った。
少し俯いたエドガーの手に、自分の手をそっと重ねる。
「あなたは罪なんかじゃありません。優しさを持った証拠がある人です。」
彼が驚いたように顔を上げた。
「……どうして、そう思う?」
「罪悪感が消えないのは、心が生きてるからです。悪人だったら、そんな痛みすら感じないはずですもの。」
レティシアの言葉は静かで、しかし真っ直ぐだった。
エドガーは答えられず、彼女の瞳を見つめたまましばらく黙っていた。
やがて苦笑のような息を漏らす。
「お前には敵わないな。」
「敵うとかじゃありません。あなたが苦しむのが見たくないだけです。」
「それも十分困る。」
僅かな沈黙のあと、エドガーは目を細めた。
「お前を見ていると、自分の弱さが浮かび上がる。それでも、もう逃げたくないのはお前のせいだ。」
「それなら、私は喜んで“罪”になります。」
そう言うと、エドガーは思わず笑った。
彼らしくない穏やかな笑みだった。
日が高くなる頃、マイラが宿へ戻ってきた。
いつもの冷たい表情のはずが、ほんのわずかに疲れた様子が見える。
「村の人々に話を聞きました。」
その口調は淡々としているが、瞳の奥にはどこか揺らぎがあった。
「あなたがここでどんな風に暮らしていたのか、彼らはよく知っています。皆口を揃えてこう言いました――“エドガーは辺境の盾だ”と。」
エドガーがわずかに眉を上げた。
「……それを信じるわけにはいかないのだろう?」
「私は信じない。ただ、記録として残すだけです。」
そう答えながら、マイラはわずかに顔を背けた。
「感情で判断すれば、私の職は終わります。でも、もしも……この国の正義が間違っているのだとしたら、正すのは誰の手によるべきなのか――それだけは、考えてしまいました。」
その一言を残し、彼女は部屋へと入っていった。
レティシアはその背を見送りながら、小さく息を吐いた。
「もしかしたら、あの人も迷っているのかもしれません。」
「ああ。だが、迷いを見せた人間ほど危うい。どちらに転ぶか分からん。」
エドガーはそう言いつつ、腕を組んで空を見上げる。
雲間から差し込んだ陽光が、彼の髪に淡い金を射した。
「世界は善と悪で分かれてはいない。だが、それでも俺は“善いもの”を守りたい。」
「あなたはもう十分に守っています。」
「本当か?」
「ええ。私を守ってくれました。それだけで十分です。」
彼が小さく笑い、再び沈黙が流れた。
遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。
レティシアはその音を聴きながら、心の奥が満たされていくのを感じた。
けれど平穏は、長くは続かなかった。
午後の陽が傾きかけたとき、村の入り口で兵の姿が見えた。
マイラが駆け足で現れ、息を荒くして告げる。
「王都からの伝令が来ました。明日の夜明けに……エドガー・ラインハルトの拘束命令が下ります。」
レティシアの心臓が止まりそうになった。
「そんな、まだ何も――」
「命令は覆りません。私の裁量では止められない。……逃げるなら、今しかありません。」
マイラの目が揺れていた。
冷たい官吏の瞳ではなく、迷う一人の人間のそれだった。
エドガーはゆっくりと首を横に振る。
「逃げはしない。すべてを終わらせる。」
「ならば、あなたは死にます。」
「その覚悟はできている。」
その頑なな声に、レティシアの中で何かが弾けた。
「私は認めません!」
涙声で叫んでいた。
「覚悟なんて、そんなものいりません! あなたがここにいなかったら、私……!」
言葉が続かず、彼の胸に飛び込む。
「死ぬなんて、絶対に許さない!」
堅く、あたたかい腕がそっと彼女を包んだ。
「……お前の優しさは、時に罪だ。」
「あなたの罪と同じです。人を愛してしまった罪。」
エドガーはしばらく黙ってから、低く呟いた。
「だったら、せめて最後まで生きて証明してやる。その罪が、悪じゃないと。」
その言葉に、レティシアは涙の中で微笑んだ。
外では再び雲が立ち込め、風が冷たく吹き抜ける。
夜明けまでの時間が、二人に与えられた最後の静寂になることを、まだ誰も知らなかった。
続く
嵐の名残が残る空にはまだ雲が流れ、地面には昨夜の雨水が薄い鏡のように溜まっていた。
村の人々は倒れた木の片づけに追われていたが、その表情にはどこか明るさがある。
誰も怪我をせずに済んだこと、それが何よりの救いだった。
レティシアは小屋の前に立ち、冷たい風に髪をなびかせながら、空を見上げていた。
嵐の夜のこと――エドガーにすべてを伝え、お互いの想いを確かめ合ったあの瞬間。
夢ではない証拠に、胸の奥にはまだ彼の温もりが残っている。
だが同時に、胸の底に小さな不安が広がっていた。
あの夜の静寂が、まるで運命の前触れのようにも思えたからだ。
扉が開く音がして、エドガーが出てきた。
剣を腰に下げ、表情はいつもどおり無骨で、しかしどこか柔らかな気配がある。
レティシアは慌てて微笑んだ。
「おはようございます。」
「ああ。……眠れたか?」
「すこしだけ。あなたは?」
「ほとんど寝てない。」
その言い方に、思わず小さく笑ってしまう。
「やっぱり、そうだと思いました。」
「人の心配ばかりして、自分のことは後回しか。」
「それはお互い様です。」
言葉を交わせるだけで、こんなにも胸が温かくなる――それが幸せだと気づきながらも、どこか胸の奥が痛んだ。
「……監察官は?」
「朝一番で出て行った。だが、どうやら王都に報告する前に何かを調べているようだ。」
「調べている?」
「この村にいる“王国の裏切り者”の証拠をだ。」
エドガーの声には怒りが滲んでいた。
しかし彼はそれをぐっと押し殺し、深く息を吐く。
「俺が過去にしたことは、確かに罪かもしれん。だが、あの時守った人々がいたのも事実だ。あれを間違いだとは、どうしても思えない。」
「間違いなんかじゃないです。」
即答したレティシアの声が、風に乗って届いた。
「あなたの行いがなかったら、生きていなかった人がたくさんいます。私も、きっとその一人です。」
エドガーは視線を下に落とし、わずかに唇を動かした。
「お前にそう言われると、少し救われる。」
「救われてほしいんです。」
「だが……それでも罪悪感は消えない。守れなかった命は、今でも夢に出る。」
レティシアはその言葉に胸を締めつけられた。
彼の強さの奥に、こんなにも深い悲しみがあることを。
ただの優しさではなく、傷の上に築かれた優しさなのだと、改めて知った。
少し俯いたエドガーの手に、自分の手をそっと重ねる。
「あなたは罪なんかじゃありません。優しさを持った証拠がある人です。」
彼が驚いたように顔を上げた。
「……どうして、そう思う?」
「罪悪感が消えないのは、心が生きてるからです。悪人だったら、そんな痛みすら感じないはずですもの。」
レティシアの言葉は静かで、しかし真っ直ぐだった。
エドガーは答えられず、彼女の瞳を見つめたまましばらく黙っていた。
やがて苦笑のような息を漏らす。
「お前には敵わないな。」
「敵うとかじゃありません。あなたが苦しむのが見たくないだけです。」
「それも十分困る。」
僅かな沈黙のあと、エドガーは目を細めた。
「お前を見ていると、自分の弱さが浮かび上がる。それでも、もう逃げたくないのはお前のせいだ。」
「それなら、私は喜んで“罪”になります。」
そう言うと、エドガーは思わず笑った。
彼らしくない穏やかな笑みだった。
日が高くなる頃、マイラが宿へ戻ってきた。
いつもの冷たい表情のはずが、ほんのわずかに疲れた様子が見える。
「村の人々に話を聞きました。」
その口調は淡々としているが、瞳の奥にはどこか揺らぎがあった。
「あなたがここでどんな風に暮らしていたのか、彼らはよく知っています。皆口を揃えてこう言いました――“エドガーは辺境の盾だ”と。」
エドガーがわずかに眉を上げた。
「……それを信じるわけにはいかないのだろう?」
「私は信じない。ただ、記録として残すだけです。」
そう答えながら、マイラはわずかに顔を背けた。
「感情で判断すれば、私の職は終わります。でも、もしも……この国の正義が間違っているのだとしたら、正すのは誰の手によるべきなのか――それだけは、考えてしまいました。」
その一言を残し、彼女は部屋へと入っていった。
レティシアはその背を見送りながら、小さく息を吐いた。
「もしかしたら、あの人も迷っているのかもしれません。」
「ああ。だが、迷いを見せた人間ほど危うい。どちらに転ぶか分からん。」
エドガーはそう言いつつ、腕を組んで空を見上げる。
雲間から差し込んだ陽光が、彼の髪に淡い金を射した。
「世界は善と悪で分かれてはいない。だが、それでも俺は“善いもの”を守りたい。」
「あなたはもう十分に守っています。」
「本当か?」
「ええ。私を守ってくれました。それだけで十分です。」
彼が小さく笑い、再び沈黙が流れた。
遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。
レティシアはその音を聴きながら、心の奥が満たされていくのを感じた。
けれど平穏は、長くは続かなかった。
午後の陽が傾きかけたとき、村の入り口で兵の姿が見えた。
マイラが駆け足で現れ、息を荒くして告げる。
「王都からの伝令が来ました。明日の夜明けに……エドガー・ラインハルトの拘束命令が下ります。」
レティシアの心臓が止まりそうになった。
「そんな、まだ何も――」
「命令は覆りません。私の裁量では止められない。……逃げるなら、今しかありません。」
マイラの目が揺れていた。
冷たい官吏の瞳ではなく、迷う一人の人間のそれだった。
エドガーはゆっくりと首を横に振る。
「逃げはしない。すべてを終わらせる。」
「ならば、あなたは死にます。」
「その覚悟はできている。」
その頑なな声に、レティシアの中で何かが弾けた。
「私は認めません!」
涙声で叫んでいた。
「覚悟なんて、そんなものいりません! あなたがここにいなかったら、私……!」
言葉が続かず、彼の胸に飛び込む。
「死ぬなんて、絶対に許さない!」
堅く、あたたかい腕がそっと彼女を包んだ。
「……お前の優しさは、時に罪だ。」
「あなたの罪と同じです。人を愛してしまった罪。」
エドガーはしばらく黙ってから、低く呟いた。
「だったら、せめて最後まで生きて証明してやる。その罪が、悪じゃないと。」
その言葉に、レティシアは涙の中で微笑んだ。
外では再び雲が立ち込め、風が冷たく吹き抜ける。
夜明けまでの時間が、二人に与えられた最後の静寂になることを、まだ誰も知らなかった。
続く
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