元婚約者に冷たく捨てられた令嬢、辺境で出会った無愛想な騎士に溺愛される ~今さら戻ってこないでください~

usako

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第26話 赦すか、突き放すか

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王都での裁定が下ってから、二日が経った。  
あの緊張に満ちた裁定の間の光景が、まだレティシアの胸に残っている。  
エドガーの名誉は回復し、王国は正式に彼の無罪と辺境での功績を認めた。  
街は平穏を取り戻し、通りでは人々が笑い合う声が響いていた。  

けれど、心の中はまだ波が立っていた。  
終わったはずのことなのに、完全な安堵には届かない。  
何かがまだ終わっていない。  
それは、心の奥に残る過去の影――そして、父との記憶が形を変えて燃え続けているようだった。  

昼過ぎ、裁定所の外庭を散策していたレティシアのもとに、マイラが現れた。  
彼女はいつもの冷静な表情で、巻物をひとつ抱えている。  
「アーベルグ伯爵のこと、知っていますか?」  
「……知っているとは?」  
「昨夜、牢で倒れました。高熱と衰弱が重なり、医療塔に移送されました。」  

少しの間、言葉が出なかった。  
あの高慢で傲慢な男が、いまどうしているのか。想像もつかない。  
「見舞いに行くなら、今しかありません。快復する保証もありませんから。」  
マイラは淡々とした声で言いながらも、目の奥にはどこか憂いがあった。  
「――行きます。」  

迷いなどなかった。  
苦しんでいる父を見たいわけではなかった。  
ただ、自分の中に残る憎しみの底を確かめたかった。  
赦せるのか、それとも最後まで拒むのか。  
その答えを知らなければ、前へ進めない気がした。  

王都の医療塔は、冷たく静まり返っていた。  
厚い扉を通り抜けると、薬草の香りと淡い灯りが漂っている。  
看護官の案内で部屋へ向かうと、そこには想像していたよりも弱々しい影があった。  

アーベルグ伯爵――かつて絶対の存在と思っていた男が、薄い布の上で小さく息をしていた。  
顔色は青ざめ、白髪だけが月光のように光っている。  
その手は細く、痩せて骨のようだった。  

レティシアは静かに立ち尽くした。  
怒りも恨みも湧かない。  
それでも心の奥で、崩れ落ちそうなものを支えるように言葉を探した。  

「……お父様。」  

枕の上でわずかに目が動いた。  
ゆっくりと彼女を見つめ、その瞳にかすかな驚きと迷いが浮かぶ。  
「レティシア……か。」  
掠れた声。  
それは、昔のように権威ではなく、人の弱さを帯びた音だった。  

「まさか、お前の方から来るとは思わなんだ。」  
「いいえ。きっとこうなる気がしていました。」  
「……皮肉だな。自分のために汚した手が、結局すべてを失う原因になるとは。」  

伯爵はかすかに微笑んだ。  
弱りきったその顔には、もう威圧の欠片もない。  

「罪を認めるのですか?」  
「認めたとて、過去は戻らん。家のためと言いながら、最後は己の名誉のために動いていた。……人は、そうやっていつの間にか正義を見失うものなのだろう。」  

その言葉に、レティシアの胸が締めつけられた。  
小さな頃、あれほど誇りだった父の姿。  
厳しいながらも、真っ直ぐに道を説くその背中を見て育った。  
それがいつしか、名誉と権力にとらわれた人へと変わっていた。  

「あなたは、私を怒鳴りつけた夜を覚えていますか?」  
「覚えておる。お前を守るための言葉だと、あの時は本気で信じていた。」  
「違いましたね。あれは……あなたが、私を通して王都に媚びようとしていた証でした。」  
「そうだ。」伯爵はうっすらと目を閉じた。  
静かな呼吸の間を置きながら、続ける。  
「だが、今さら償いもできん。お前に何を言っても、すべては遅い。ただ一つ……謝りたかった。」  

ぽつり、と落ちた言葉に、レティシアの心が揺らいだ。  

「謝る、ですって?」  
「すべてだ。お前を“駒”としか見なかったこと。  
誰よりも美しく育った娘なのに、その心を見ようとしなかったこと。  
……そして、愛した男を傷つけさせたこと。」  

その瞬間、何かが崩れた。  
積み上げた怒りの壁が溶けていくような、そんな気がした。  

レティシアはゆっくりと歩み寄り、枕元に膝をついた。  
かつて見上げていた人が、今は目の前で弱く息をしている。  
「あなたが、私の生き方を縛った。でも……それがあったから、私はエドガーと出会えました。」  
伯爵の瞳がわずかに開かれる。  
「エドガー……彼が、今のお前を作ったのか。」  
「はい。あなたには理解できないかもしれません。でも、あの人に会えたことで、私は多くのものを捨て、多くを得ました。」  

彼女は一度深呼吸をして続けた。  
「赦そうかどうか、今日決めに来ました。」  
伯爵がゆっくり頷く。  
「そうか。」  

薄い手を布の上で震わせながら伸ばしてくる。  
その手を、レティシアは見つめた。  
触れることをためらい、迷い、そして――そっと指先を重ねた。  

冷たかった。  
けれど、その冷たさの中に確かに生きた年月の重みがあった。  

「あなたを赦します。」  
静かな言葉だった。涙も出なかった。  
「ただし、あなたのしたことを忘れはしません。それは、私の生きる教訓として刻みます。」  
「……ありがとう。」  

伯爵はかすかにほほ笑んだ。  
そこには、父親としての最後の穏やかさが漂っていた。  

扉の向こうで看護官の足音がした。  
レティシアは席を立ち、背を向ける。  
もう、過去に縛られることはない。  

外に出ると、柔らかな陽が差していた。  
春を告げる風が頬を撫で、遠くで鐘が鳴る。  
王都を包む喧噪が、まるで誰かの再生を祝っているようにも聞こえた。  

石畳を歩く途中で、見覚えのある姿が立っていた。  
灰色の目を細めて微笑む男――エドガーが手を差し伸べてくる。  
「やはり行っていたんだな。」  
「分かっていました?」  
「お前の顔を見れば分かる。やっと、何かを下ろした顔をしてる。」  
「……赦せました。ただ、完全にじゃありません。でも、それでいいと思っています。」  

エドガーが頷いた。  
「人は、過去を抱えてこそ強くなる。お前の選択は間違っていない。」  
「ありがとう。」  

二人は並んで歩き出した。  
王都の街路を抜ける風が、どこか穏やかで優しかった。  

「これで本当に終わったのね。」  
レティシアが呟く。  
「いや、始まりだ。」  
「始まり?」  
「お前と俺の、新しい生の。」  

春の空に光が満ちる。  
長く続いた苦しみや怒りが、ようやく遠くへ溶けていった。  
レティシアはその手をしっかりと握り返し、微笑んだ。  

「じゃあ、私の最初の願いを言ってもいいですか?」  
「聞こう。」  
「また辺境へ行きたい。あの村で……笑いながら暮らしたい。」  
「いい願いだ。俺も同じことを思ってた。」  

二人は顔を見合わせて、笑った。  
太陽が照らすその道は、もう過去を背負った影のない新しい光に満ちている。  

続く
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