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第一章 高等学院編 第一編 魔法化学の夜明け(一年次・秋)
EP.XVI 激突!トロリーレース
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ある人が言うには、初めからその道の家系に生まれた者はともかく、そうでない家系に生まれた者でもそれなりに能力は伸ばせるはずである。
よい師がいても鍛錬を疎かにしてその道を継がない者もいれば、よい師がいなくても鍛錬に励み、道に至るという成果をあげることもできるだろう。道を継ぐにしても、道に至るにしても、その道の家系であるかないかに関わらず、しっかりと修練に励むべきである。
目標もなく過ごしていれば、修練と休息の区別も曖昧になり、少しずつ怠けてゆく。ちょっとした仲間内での勝負を行った時に、自分の力が周りに及ばなくなってしまっていることに気付き、急に人目が嫌に思えてしまうようになる。
得てして、容姿や身分が優れていても能力がない者が、能力のある者と並んで立っていると、その品位も見た目も大したことないと思えてしまうものだ。例えば、可憐な花の隣に生えている常磐木は、幾度も春を越えて、嵐が過ぎ去った後でも、しっかりと緑の葉が残っているが、その時に花はもう残っていない。
つまり、
桃李は一旦の栄花なり(桃や李ように一時的な栄華があっても)
松樹は千年の貞木なり(松の樹のように千年も緑を保つことはできない)
ということだ。
いくら身分が優れていても鍛錬を疎かにする者を見ると、本当に残念に思えてしまう。まして、能力のある者と並んだ時にはなおさらだ。身分があるのと、能力があるのと、同じように見えるかもしれないが、一人は有能で、一人は無能と言わざるをえない。
今では世の中も変わってきたために、昔に比べてそれぞれの芸の道は少しずつ衰退していっている。どんな道の才能であっても、その師にしっかりと教えを請うても、藍よりも青くなることは稀ではあるし、それでなくとも箕裘を継がない者が増えているのは本当に残念だ。
(原文)
或人云本ヨリ其道々ノ家ニ生レヌルハサル事也サナキタクヒモ程々ニツケテハ能ハ必アルヘキ也中ニモ氏ヲウケタル物芸ヲロカニシテ氏ヲ継ヌ類アリ道ニアラサル類ヒ能ニヨリテ道ニイタル徳モアレハ氏ヲ継カンカタメ道ニイタランカタメニ彼モ是モ共ニハケムヘシナニトナクヰ交リタルオリハ其ケチメ見エサレトモ芸能ニツケテ召出サレタタウチアルワレトチノ遊ヒカタヘニヌキ出テ何事ヲモシタラムハ雲泥ノ心地シテ人目イミシク覚エヌヘシスヘテミモヨク品高ケレトモアヤシクイヤシキカ能アルニ立ナラフオリハ其シナソノミメモ必思ケタルルモノ也タトヘハ花ノアタリノ常磐木ハウチミルニタトヘナクサメタレトモ春ノ日数クレ峰ノ嵐スキヌル後ニミトリハカリ残リテカリノ匂トトマラサルカコトシサレハ桃李ハ一旦ノ栄花ナリ松樹ハ千年ノ貞木ナリト云リイミシクアテミノ能ナキカ一人アルヲ見タニ能アルヲ思出ル習也況ヤ能ニナラフオリノケチメヲヤ何況ヤ同様ナルカ一人ハ能アリテ一人ハ能ナキヲヤ中ニモ世中ノカハリユクサマ昔ヨリハ次第ニ衰ヘモテ行ニツケツツ道々ノ才芸モ又父祖ニハ及ヒカタキ習ナレハ藍ヨリモ青カラン事ハマコトニ希ナリトイヘトモ如形ナリトモ箕裘ノ業ヲツカサラム口惜カリヌヘシ
無限回廊書架 DDC. 144
――菅原為長『十訓抄』第十可庶幾才芸事・序 A.D. 1238
僕らは学院の北側にあるウップランドの草原に来ている。なだらかで広大な丘陵地になっており、青々としたバルト海も見渡せる。穏やかな風が吹きぬける温暖な気候は昼寝でもしたいぐらいに気持ちがいい。そんな爽やかな風景におよそ似つかわしくない光景が展開されていた。
「さて、コーダ・リンドグレン、覚悟はよろしくて?」
「いや……覚悟も何も、そもそも何をするんだ?」
「筏で勝負ですわ!」
「えっ?」
眼下に広がるは蒼きバルト海。丘には僕とマルガレータの勝負の様子を聞きつけた白組と黒組のクラスメイトたちがギャラリーとして来ている。はてさて、丘の上で筏勝負とは一体どういうことだろうか?
「驚くのも無理はないわね! あれを見なさい! トロリーに帆をつけた特注品よ!」
マルガレータの指した木陰には二台のトロリーが置いてある。トロリーとは普通は馬車に引かせる四輪の荷車のことを言う。二台ともそれぞれ馬に引かせてここまで来たようで、馬には彼女のお付きの二人が乗っている。丘陵地に似つかわしくない光景を挙げるとすれば、馬に繋がれたそれらのフラットな荷台の上に立派な帆柱が取り付けられていることだろう。普段海でしか見ないものだけに、草原の上にそれが聳えている光景は異様としか言い様がなかった。そんな代物を使って空気魔法での勝負ということは――
「レースで勝負よ!」
ℵ
さて、ここいらでここまでの顛末を少し語っておこう。
――それは、魔法実験に明け暮れていた次の日のことだった。
「昨日は一体どこに行ってましたの!? ずっと探してましたのよ!」
学院に登校するなり、マルガレータが白組の教室の前で待ち構えていた。彼女のお付きのダニエルとエーリクも居て、なんだかとても目立っている。しかも何かご立腹の様子だ。……あぁ、そう言えば今日が勝負の日なのか。まだ勝負の内容すら聞いていなかった。
面倒だとは思いつつも、約束なら仕方がない。(とはいえ、それも非常に一方的なものだったけれど…)
「ごめんごめん! 昨日は魔法の練習をしてたんだ」
「あ、あら、意外と努力してらっしゃいますのね…」
マルガレータって、プライドがやけに高いだけで、基本的には努力家っぽいし、他人を無闇に過小評価しないあたり、根はいいやつなんだろうな、なんて他人事のように感心してしまうが、やはり面倒事を避けたいのは変わらない。
ちなみに僕にとって魔法の鍛錬は努力だとは思っていない。好きなことを好きなようにやっているだけだ。
自分が知らないことを知って、
自分が知らなかったということを知って、
自分がまだ知らないことがあると知っていく。
新しい魔法が使えるようになったり、今までの魔法の性能を上げたり、そうやって一つずつ、出来なかったことが出来るようになっていく、その過程を純粋に楽しんでいるだけだ。
「それで、昨日は何か用事だったの?」
「勝負の内容を先にお伝えしようかと思いましたのに寮にいないんですもの! とんだ無駄足でしたわ!」
「そうだったんだ…。それは悪いことをしたね」
「構いませんわ。怒ってはいますが、別に貴方が悪いわけではありませんから」
「そう言ってもらえると助かるよ」
うん、やっぱりいい人そうだ。
「その代わり、勝負の内容は放課後に伝えますわ。ご覧になった方が早いと思いますから。放課後、北の丘まで来なさい。そこで準備しておきますわ」
「ウップランドの丘だね。分かった」
今日はダニエルとエーリクはやけに大人しい。大人しいとは言え、僕を見下すような、あるいは嫉むような、あるいはそれは敵愾心を燃やしているかのような、とにかくそう言った敵意の強い視線は今まで以上だった。
「精々首を洗って待っておきなさい!」
――最後に悪役のような台詞を残して立ち去るマルガレータ。
「………」
「いやぁ、今回は何だか友好的だったんじゃないか?」
教室に入るなり、一緒に登校して来たにも関わらず、助け舟も出さずに傍観していただけのイェスペルが勝手なことを言う。
「どうだろう…別に仲良くなんてなってないと思うけど…」
「そりゃそうさ。何せお付きの騎士様に敵視されてんだから。ただあのお嬢さんとは険悪じゃなかったってだけの意味だよ」
以前にリズベツから、マルガレータの家名であるパーシュブラント家は王宮に所縁のある貴族だと聞いている。自分の二重魔法が危険視されている可能性は大いにある。厄介なことにならなきゃいいけど…。鬼が出るか蛇が出るか、全ては放課後になってからだった。
ℵ
そして時間軸は現在に至る。
陸上式の筏というのは初めて見た。初めて見たというより、風を動力にする荷車なんて誰も作ろうとしなかった。なぜなら実用には向いていないからだ。例えば羊の乳を入れておくブリキ缶だって、満タンに入っていればちょうど人間一人分くらいの重さになる。そんなのを何個も載せたりしたら、風ぐらいでは荷車はビクともしない。よほどの突風が吹くのを待つか、よほど大きな帆を用意するしかないだろうが、あまり大きくしても重くなるし転倒もしやすくなる。
加えて、車輪で移動する以上、海上のように前後左右に自由に動くことはできない。操舵輪を付けて曲がれるようにするしか無いが、帆船同様に風向きに合わせて帆の向きも変える必要がある。舵も帆もどちらも同時にコントロールしなければならないとなると、やはり操作が難しくなる。もうそこまでするなら馬に引かせたほうが手っ取り早い。
今回の勝負では特に積荷などはないので、重くて動かないなんてことにはならないが、空気魔法で風をコントロールして帆を狙い、車体を動かすことになる。それでも、途中にある石や窪みをうまく避けながら走ることになるので、なかなか繊細な操作が必要そうだ。加えて、丘の上からの下りのコースだ。当然元が馬用の荷車だから減速機のようなものは付いていない。坂道を下り始めた荷車の速度を制御するには、反対側から帆に向けて風を放つ必要もあるが、そればかりでは速度が出ない。勝負に勝つにはある程度加速も必要だ。
「それでは筏に乗って準備をしてちょうだい」
「コーダ・リンドグレン、お前の筏はこっちだ。さっさと乗れ」
「あ、ああ…(あくまでこれを筏と呼ぶのか…)」
そう言って荷台の上に乗る。もはやこれは筏と言うべきか、トロリーと言うべきか、荷車と言うべきか、とにかくその奇怪な乗り物は、近くで見てみると思ったよりもしっかりとした拵えになっており、作った職人の仕事の丁寧さが窺える。帆柱にも耐久性を上げるためか帆桁の下の部分には麻縄が巻き付けられている。帆の下側を帆桁に固定すると、三角形の帆がしっかりと張られた。
「丘の下の双子の三角岩の所まで先に着いた方が勝ちよ」
「ふむ、あれか…」
遥か視界の先にある双子の三角岩。高さ五メートルぐらいのその特徴的な形の一対の双子岩は、離れていてもよく見える。ここからの距離は目算で三キロメートルといったところだろう。岩や窪みもさることながらトロリーの置いてある木陰同様の常盤木が所々に生えているのも、うまく避けて通っていかなければならない。
「準備はよろしくて? そろそろレースを始めますわよ」
「あい分かった。こっちは問題ないよ」
「それでは、ダニエル。開戦の号令をかけなさい」
「はっ! 御意に」
白組のクラスメイトは僕を応援してくれていて、黒組の生徒たちはマルガレータを応援している。いつのまにか、白組と黒組の代表戦のようになってしまっていた。これは余計に負ける訳にはいかないな…。イェスペルとマリー、リズベツも例に漏れず応援に来ているようなのでなおさらだ。
開始までの時間で戦略をシミュレートする。気を付けなければならないことは――三つ。一つ、強すぎる風を起こして帆を壊してしまうこと。二つ、一般的に学校で教えている簡易詠唱に比べて、僕の詠唱は少し長いというデメリット。魔獣食材を食べることで一節目を省くことができるが、いまはそういった物は食べていない。奇しくも、虹孔雀の卵は空気属性を活性化させる食材であることが分かったが、その状態での魔法はまだ試してはいなかったし、火山牛の燻製ファルーコルヴの例から考えると、下手にぶっつけ本番でやるわけにもいかない。一応、直接的な空気魔法勝負だった場合に備えて持ってきてはいるが、トロリーの帆柱なんて簡単に壊してしまいそうだった。三つ、コースの障害物に気を取られて、マルガレータの車体との接触や妨害などに対する注意を疎かにできない。
「それでは両者、いざ尋常に――始めっ!!」
戦いの火蓋が切って落とされた。
『愛女神の司りし空気の元素よ――
我が理を此処に示せ』
開始と同時にマルガレータが詠唱を始める。簡易詠唱は予め設定した魔法を呼び出すことができる。そのため詠唱は短く、誰でも簡単に成功させられるが、応用を効かせにくい。
『クシフォス!』
空気魔法 Lv 1「クシフォス」を唱えた途端、発生した空気の塊は風となってマルガレータのトロリーの帆を打ち付ける。その威力によってマルガレータの車体は勢い良く飛び出した。非常に綺麗でスムーズなスタートだった。
通常ならこの魔法は空気の剣が対象を斬りつける。局所的な突風は普段の空気とは思えぬほどの質量を持ち、離れた相手に斬撃の攻撃を加えることができる。だが今回の対象は帆柱だ。切り刻んでしまう訳にはいかない。では、詠唱の中身をカスタマイズする術を学ばない場合はどうするか。――答えはシンプルだ。威力を調整すればいい。
魔法に使う魔力の量を減らすほどに、空気の剣は小さく軽く、鈍らになっていく。刃で斬りつけるようなシャープな斬撃ではなく、刀身で叩きつける打撃の如き空気の塊を帆にぶつけていく。これなら威力を強くすることは難しいが、帆を破らずにトロリーを動かすことができる。そして、マルガレータは威力の調整だけでなく、同時に範囲の調整もやってのけているようだ。単に威力を弱くしただけでは、帆が破れる心配はないものの、スピードが出ない。彼女は威力を弱くしたままで、魔法の範囲を広げて発動させている。
一本の棒で帆の一箇所を叩くのではなく、十本の棒で帆の十箇所を叩くようなイメージだ。これならクシフォスの切れ味を上げること無く、トロリーの速度だけを上げることができる。よく考えられた方法であるし、何より彼女のその魔力調整・範囲調整のコントロール技術は非常に卓越していて、僕でも及ばないかもしれないレベルだった。
僕は今まで、簡易詠唱は発動が簡単になっている代わりに大して応用の利かないものだと思っていたけれど、僕の想像以上に応用して発動させているマルガレータを見て、僕は認識を改めなければならないと思った。やはり彼女は優秀だ。対戦相手として一寸たりとも侮る訳にはいかない。
(僕も本気で頑張らなきゃ……うかうかしていられない)
『Setjið――』
ただ普通に空気魔法 Lv 1「クシフォス」を発動させると帆は破れてしまうし、僕の能力では彼女ほどうまく威力や範囲をコントロールできる自信はなかった。
『Vindur fyrir þætti――』
この古代詠唱であれば、色々と形やマナの種類を自分で変えることができる。しかし、そのカスタマイズにも限度がある。古ノルド語の言葉は魔法詠唱に使われている範囲でしか分からないし、自由に変えることができると言う程には変えられない。
『Byrjaþu útdrátt――』
恐らくそれはこの古代言語をもっと勉強すれば済む話だろうが、そもそも簡易詠唱に比べて詠唱が長いというデメリットも依然として存在する。簡易詠唱が二文節+魔法名で発動できるのに対し、空気魔法 Lv 1 の場合は四文節の詠唱が必要になる。ただそれも魔獣食材を用いれば三文節に短縮することもできるので、デメリットとしては数秒の違いだ。
『Gerðu straum――』
しかし、今回の勝負はレースだ。たとえ数秒であれゴールが遅れれば負けとなる。彼女が十の風で帆を叩くような魔法を使うなら、僕のは風の丸太で帆を突くような魔法だ。水魔法 Lv 1「カタラクティス」によって生み出される水柱と同じ大きさ、同じ形の空気の塊を帆にぶつける。
『Framkvæma forritiþ』
マルガレータの魔法から遅れること数秒、僕の魔法が発動する。生み出された空気の塊は巨大な丸太のように帆を打ち付ける。急加速に一瞬振り落とされそうになり、帆柱を掴んで腰を落とす。速度は彼女よりもかなり速い。丘の上から麓までは下り坂になっているため、しばらくは走り続けるだろう。けれども、ゴールまではかなり距離がある。下り坂とは言ってもなだらかなので、徐々に速度が落ちてくれば再度魔法を使う必要があるし、障害物を避ける際にも軌道修正が必要だ。あとは帆が耐えてくれればいいのだが。
ふと横を見るとマルガレータを追い抜いていくところだった。彼女は魔法のコントロールと障害物への注意に必死の様子だが、僕が追い抜いたことにも気付いたようだった。彼女もまた接触や妨害に対して警戒しているか、僕の動向もきちんと見ているようだった。ただ、恐らく彼女は直接的な妨害などはしてこないだろうし、僕もそういうことをするつもりはない。
僕の筏の速度は彼女のよりも五割ほど速い。僕の魔法発動から十秒ほどで彼女を追い抜いた。このまま行けば問題なく勝てそうだが、速度が速い分、障害物があっても小回りが利きにくいので、走る経路は慎重に選ばなくてはならない。
僕に追い抜かれたところで、マルガレータは再度魔法を唱えた。魔力視で魔力の流れを見てみると、今度は十の風の棒で帆を叩くのではなく、風の棒六つを壁のように配置し、しかもそれを五層分作り出した。それを数秒間隔で一層分ずつ帆にぶつけている。その為、一度でスタートほどの加速はしないが、減速してきた筏の帆に多段ヒットさせることで、連続的に少しずつ速度を上げた。スタートの時の加速とは違い、今度は長い距離を減速せずに走ることを重視した方法を考えたようだ。
(すごいな…ほんとなんでもできるなぁ…)
魔法科の教室で睨まれた時は厄介な人に絡まれたものだと思っていたが、その技量には素直に舌を巻く。なぜ学院では古代詠唱ではなく簡易詠唱を教えているのかと思っていたが、そんなふうに応用ができる余地があるから簡易詠唱で問題ないということなんだろう。それにしてもマルガレータほどの繊細なコントロールや応用ができる技術を持っている人は少ないだろう。魔獣などを目の前にして、風の剣で切りつけずに、わざわざ威力の弱い風の棒で叩くような出力調整を練習する必要性など無いに等しいからだ。
マルガレータが追いついてくる。僕の筏の速度が落ちてきたとは言え、どうやら簡単には勝たせてくれないようだ。僕もそろそろ次の詠唱の準備に入らなければならないだろう。
そう思って帆柱を見てみると、車体の振動によってちょうど麻縄を巻いているあたりから上の部分が少しぐらぐらしている。一発目の魔法で柱にひびでも入ってしまったのだろうか。
――いや、それはおかしい。
麻縄が巻いてあるのは帆桁よりも下の部分で、しかも巻いてあるのも全部ではなく左右の手のひらを広げたくらいの幅だけだ。たしかに帆に力が加わった時、下の方が押される力の影響を受けやすいのは分かるが、それにしても麻縄を巻いている部分は特に頑丈なはずだ。ひびが入るなら先に麻縄を巻いていない部分から入りそうなものだ。
(そもそも、なぜこの部分にだけ麻縄が?)
とにかくマルガレータに追いつかれている以上、ここでまごついている暇はない。僕は二回目の詠唱を行った。
『Setjið vindur fyrir þætti――
Byrjaþu útdrátt――
Gerðu straum――
Framkvæma forritiþ』
紡いだ詠唱は風の槌となって帆を打ち付ける。再度トップスピードへ加速し、追いついてきたマルガレータを再び引き離すが、その時、風に耐えきれなくなった帆柱が折れて横に倒れて車体から落ちた。幸い筏の進路を塞ぐことも、減速させることもなかったが――それでもこれは由々しき事態だった。
「どうやら年貢の納め時のようね! あなたの魔法は強力ですが、出力の調整を誤るなんてまだまだですわ!」
「くっ……」
近くまで来ていたマルガレータも一部始終を見ていたようで、そんな勝利宣言をしてくるが、返す言葉もない。しかし、そんなに強かっただろうか。ちょうど麻縄で巻いてある部分から折れたようで、帆柱がすっぽ抜けた部分の麻縄が解けてはためいている。そこから折れた部分が見えた。
(……ん?)
それに違和感を覚えて近づいて切り口を覗いてみる。柱の切り口がおかしい。奥側は木を折ったようにぎざぎざに尖っているが、手前側は切り口が妙に綺麗だ。まるであらかじめ切り込みがそこについていたような、剣や斧で切ったような切れ方だった。
(これは……、まさかダニエルたちの仕業か!)
あらかじめ半分ほどの切り込みを入れておくことで折れやすくしていた、というところだろう。そしてそれを麻縄で巧妙に隠していたわけだ。まさかそんな手段――いや、不正と言ったほうがいいだろう――それを講じてくるとは思わなかった。マルガレータの印象からして、彼女はそういうことをする人柄では無さそうな気がする。おそらく僕を敵視するダニエルたちの独断だろう。
(そういえば、スタート前に僕にこっちの車体に乗るように指示したのもダニエルだったか)
ダニエルの単独犯のような気もするが、エーリクが関わっていようがいまいが、もはやそれはもうどっちでもいい。
――さて、この状況をどうするか。
不正をマルガレータに訴えてレースを中止させることも考えたが、彼女の人柄につけこんで利用するようで気が引ける。
それであれば、帆がなくても、このレースに勝つしか無い。
僕とマルガレータはまだ並んだ位置にいて、同じぐらいの速度で走っている。
残りの距離は約 2,500 メートル。
帆がなければ障害物を避けられないどころか、加速することもできない。
このままでは負けるのは必至だ。
さて、本当にどうしようか…。
よい師がいても鍛錬を疎かにしてその道を継がない者もいれば、よい師がいなくても鍛錬に励み、道に至るという成果をあげることもできるだろう。道を継ぐにしても、道に至るにしても、その道の家系であるかないかに関わらず、しっかりと修練に励むべきである。
目標もなく過ごしていれば、修練と休息の区別も曖昧になり、少しずつ怠けてゆく。ちょっとした仲間内での勝負を行った時に、自分の力が周りに及ばなくなってしまっていることに気付き、急に人目が嫌に思えてしまうようになる。
得てして、容姿や身分が優れていても能力がない者が、能力のある者と並んで立っていると、その品位も見た目も大したことないと思えてしまうものだ。例えば、可憐な花の隣に生えている常磐木は、幾度も春を越えて、嵐が過ぎ去った後でも、しっかりと緑の葉が残っているが、その時に花はもう残っていない。
つまり、
桃李は一旦の栄花なり(桃や李ように一時的な栄華があっても)
松樹は千年の貞木なり(松の樹のように千年も緑を保つことはできない)
ということだ。
いくら身分が優れていても鍛錬を疎かにする者を見ると、本当に残念に思えてしまう。まして、能力のある者と並んだ時にはなおさらだ。身分があるのと、能力があるのと、同じように見えるかもしれないが、一人は有能で、一人は無能と言わざるをえない。
今では世の中も変わってきたために、昔に比べてそれぞれの芸の道は少しずつ衰退していっている。どんな道の才能であっても、その師にしっかりと教えを請うても、藍よりも青くなることは稀ではあるし、それでなくとも箕裘を継がない者が増えているのは本当に残念だ。
(原文)
或人云本ヨリ其道々ノ家ニ生レヌルハサル事也サナキタクヒモ程々ニツケテハ能ハ必アルヘキ也中ニモ氏ヲウケタル物芸ヲロカニシテ氏ヲ継ヌ類アリ道ニアラサル類ヒ能ニヨリテ道ニイタル徳モアレハ氏ヲ継カンカタメ道ニイタランカタメニ彼モ是モ共ニハケムヘシナニトナクヰ交リタルオリハ其ケチメ見エサレトモ芸能ニツケテ召出サレタタウチアルワレトチノ遊ヒカタヘニヌキ出テ何事ヲモシタラムハ雲泥ノ心地シテ人目イミシク覚エヌヘシスヘテミモヨク品高ケレトモアヤシクイヤシキカ能アルニ立ナラフオリハ其シナソノミメモ必思ケタルルモノ也タトヘハ花ノアタリノ常磐木ハウチミルニタトヘナクサメタレトモ春ノ日数クレ峰ノ嵐スキヌル後ニミトリハカリ残リテカリノ匂トトマラサルカコトシサレハ桃李ハ一旦ノ栄花ナリ松樹ハ千年ノ貞木ナリト云リイミシクアテミノ能ナキカ一人アルヲ見タニ能アルヲ思出ル習也況ヤ能ニナラフオリノケチメヲヤ何況ヤ同様ナルカ一人ハ能アリテ一人ハ能ナキヲヤ中ニモ世中ノカハリユクサマ昔ヨリハ次第ニ衰ヘモテ行ニツケツツ道々ノ才芸モ又父祖ニハ及ヒカタキ習ナレハ藍ヨリモ青カラン事ハマコトニ希ナリトイヘトモ如形ナリトモ箕裘ノ業ヲツカサラム口惜カリヌヘシ
無限回廊書架 DDC. 144
――菅原為長『十訓抄』第十可庶幾才芸事・序 A.D. 1238
僕らは学院の北側にあるウップランドの草原に来ている。なだらかで広大な丘陵地になっており、青々としたバルト海も見渡せる。穏やかな風が吹きぬける温暖な気候は昼寝でもしたいぐらいに気持ちがいい。そんな爽やかな風景におよそ似つかわしくない光景が展開されていた。
「さて、コーダ・リンドグレン、覚悟はよろしくて?」
「いや……覚悟も何も、そもそも何をするんだ?」
「筏で勝負ですわ!」
「えっ?」
眼下に広がるは蒼きバルト海。丘には僕とマルガレータの勝負の様子を聞きつけた白組と黒組のクラスメイトたちがギャラリーとして来ている。はてさて、丘の上で筏勝負とは一体どういうことだろうか?
「驚くのも無理はないわね! あれを見なさい! トロリーに帆をつけた特注品よ!」
マルガレータの指した木陰には二台のトロリーが置いてある。トロリーとは普通は馬車に引かせる四輪の荷車のことを言う。二台ともそれぞれ馬に引かせてここまで来たようで、馬には彼女のお付きの二人が乗っている。丘陵地に似つかわしくない光景を挙げるとすれば、馬に繋がれたそれらのフラットな荷台の上に立派な帆柱が取り付けられていることだろう。普段海でしか見ないものだけに、草原の上にそれが聳えている光景は異様としか言い様がなかった。そんな代物を使って空気魔法での勝負ということは――
「レースで勝負よ!」
ℵ
さて、ここいらでここまでの顛末を少し語っておこう。
――それは、魔法実験に明け暮れていた次の日のことだった。
「昨日は一体どこに行ってましたの!? ずっと探してましたのよ!」
学院に登校するなり、マルガレータが白組の教室の前で待ち構えていた。彼女のお付きのダニエルとエーリクも居て、なんだかとても目立っている。しかも何かご立腹の様子だ。……あぁ、そう言えば今日が勝負の日なのか。まだ勝負の内容すら聞いていなかった。
面倒だとは思いつつも、約束なら仕方がない。(とはいえ、それも非常に一方的なものだったけれど…)
「ごめんごめん! 昨日は魔法の練習をしてたんだ」
「あ、あら、意外と努力してらっしゃいますのね…」
マルガレータって、プライドがやけに高いだけで、基本的には努力家っぽいし、他人を無闇に過小評価しないあたり、根はいいやつなんだろうな、なんて他人事のように感心してしまうが、やはり面倒事を避けたいのは変わらない。
ちなみに僕にとって魔法の鍛錬は努力だとは思っていない。好きなことを好きなようにやっているだけだ。
自分が知らないことを知って、
自分が知らなかったということを知って、
自分がまだ知らないことがあると知っていく。
新しい魔法が使えるようになったり、今までの魔法の性能を上げたり、そうやって一つずつ、出来なかったことが出来るようになっていく、その過程を純粋に楽しんでいるだけだ。
「それで、昨日は何か用事だったの?」
「勝負の内容を先にお伝えしようかと思いましたのに寮にいないんですもの! とんだ無駄足でしたわ!」
「そうだったんだ…。それは悪いことをしたね」
「構いませんわ。怒ってはいますが、別に貴方が悪いわけではありませんから」
「そう言ってもらえると助かるよ」
うん、やっぱりいい人そうだ。
「その代わり、勝負の内容は放課後に伝えますわ。ご覧になった方が早いと思いますから。放課後、北の丘まで来なさい。そこで準備しておきますわ」
「ウップランドの丘だね。分かった」
今日はダニエルとエーリクはやけに大人しい。大人しいとは言え、僕を見下すような、あるいは嫉むような、あるいはそれは敵愾心を燃やしているかのような、とにかくそう言った敵意の強い視線は今まで以上だった。
「精々首を洗って待っておきなさい!」
――最後に悪役のような台詞を残して立ち去るマルガレータ。
「………」
「いやぁ、今回は何だか友好的だったんじゃないか?」
教室に入るなり、一緒に登校して来たにも関わらず、助け舟も出さずに傍観していただけのイェスペルが勝手なことを言う。
「どうだろう…別に仲良くなんてなってないと思うけど…」
「そりゃそうさ。何せお付きの騎士様に敵視されてんだから。ただあのお嬢さんとは険悪じゃなかったってだけの意味だよ」
以前にリズベツから、マルガレータの家名であるパーシュブラント家は王宮に所縁のある貴族だと聞いている。自分の二重魔法が危険視されている可能性は大いにある。厄介なことにならなきゃいいけど…。鬼が出るか蛇が出るか、全ては放課後になってからだった。
ℵ
そして時間軸は現在に至る。
陸上式の筏というのは初めて見た。初めて見たというより、風を動力にする荷車なんて誰も作ろうとしなかった。なぜなら実用には向いていないからだ。例えば羊の乳を入れておくブリキ缶だって、満タンに入っていればちょうど人間一人分くらいの重さになる。そんなのを何個も載せたりしたら、風ぐらいでは荷車はビクともしない。よほどの突風が吹くのを待つか、よほど大きな帆を用意するしかないだろうが、あまり大きくしても重くなるし転倒もしやすくなる。
加えて、車輪で移動する以上、海上のように前後左右に自由に動くことはできない。操舵輪を付けて曲がれるようにするしか無いが、帆船同様に風向きに合わせて帆の向きも変える必要がある。舵も帆もどちらも同時にコントロールしなければならないとなると、やはり操作が難しくなる。もうそこまでするなら馬に引かせたほうが手っ取り早い。
今回の勝負では特に積荷などはないので、重くて動かないなんてことにはならないが、空気魔法で風をコントロールして帆を狙い、車体を動かすことになる。それでも、途中にある石や窪みをうまく避けながら走ることになるので、なかなか繊細な操作が必要そうだ。加えて、丘の上からの下りのコースだ。当然元が馬用の荷車だから減速機のようなものは付いていない。坂道を下り始めた荷車の速度を制御するには、反対側から帆に向けて風を放つ必要もあるが、そればかりでは速度が出ない。勝負に勝つにはある程度加速も必要だ。
「それでは筏に乗って準備をしてちょうだい」
「コーダ・リンドグレン、お前の筏はこっちだ。さっさと乗れ」
「あ、ああ…(あくまでこれを筏と呼ぶのか…)」
そう言って荷台の上に乗る。もはやこれは筏と言うべきか、トロリーと言うべきか、荷車と言うべきか、とにかくその奇怪な乗り物は、近くで見てみると思ったよりもしっかりとした拵えになっており、作った職人の仕事の丁寧さが窺える。帆柱にも耐久性を上げるためか帆桁の下の部分には麻縄が巻き付けられている。帆の下側を帆桁に固定すると、三角形の帆がしっかりと張られた。
「丘の下の双子の三角岩の所まで先に着いた方が勝ちよ」
「ふむ、あれか…」
遥か視界の先にある双子の三角岩。高さ五メートルぐらいのその特徴的な形の一対の双子岩は、離れていてもよく見える。ここからの距離は目算で三キロメートルといったところだろう。岩や窪みもさることながらトロリーの置いてある木陰同様の常盤木が所々に生えているのも、うまく避けて通っていかなければならない。
「準備はよろしくて? そろそろレースを始めますわよ」
「あい分かった。こっちは問題ないよ」
「それでは、ダニエル。開戦の号令をかけなさい」
「はっ! 御意に」
白組のクラスメイトは僕を応援してくれていて、黒組の生徒たちはマルガレータを応援している。いつのまにか、白組と黒組の代表戦のようになってしまっていた。これは余計に負ける訳にはいかないな…。イェスペルとマリー、リズベツも例に漏れず応援に来ているようなのでなおさらだ。
開始までの時間で戦略をシミュレートする。気を付けなければならないことは――三つ。一つ、強すぎる風を起こして帆を壊してしまうこと。二つ、一般的に学校で教えている簡易詠唱に比べて、僕の詠唱は少し長いというデメリット。魔獣食材を食べることで一節目を省くことができるが、いまはそういった物は食べていない。奇しくも、虹孔雀の卵は空気属性を活性化させる食材であることが分かったが、その状態での魔法はまだ試してはいなかったし、火山牛の燻製ファルーコルヴの例から考えると、下手にぶっつけ本番でやるわけにもいかない。一応、直接的な空気魔法勝負だった場合に備えて持ってきてはいるが、トロリーの帆柱なんて簡単に壊してしまいそうだった。三つ、コースの障害物に気を取られて、マルガレータの車体との接触や妨害などに対する注意を疎かにできない。
「それでは両者、いざ尋常に――始めっ!!」
戦いの火蓋が切って落とされた。
『愛女神の司りし空気の元素よ――
我が理を此処に示せ』
開始と同時にマルガレータが詠唱を始める。簡易詠唱は予め設定した魔法を呼び出すことができる。そのため詠唱は短く、誰でも簡単に成功させられるが、応用を効かせにくい。
『クシフォス!』
空気魔法 Lv 1「クシフォス」を唱えた途端、発生した空気の塊は風となってマルガレータのトロリーの帆を打ち付ける。その威力によってマルガレータの車体は勢い良く飛び出した。非常に綺麗でスムーズなスタートだった。
通常ならこの魔法は空気の剣が対象を斬りつける。局所的な突風は普段の空気とは思えぬほどの質量を持ち、離れた相手に斬撃の攻撃を加えることができる。だが今回の対象は帆柱だ。切り刻んでしまう訳にはいかない。では、詠唱の中身をカスタマイズする術を学ばない場合はどうするか。――答えはシンプルだ。威力を調整すればいい。
魔法に使う魔力の量を減らすほどに、空気の剣は小さく軽く、鈍らになっていく。刃で斬りつけるようなシャープな斬撃ではなく、刀身で叩きつける打撃の如き空気の塊を帆にぶつけていく。これなら威力を強くすることは難しいが、帆を破らずにトロリーを動かすことができる。そして、マルガレータは威力の調整だけでなく、同時に範囲の調整もやってのけているようだ。単に威力を弱くしただけでは、帆が破れる心配はないものの、スピードが出ない。彼女は威力を弱くしたままで、魔法の範囲を広げて発動させている。
一本の棒で帆の一箇所を叩くのではなく、十本の棒で帆の十箇所を叩くようなイメージだ。これならクシフォスの切れ味を上げること無く、トロリーの速度だけを上げることができる。よく考えられた方法であるし、何より彼女のその魔力調整・範囲調整のコントロール技術は非常に卓越していて、僕でも及ばないかもしれないレベルだった。
僕は今まで、簡易詠唱は発動が簡単になっている代わりに大して応用の利かないものだと思っていたけれど、僕の想像以上に応用して発動させているマルガレータを見て、僕は認識を改めなければならないと思った。やはり彼女は優秀だ。対戦相手として一寸たりとも侮る訳にはいかない。
(僕も本気で頑張らなきゃ……うかうかしていられない)
『Setjið――』
ただ普通に空気魔法 Lv 1「クシフォス」を発動させると帆は破れてしまうし、僕の能力では彼女ほどうまく威力や範囲をコントロールできる自信はなかった。
『Vindur fyrir þætti――』
この古代詠唱であれば、色々と形やマナの種類を自分で変えることができる。しかし、そのカスタマイズにも限度がある。古ノルド語の言葉は魔法詠唱に使われている範囲でしか分からないし、自由に変えることができると言う程には変えられない。
『Byrjaþu útdrátt――』
恐らくそれはこの古代言語をもっと勉強すれば済む話だろうが、そもそも簡易詠唱に比べて詠唱が長いというデメリットも依然として存在する。簡易詠唱が二文節+魔法名で発動できるのに対し、空気魔法 Lv 1 の場合は四文節の詠唱が必要になる。ただそれも魔獣食材を用いれば三文節に短縮することもできるので、デメリットとしては数秒の違いだ。
『Gerðu straum――』
しかし、今回の勝負はレースだ。たとえ数秒であれゴールが遅れれば負けとなる。彼女が十の風で帆を叩くような魔法を使うなら、僕のは風の丸太で帆を突くような魔法だ。水魔法 Lv 1「カタラクティス」によって生み出される水柱と同じ大きさ、同じ形の空気の塊を帆にぶつける。
『Framkvæma forritiþ』
マルガレータの魔法から遅れること数秒、僕の魔法が発動する。生み出された空気の塊は巨大な丸太のように帆を打ち付ける。急加速に一瞬振り落とされそうになり、帆柱を掴んで腰を落とす。速度は彼女よりもかなり速い。丘の上から麓までは下り坂になっているため、しばらくは走り続けるだろう。けれども、ゴールまではかなり距離がある。下り坂とは言ってもなだらかなので、徐々に速度が落ちてくれば再度魔法を使う必要があるし、障害物を避ける際にも軌道修正が必要だ。あとは帆が耐えてくれればいいのだが。
ふと横を見るとマルガレータを追い抜いていくところだった。彼女は魔法のコントロールと障害物への注意に必死の様子だが、僕が追い抜いたことにも気付いたようだった。彼女もまた接触や妨害に対して警戒しているか、僕の動向もきちんと見ているようだった。ただ、恐らく彼女は直接的な妨害などはしてこないだろうし、僕もそういうことをするつもりはない。
僕の筏の速度は彼女のよりも五割ほど速い。僕の魔法発動から十秒ほどで彼女を追い抜いた。このまま行けば問題なく勝てそうだが、速度が速い分、障害物があっても小回りが利きにくいので、走る経路は慎重に選ばなくてはならない。
僕に追い抜かれたところで、マルガレータは再度魔法を唱えた。魔力視で魔力の流れを見てみると、今度は十の風の棒で帆を叩くのではなく、風の棒六つを壁のように配置し、しかもそれを五層分作り出した。それを数秒間隔で一層分ずつ帆にぶつけている。その為、一度でスタートほどの加速はしないが、減速してきた筏の帆に多段ヒットさせることで、連続的に少しずつ速度を上げた。スタートの時の加速とは違い、今度は長い距離を減速せずに走ることを重視した方法を考えたようだ。
(すごいな…ほんとなんでもできるなぁ…)
魔法科の教室で睨まれた時は厄介な人に絡まれたものだと思っていたが、その技量には素直に舌を巻く。なぜ学院では古代詠唱ではなく簡易詠唱を教えているのかと思っていたが、そんなふうに応用ができる余地があるから簡易詠唱で問題ないということなんだろう。それにしてもマルガレータほどの繊細なコントロールや応用ができる技術を持っている人は少ないだろう。魔獣などを目の前にして、風の剣で切りつけずに、わざわざ威力の弱い風の棒で叩くような出力調整を練習する必要性など無いに等しいからだ。
マルガレータが追いついてくる。僕の筏の速度が落ちてきたとは言え、どうやら簡単には勝たせてくれないようだ。僕もそろそろ次の詠唱の準備に入らなければならないだろう。
そう思って帆柱を見てみると、車体の振動によってちょうど麻縄を巻いているあたりから上の部分が少しぐらぐらしている。一発目の魔法で柱にひびでも入ってしまったのだろうか。
――いや、それはおかしい。
麻縄が巻いてあるのは帆桁よりも下の部分で、しかも巻いてあるのも全部ではなく左右の手のひらを広げたくらいの幅だけだ。たしかに帆に力が加わった時、下の方が押される力の影響を受けやすいのは分かるが、それにしても麻縄を巻いている部分は特に頑丈なはずだ。ひびが入るなら先に麻縄を巻いていない部分から入りそうなものだ。
(そもそも、なぜこの部分にだけ麻縄が?)
とにかくマルガレータに追いつかれている以上、ここでまごついている暇はない。僕は二回目の詠唱を行った。
『Setjið vindur fyrir þætti――
Byrjaþu útdrátt――
Gerðu straum――
Framkvæma forritiþ』
紡いだ詠唱は風の槌となって帆を打ち付ける。再度トップスピードへ加速し、追いついてきたマルガレータを再び引き離すが、その時、風に耐えきれなくなった帆柱が折れて横に倒れて車体から落ちた。幸い筏の進路を塞ぐことも、減速させることもなかったが――それでもこれは由々しき事態だった。
「どうやら年貢の納め時のようね! あなたの魔法は強力ですが、出力の調整を誤るなんてまだまだですわ!」
「くっ……」
近くまで来ていたマルガレータも一部始終を見ていたようで、そんな勝利宣言をしてくるが、返す言葉もない。しかし、そんなに強かっただろうか。ちょうど麻縄で巻いてある部分から折れたようで、帆柱がすっぽ抜けた部分の麻縄が解けてはためいている。そこから折れた部分が見えた。
(……ん?)
それに違和感を覚えて近づいて切り口を覗いてみる。柱の切り口がおかしい。奥側は木を折ったようにぎざぎざに尖っているが、手前側は切り口が妙に綺麗だ。まるであらかじめ切り込みがそこについていたような、剣や斧で切ったような切れ方だった。
(これは……、まさかダニエルたちの仕業か!)
あらかじめ半分ほどの切り込みを入れておくことで折れやすくしていた、というところだろう。そしてそれを麻縄で巧妙に隠していたわけだ。まさかそんな手段――いや、不正と言ったほうがいいだろう――それを講じてくるとは思わなかった。マルガレータの印象からして、彼女はそういうことをする人柄では無さそうな気がする。おそらく僕を敵視するダニエルたちの独断だろう。
(そういえば、スタート前に僕にこっちの車体に乗るように指示したのもダニエルだったか)
ダニエルの単独犯のような気もするが、エーリクが関わっていようがいまいが、もはやそれはもうどっちでもいい。
――さて、この状況をどうするか。
不正をマルガレータに訴えてレースを中止させることも考えたが、彼女の人柄につけこんで利用するようで気が引ける。
それであれば、帆がなくても、このレースに勝つしか無い。
僕とマルガレータはまだ並んだ位置にいて、同じぐらいの速度で走っている。
残りの距離は約 2,500 メートル。
帆がなければ障害物を避けられないどころか、加速することもできない。
このままでは負けるのは必至だ。
さて、本当にどうしようか…。
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