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第一章 高等学院編 第二編 学院の黒い影(一年次・冬)
EP.XXII 生徒会の本領
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カバラは最も由緒正しき体系であり、本書に引用している多くの戒律に含まれている。カバラを理解することで、自己の理解を行動に導き、神の子供になるための知識を得られるようになる。神は熟達した知識を持つ者を歓迎する。神の意志によることは、全て崇高な行いと見做される。
「徳は誰からも飛び立たない」――高貴で善良な薔薇十字架を掲げる兄弟たちはこの教訓を神聖なものとしている。カバラによって知恵、慈善、愛、慈悲、信仰、不変性を我々が理解することが徳に付随する。悪辣な思想―執着、妄信、偽善、不信、迷信、欺瞞、虚栄―を捨て去れば、我々は神の子として魔法使いになることができる。
従って、魔法使いは、道徳的かつ宗教的な責務として地上で神の意志や自然の理について研究するだけでなく、神の持つ至宝の知恵と知識を授かれるように、慈悲深い創造者に熱心に祈らなければならない。真の命の水を得られるよう日々瞑想を続けるべきである。神の恵みが齎され幸福を感じた時、自身の霊的な内なる眼は、死に至る栄光の道と不滅の富に向けられるだろう。食糧も、装飾も、喜びも、あるいは他のものも何も望まなくなると、天の霊的な魔力に満たされ、理の真髄とそれに付随する真理を楽しむことができるだろう。神の怒りではなく、神の祝福に満たされた桶に足を踏み入れ、神の栄光のもとに生きて、永遠の存在へと昇華するだろう。
無限回廊書架 DDC. 131
――フランシス・バレット『魔法使いの書 (II) 錬金術の宝石』第一章「錬金術と其の神聖なる起源について」- A.D. 1800
火属性の霧を中和するのに水属性の魔法を使うのは理論通りではあったし、実際酔い覚ましには効果的だった。けれど、その後ずぶ濡れにしてしまったみんなを乾かそうと思ったのだが――それがまずかった。
「………」
もはや誰の声も聞こえなくなってしまった。
生徒会の人たちですら酔っ払っておかしくなってしまったことに僕も動揺して焦っていたのか、自分が手に何を持っているかを完全に失念していた。冷静になってみると辺りに立ち籠める臭いが尋常じゃないぐらいに臭い。冒涜的に臭い。名状しがたい程に臭い。筆舌に尽くしがたい程に臭い。排泄物と生魚と生ゴミを混ぜて、炎天下で数日間発酵させたような臭いだ。もはやこれは嗅覚の蹂躙だった。
「き、Κύριε…ἐλέησον」
エミリリアが命からがら祈祷を捧げる。魔を払い、聖なる光で浄化する祈りによって、ようやく僕らの悪臭はかき消された。やはりこの臭いは邪悪なものの扱いだったのだろう。
人心地ついて全員が正常な意識を取り戻した。改めて対策を練らなければ、また同じ轍を踏んでしまうだろう。――いや、この惨状の半分が僕の過失だというのはこの際言わないことにしよう。元はと言えばそんなものを持ち歩いていたカイサにも責任を追及したい。
酔っていた間の記憶があるのかないのか分からないので、みんなの行動については下手に俎上に載せるのも野暮だろうと思い、僕は何も見なかったし聞かなかったことにする。みんなも思い出したくないのか、話題にしたくないのか、僕のせいで起きた異臭騒ぎについても、誰も咎める者はいなかった。
閑話休題、酒の霧の脅威性は身を以て体験した。被害に遭った一般生徒は軒並み昏倒してしまっていたのに比べて、生徒会の人たちは――酔っ払ってしまっていたとは言え――誰も昏倒しなかったのは流石だと舌を巻く。やはり一般生徒に比べると魔力耐性はかなり強いのだろう。
「……それで、酒の霧ってのは、一体なんの仕業なんですか?」
僕がニコライに問いかける。こんなことを為出来す魔物が相手だなんて厄介極まりない。
「あぁ…こんな芸当ができるのはあいつしかいないだろう」
神妙な顔つきのニコライから語られたその名は――『蜜酒醸山羊』。
最上位種にして、空気と火の二重属性を持つ。元が山羊だけに、凶暴性はあまり無く、むしろ臆病なぐらいの性格だ。本体自体の攻撃力は大したことはないが、その分敏捷性が高い。何より固有技能の『蜜酒結界』が最も厄介だろう。
「蜜酒醸山羊っすか…、なかなか厄介ですね」
カイサも嘆息を禁じ得ない。あれだけ「合点!」と勇ましく息巻いていたベルも先程から何も言わないし、フランチシュカもいつもと違って耳を垂れて大人しくしている。酒の霧を周囲に撒き散らすこの敵は近づくこと自体が非常に困難を極める。
「そう言えば、コーダはさっきは霧に酔わされていなかったようだが、もしかしてお前は酒に強いのか?」
ニコライに訊かれて思い至る。そうだ、こんなときこそ僕の特異体質がお誂え向きだ。保有魔力量が人よりも多くなってしまったおかげで、お酒には特に強い体質になっている。村長の家で飲まされた KOSKENKORVA でも酔うことはなかった。
「はい、どうやら以前からそういう体質みたいです」
「ふぇ~、コーダくんすごいねぇ!」
相変わらずメイド服姿のままのフランチシュカが感心したように言う。
「……ふーむ」
けれど、何か珍しい実験体でも見つけたかのようなカイサの視線がとても怖い。解剖なんてしないでくれよ、頼むから。
「ならば、先にお前があいつのもとに行ってそれを投げつけてこい。そうすればヤツの足止めができるだろう」
そう無慈悲な作戦を指示するニコライ。
おぉ…、これを武器に使うなんて…恐ろしい限りだ。
――諸悪の根源。
「酒は鼻からだろうと口からだろうと関係なく酔ってしまうが、ただ強烈なだけの悪臭なら、俺たちも鼻でさえ息をしなければ何とかなるだろう」
「俺の嗅覚にはなかなか厳しいが……止むを得まい」
提案するニコライにベルが反論しようとするが、もうそのぐらいしか敵の隙を作る方法が無さそうだと悟り、躊躇を飲み込む。どう足掻いても多少は臭いだろうけど、もうそれは我慢するしかない。
「それでは、蜜酒醸山羊が身動き取れなくなったら、私たちが第二陣として主力攻撃を加えましょう」
エミリリアの提案に僕も頷く。最悪の場合、エミリリアの聖なる祈りで悪臭を浄化してもらうしかない。態勢を立て直した僕らは再度、蜜酒醸山羊に挑むのであった。
ℵ
――すでに戦いは始まっている。
これは、僕と奴との一騎討ちだ。
いや、相手は蜜酒醸山羊ではない。
今の敵は僕が左手に握っている世の中全ての悪だ。
霧の跡をたどって追いかけようとすれば、必然的に風下から蜜酒醸山羊を追跡することになるので、この悪臭で気付かれることはないだろうが、敵のもとまで向かう道すがら、手に持ったコイツが僕の腕や服に付いたりしないように細心の注意を払わなきゃならない。なぜなら、さっきの僕の魔法の衝撃のせいだろうけど、容器の蓋が拉げて開いてしまっているのだ。
そのために空気魔法を使って、汁や臭いが外に飛び出さないように、空気の層で包んでしまうことも考えたけれど、僕にはまだそこまで繊細なコントロールは出来そうになかった。僕がやると『シュールストレミングの霧』なんていう大災害を引き起こしてしまいかねない。よくよく考えればすでにさっき一度、そのような災害を起こしてしまった気もするが、今は考えないでおこう。
零さないように、撥ねないように、神経を注ぎながら、蜜酒醸山羊を追うしかない、ひどく孤独な戦いだった。
やがて、前方に蜜酒醸山羊の姿を認めたところで、僕は小声で詠唱を始める。
『Setjið――
Vindur fyrir þætti――
Byrjaþu útdrátt――
Gerðu straum――
Framkvæma forritiþ』
空気が渦巻き、風の柱を作り出したところにシュールストレミングを投げ入れる。風によって打ち上げられたシュールストレミングは、容器と内容物を散らしながら、その悪臭とともに蜜酒醸山羊に降り注いだ。
――ビャァァァアアア!!
蜜酒醸山羊が悲痛な叫び声を上げて悶絶する。敵ながら非常に可哀想に思えてくる光景だった。森に響き渡る裂帛の声を合図に、第二陣の猛攻が始まる。
予め森に散開していた主力攻撃陣は、蜜酒醸山羊の叫び声が聞こえたと同時に、その方角に向かって走り出した。一番に着いたフランチシュカが、攻撃を加える。
「六連乱舞流!」
猫人族の身のこなしを最大限に活かした六連撃だ。普通の隠密士の場合、武器には短剣やナイフを使う場合が多いが、フランチシュカは両手に銀爪を装備している。三本の爪が付いており、一回の動作で普通のナイフの三回分の攻撃ができる上に、手の甲に装備するので、まだ手のひらに何か武器を持つこともできる。一見メリットばかりのように思えるが、爪は手に握る武器に比べて力を刃に伝えにくいという欠点があり、体表面の硬い敵にはあまり向かないし、三本の爪が付いている分、当然ナイフよりも重い。
ただ単に俊敏さだけでなく一定の腕力も必要となるこの武器は、フランチシュカだからこそ使いこなせているのだ。
――ビャァァァアアア!
――ギニャァァァアアア!
あれ?
いま何か叫び声が二重に聞こえただろうか?
次にたどり着いたベルがすかさず第二撃を加える。
「竜撃槌!」
ベルが手にした槍の、柄に施された撃竜の印。そこに魔力を注ぎながら攻撃を加えることで、敵の魔力を体内から撹乱し、技能などを使えなくすることができる効果の付いた物理攻撃だ。柄には刃は付いていないとは言え、槍を得意とする武人の洗練された突きの殺傷力は尋常ではない。魔力の流れを乱され、魔法の行使を阻害された蜜酒醸山羊は、暫くの間『蜜酒結界』を使うことができない。
――ビャァァァアアア!
――グオオオオオオ!
あれ?
またしても蜜酒醸山羊の叫びに重なって、今度はベルの声が聞こえた気がするんだけど…。
僕の位置からでは五十メートルほどの距離があって、何が起きているのか、さっぱり理解できない。空気魔法を使わなければ、シュールストレミングも投擲できない距離だったし……って、あ!
「私の爪に変なの付いたぁぁ!」
「俺の槍が臭くなったぁぁ!」
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
そこへ今度はカイサが現れる。
「はぁ、先輩たち考えれば分かることだろうに、何やってんですか…」
そう言って現れたカイサは医者がつけるような鳥の嘴の形の保護マスクを被っている。さすが自分でシュールストレミングを持っていただけあって、それ用の対策も準備がいい。そうして、手に持っている試験管を蜜酒醸山羊に投げつける。
「塩酸爆弾!」
――ビャァァァアアア!
投げつけるだけなので手や武器が汚れることもないように考えられている。試験管の中身の液体は得体が知れない。あれは魔法ではなく化学薬品のようだ。ともすれば、彼女の職業は隠密士の中でも毒士の系統だろうか。教えてくれるかどうか分からないけれど、今度カイサに作り方を訊いてみようか。
ともあれ、薬品のような液体を浴びせられた蜜酒醸山羊は、もがき苦しんでいる。体力的には随分と弱ってきているようだ。
「Κύριεἐλέησον!」
そこへ、次に到着したエミリリアが浄化の光を照らし出す。辺りに立ち籠める悪臭が一掃され、フランチシュカとベルの状態異常も回復した。
――ビャァァァアアア!
同時に蜜酒醸山羊が悲鳴を上げる。
魔を断つ聖なる光は、魔物の存在の力自体を削り取り、この世界に存在していないことにしようと働きかける。『正常ではない状態』の魔力の流れを感知し、それをあるべき姿に戻そうと働きかけ、自己治癒能力を高めたり自己崩壊を引き起こしたりする。
そもそもは普通の動物だった存在が、瘴気によって<深化>した結果が魔物であるだけに、最上位種となる程まで<深化体>となった蜜酒醸山羊にとっては、全細胞が自己崩壊しようとし始める苦痛を味わっているのだろう。
「さぁ、みなさん離れてください」
その言葉を合図に四人は散開する。作戦の詳細は聞かされていなかったが、僕も初撃を加えた後は、その場から動かないように言われていた。そう言えばまだニコライが来ていない。
悶え苦しむ敵から全員が離れた次の刹那――
蒼天に一輪の閃光が煌めいて、絶対零度の氷を切り裂いたような甲高い音を鳴響かせながら、上空から亜光速の流星が弧を描いて飛来した。眩い光の刃で空に切れ目を入れたような軌跡を残しながら瞬く中に蜜酒醸山羊に直撃した神の楔の如き雷は、その実、ニコライの放った矢だった。
――『青龍天雷』。
極限まで研ぎ澄まされた集中力によって齎される類稀なる命中精度と、予知能力に匹敵するほど微に入り細に渡るまでの全神経の感覚を鋭敏に高めた予測演算能力を合わせた上で、特殊な魔法刻印の刻まれた矢を天に射る、狙撃士最上級職<鷹目>の特筆すべき固有技能である。矢に刻まれた魔法刻印は、予め組み込まれた空気魔法を発動する。矢の先端の空気を真空近くまで減圧し、その分の気体を後方から噴出することで、矢はほとんど空気抵抗もないまま亜光速まで自己加速し続け、あたかも天翔ける疾風迅雷の青龍の如く敵を撃ち抜く。
だが、加速するためにある程度の距離が必要なため、近くの敵には使えない上、発動するまでの時間、目標の足止めをしておく必要がある。非常に強力ではあるが使い所を見計らうことも使い熟すことも難しく、狙撃を極めたものにしかこの技能はまともに行使できない。
大地に神とも青龍ともしれない雷の杭が打ち立てられた場所は森が切り取られたようにぽっかりと穴が空き、地面が顕になった爆心地には、力尽きて息絶えた蜜酒醸山羊が横たわっていた。
「徳は誰からも飛び立たない」――高貴で善良な薔薇十字架を掲げる兄弟たちはこの教訓を神聖なものとしている。カバラによって知恵、慈善、愛、慈悲、信仰、不変性を我々が理解することが徳に付随する。悪辣な思想―執着、妄信、偽善、不信、迷信、欺瞞、虚栄―を捨て去れば、我々は神の子として魔法使いになることができる。
従って、魔法使いは、道徳的かつ宗教的な責務として地上で神の意志や自然の理について研究するだけでなく、神の持つ至宝の知恵と知識を授かれるように、慈悲深い創造者に熱心に祈らなければならない。真の命の水を得られるよう日々瞑想を続けるべきである。神の恵みが齎され幸福を感じた時、自身の霊的な内なる眼は、死に至る栄光の道と不滅の富に向けられるだろう。食糧も、装飾も、喜びも、あるいは他のものも何も望まなくなると、天の霊的な魔力に満たされ、理の真髄とそれに付随する真理を楽しむことができるだろう。神の怒りではなく、神の祝福に満たされた桶に足を踏み入れ、神の栄光のもとに生きて、永遠の存在へと昇華するだろう。
無限回廊書架 DDC. 131
――フランシス・バレット『魔法使いの書 (II) 錬金術の宝石』第一章「錬金術と其の神聖なる起源について」- A.D. 1800
火属性の霧を中和するのに水属性の魔法を使うのは理論通りではあったし、実際酔い覚ましには効果的だった。けれど、その後ずぶ濡れにしてしまったみんなを乾かそうと思ったのだが――それがまずかった。
「………」
もはや誰の声も聞こえなくなってしまった。
生徒会の人たちですら酔っ払っておかしくなってしまったことに僕も動揺して焦っていたのか、自分が手に何を持っているかを完全に失念していた。冷静になってみると辺りに立ち籠める臭いが尋常じゃないぐらいに臭い。冒涜的に臭い。名状しがたい程に臭い。筆舌に尽くしがたい程に臭い。排泄物と生魚と生ゴミを混ぜて、炎天下で数日間発酵させたような臭いだ。もはやこれは嗅覚の蹂躙だった。
「き、Κύριε…ἐλέησον」
エミリリアが命からがら祈祷を捧げる。魔を払い、聖なる光で浄化する祈りによって、ようやく僕らの悪臭はかき消された。やはりこの臭いは邪悪なものの扱いだったのだろう。
人心地ついて全員が正常な意識を取り戻した。改めて対策を練らなければ、また同じ轍を踏んでしまうだろう。――いや、この惨状の半分が僕の過失だというのはこの際言わないことにしよう。元はと言えばそんなものを持ち歩いていたカイサにも責任を追及したい。
酔っていた間の記憶があるのかないのか分からないので、みんなの行動については下手に俎上に載せるのも野暮だろうと思い、僕は何も見なかったし聞かなかったことにする。みんなも思い出したくないのか、話題にしたくないのか、僕のせいで起きた異臭騒ぎについても、誰も咎める者はいなかった。
閑話休題、酒の霧の脅威性は身を以て体験した。被害に遭った一般生徒は軒並み昏倒してしまっていたのに比べて、生徒会の人たちは――酔っ払ってしまっていたとは言え――誰も昏倒しなかったのは流石だと舌を巻く。やはり一般生徒に比べると魔力耐性はかなり強いのだろう。
「……それで、酒の霧ってのは、一体なんの仕業なんですか?」
僕がニコライに問いかける。こんなことを為出来す魔物が相手だなんて厄介極まりない。
「あぁ…こんな芸当ができるのはあいつしかいないだろう」
神妙な顔つきのニコライから語られたその名は――『蜜酒醸山羊』。
最上位種にして、空気と火の二重属性を持つ。元が山羊だけに、凶暴性はあまり無く、むしろ臆病なぐらいの性格だ。本体自体の攻撃力は大したことはないが、その分敏捷性が高い。何より固有技能の『蜜酒結界』が最も厄介だろう。
「蜜酒醸山羊っすか…、なかなか厄介ですね」
カイサも嘆息を禁じ得ない。あれだけ「合点!」と勇ましく息巻いていたベルも先程から何も言わないし、フランチシュカもいつもと違って耳を垂れて大人しくしている。酒の霧を周囲に撒き散らすこの敵は近づくこと自体が非常に困難を極める。
「そう言えば、コーダはさっきは霧に酔わされていなかったようだが、もしかしてお前は酒に強いのか?」
ニコライに訊かれて思い至る。そうだ、こんなときこそ僕の特異体質がお誂え向きだ。保有魔力量が人よりも多くなってしまったおかげで、お酒には特に強い体質になっている。村長の家で飲まされた KOSKENKORVA でも酔うことはなかった。
「はい、どうやら以前からそういう体質みたいです」
「ふぇ~、コーダくんすごいねぇ!」
相変わらずメイド服姿のままのフランチシュカが感心したように言う。
「……ふーむ」
けれど、何か珍しい実験体でも見つけたかのようなカイサの視線がとても怖い。解剖なんてしないでくれよ、頼むから。
「ならば、先にお前があいつのもとに行ってそれを投げつけてこい。そうすればヤツの足止めができるだろう」
そう無慈悲な作戦を指示するニコライ。
おぉ…、これを武器に使うなんて…恐ろしい限りだ。
――諸悪の根源。
「酒は鼻からだろうと口からだろうと関係なく酔ってしまうが、ただ強烈なだけの悪臭なら、俺たちも鼻でさえ息をしなければ何とかなるだろう」
「俺の嗅覚にはなかなか厳しいが……止むを得まい」
提案するニコライにベルが反論しようとするが、もうそのぐらいしか敵の隙を作る方法が無さそうだと悟り、躊躇を飲み込む。どう足掻いても多少は臭いだろうけど、もうそれは我慢するしかない。
「それでは、蜜酒醸山羊が身動き取れなくなったら、私たちが第二陣として主力攻撃を加えましょう」
エミリリアの提案に僕も頷く。最悪の場合、エミリリアの聖なる祈りで悪臭を浄化してもらうしかない。態勢を立て直した僕らは再度、蜜酒醸山羊に挑むのであった。
ℵ
――すでに戦いは始まっている。
これは、僕と奴との一騎討ちだ。
いや、相手は蜜酒醸山羊ではない。
今の敵は僕が左手に握っている世の中全ての悪だ。
霧の跡をたどって追いかけようとすれば、必然的に風下から蜜酒醸山羊を追跡することになるので、この悪臭で気付かれることはないだろうが、敵のもとまで向かう道すがら、手に持ったコイツが僕の腕や服に付いたりしないように細心の注意を払わなきゃならない。なぜなら、さっきの僕の魔法の衝撃のせいだろうけど、容器の蓋が拉げて開いてしまっているのだ。
そのために空気魔法を使って、汁や臭いが外に飛び出さないように、空気の層で包んでしまうことも考えたけれど、僕にはまだそこまで繊細なコントロールは出来そうになかった。僕がやると『シュールストレミングの霧』なんていう大災害を引き起こしてしまいかねない。よくよく考えればすでにさっき一度、そのような災害を起こしてしまった気もするが、今は考えないでおこう。
零さないように、撥ねないように、神経を注ぎながら、蜜酒醸山羊を追うしかない、ひどく孤独な戦いだった。
やがて、前方に蜜酒醸山羊の姿を認めたところで、僕は小声で詠唱を始める。
『Setjið――
Vindur fyrir þætti――
Byrjaþu útdrátt――
Gerðu straum――
Framkvæma forritiþ』
空気が渦巻き、風の柱を作り出したところにシュールストレミングを投げ入れる。風によって打ち上げられたシュールストレミングは、容器と内容物を散らしながら、その悪臭とともに蜜酒醸山羊に降り注いだ。
――ビャァァァアアア!!
蜜酒醸山羊が悲痛な叫び声を上げて悶絶する。敵ながら非常に可哀想に思えてくる光景だった。森に響き渡る裂帛の声を合図に、第二陣の猛攻が始まる。
予め森に散開していた主力攻撃陣は、蜜酒醸山羊の叫び声が聞こえたと同時に、その方角に向かって走り出した。一番に着いたフランチシュカが、攻撃を加える。
「六連乱舞流!」
猫人族の身のこなしを最大限に活かした六連撃だ。普通の隠密士の場合、武器には短剣やナイフを使う場合が多いが、フランチシュカは両手に銀爪を装備している。三本の爪が付いており、一回の動作で普通のナイフの三回分の攻撃ができる上に、手の甲に装備するので、まだ手のひらに何か武器を持つこともできる。一見メリットばかりのように思えるが、爪は手に握る武器に比べて力を刃に伝えにくいという欠点があり、体表面の硬い敵にはあまり向かないし、三本の爪が付いている分、当然ナイフよりも重い。
ただ単に俊敏さだけでなく一定の腕力も必要となるこの武器は、フランチシュカだからこそ使いこなせているのだ。
――ビャァァァアアア!
――ギニャァァァアアア!
あれ?
いま何か叫び声が二重に聞こえただろうか?
次にたどり着いたベルがすかさず第二撃を加える。
「竜撃槌!」
ベルが手にした槍の、柄に施された撃竜の印。そこに魔力を注ぎながら攻撃を加えることで、敵の魔力を体内から撹乱し、技能などを使えなくすることができる効果の付いた物理攻撃だ。柄には刃は付いていないとは言え、槍を得意とする武人の洗練された突きの殺傷力は尋常ではない。魔力の流れを乱され、魔法の行使を阻害された蜜酒醸山羊は、暫くの間『蜜酒結界』を使うことができない。
――ビャァァァアアア!
――グオオオオオオ!
あれ?
またしても蜜酒醸山羊の叫びに重なって、今度はベルの声が聞こえた気がするんだけど…。
僕の位置からでは五十メートルほどの距離があって、何が起きているのか、さっぱり理解できない。空気魔法を使わなければ、シュールストレミングも投擲できない距離だったし……って、あ!
「私の爪に変なの付いたぁぁ!」
「俺の槍が臭くなったぁぁ!」
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
そこへ今度はカイサが現れる。
「はぁ、先輩たち考えれば分かることだろうに、何やってんですか…」
そう言って現れたカイサは医者がつけるような鳥の嘴の形の保護マスクを被っている。さすが自分でシュールストレミングを持っていただけあって、それ用の対策も準備がいい。そうして、手に持っている試験管を蜜酒醸山羊に投げつける。
「塩酸爆弾!」
――ビャァァァアアア!
投げつけるだけなので手や武器が汚れることもないように考えられている。試験管の中身の液体は得体が知れない。あれは魔法ではなく化学薬品のようだ。ともすれば、彼女の職業は隠密士の中でも毒士の系統だろうか。教えてくれるかどうか分からないけれど、今度カイサに作り方を訊いてみようか。
ともあれ、薬品のような液体を浴びせられた蜜酒醸山羊は、もがき苦しんでいる。体力的には随分と弱ってきているようだ。
「Κύριεἐλέησον!」
そこへ、次に到着したエミリリアが浄化の光を照らし出す。辺りに立ち籠める悪臭が一掃され、フランチシュカとベルの状態異常も回復した。
――ビャァァァアアア!
同時に蜜酒醸山羊が悲鳴を上げる。
魔を断つ聖なる光は、魔物の存在の力自体を削り取り、この世界に存在していないことにしようと働きかける。『正常ではない状態』の魔力の流れを感知し、それをあるべき姿に戻そうと働きかけ、自己治癒能力を高めたり自己崩壊を引き起こしたりする。
そもそもは普通の動物だった存在が、瘴気によって<深化>した結果が魔物であるだけに、最上位種となる程まで<深化体>となった蜜酒醸山羊にとっては、全細胞が自己崩壊しようとし始める苦痛を味わっているのだろう。
「さぁ、みなさん離れてください」
その言葉を合図に四人は散開する。作戦の詳細は聞かされていなかったが、僕も初撃を加えた後は、その場から動かないように言われていた。そう言えばまだニコライが来ていない。
悶え苦しむ敵から全員が離れた次の刹那――
蒼天に一輪の閃光が煌めいて、絶対零度の氷を切り裂いたような甲高い音を鳴響かせながら、上空から亜光速の流星が弧を描いて飛来した。眩い光の刃で空に切れ目を入れたような軌跡を残しながら瞬く中に蜜酒醸山羊に直撃した神の楔の如き雷は、その実、ニコライの放った矢だった。
――『青龍天雷』。
極限まで研ぎ澄まされた集中力によって齎される類稀なる命中精度と、予知能力に匹敵するほど微に入り細に渡るまでの全神経の感覚を鋭敏に高めた予測演算能力を合わせた上で、特殊な魔法刻印の刻まれた矢を天に射る、狙撃士最上級職<鷹目>の特筆すべき固有技能である。矢に刻まれた魔法刻印は、予め組み込まれた空気魔法を発動する。矢の先端の空気を真空近くまで減圧し、その分の気体を後方から噴出することで、矢はほとんど空気抵抗もないまま亜光速まで自己加速し続け、あたかも天翔ける疾風迅雷の青龍の如く敵を撃ち抜く。
だが、加速するためにある程度の距離が必要なため、近くの敵には使えない上、発動するまでの時間、目標の足止めをしておく必要がある。非常に強力ではあるが使い所を見計らうことも使い熟すことも難しく、狙撃を極めたものにしかこの技能はまともに行使できない。
大地に神とも青龍ともしれない雷の杭が打ち立てられた場所は森が切り取られたようにぽっかりと穴が空き、地面が顕になった爆心地には、力尽きて息絶えた蜜酒醸山羊が横たわっていた。
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