改大和型戦艦一番艦「若狭」抜錨す

みにみ

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鋼鉄の城塞

見えない敵

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呉海軍工廠の朝は早い。
乾いた汽笛の音が湾内に反響し、まだ薄暗い空の下で
巨大なクレーンがゆっくりと動き始める。第四船渠では
すでに若狭の竜骨が据えられ、その上に少しずつ鋼材が積み上げられつつあった。
黒崎哲郎は、艤装桟橋から少し離れた観測台に立ち、その光景を黙って見下ろしていた。
「……思ったより早いですね」
隣に立つのは、造船部の主任技師、田淵幸造技師中佐だった。
彼は分厚い設計書を抱えながら、感慨深げに言う。
「世の中が平時であるほど、こういう艦は急がされるものです。
 戦争が起きてからでは遅い、という理屈で」
黒崎は静かに頷いた。
「それは正しい判断です。ただし、平時だからこそ
 油断が入り込む余地も生まれる。私はそちらの方が怖い」
田淵は苦笑した。
「相変わらず、悲観的ですね」
「悲観ではありません。現実的であろうとしているだけです。
 敵は、こちらが油断する瞬間を待っていますから」
田淵はそれ以上何も言わず、再び船渠へと視線を戻した。
その数日後、黒崎のもとに一通の報告書が届いた。
差出人は、海軍省情報部。内容は簡潔だったが、その一文一文が示す意味は重い。

米国駐在武官より、極秘電。
日本海軍が新型戦艦の追加建造を計画している可能性あり。
呉周辺における工事規模、物資搬入量に不自然な増加を確認。

黒崎は報告書を机に置き、ゆっくりと息を吐いた。
「やはり、嗅ぎつけましたか」
同席していたのは、通信担当の片桐孝一中尉と
防空設備担当の設楽信吾大尉だった。
「まだ艦影も見せていません。それでも、ここまで察知されるとは」
片桐が言うと、黒崎は首を横に振った。
「艦影を見せなくても、隠せないものはいくらでもあります。
 鋼材の量、電力使用量、人員の動き、そして何より、我々自身の思考です。
 大艦を造ろうとすれば、その痕跡は必ず世界に滲み出る」
設楽が眉をひそめる。
「では、どうしますか。秘匿を強化しますか」
「もちろんです。しかし、秘匿には限界があります」
黒崎は立ち上がり、壁に貼られた太平洋の地図を指した。
「アメリカは、我々が何を恐れているかを見ています。
 航空か、戦艦か、潜水艦か。その答えを推測するために、情報を集めている。
 つまり、若狭が恐れられる存在になる前から、思想として監視されているのです」
「思想、ですか」
片桐が復唱すると、黒崎は静かに頷いた。
「ええ。兵器は破壊できますが、思想は破壊しにくい。
 だからこそ、彼らは今の段階で芽を摘もうとしている」
その日の午後、黒崎は急遽、軍令部への出頭を命じられた。
応接室に通されると、そこには数名の将校が集まっていた。
いずれも情報畑、あるいは作戦立案に関わる人物たちだ。
「黒崎大佐」
そう呼ばれた瞬間、黒崎はわずかに眉を動かした。
「……昇進ですか」
「つい先ほど、正式に発令された」
応えたのは、軍令部作戦課長の杉原俊夫少将だった。
「若狭の重要性を考えれば、当然だ」
黒崎は敬礼しつつ、内心では別のことを考えていた。
階級が上がるということは、責任と同時に、政治的な圧力も増すということだ。
「早速だが、本題に入ろう」
杉原は机上の書類を示した。
「アメリカが、呉周辺の電波動向を探っている。これは事実だ。君の見解を聞きたい」
黒崎は一拍置き、言葉を選んだ。
「彼らは、艦そのものよりも、我々の防空思想を警戒していると考えます。
 航空優位という前提が崩れる可能性を、最も恐れている」
「それは、買い被りではないか」
別の将官が言う。
「彼らは航空主兵論の本家だ。艦が
 空を拒むなどという発想を、そこまで深刻に捉えるだろうか」
黒崎は、その言葉を否定せず、しかし譲らなかった。
「だからこそです。自らが信じているものが否定される可能性ほど
 危険なものはありません。彼らは、自分たちの未来を守るために、我々の現在を覗いている」
室内が静まり返った。
杉原は腕を組み、しばらく考え込んでから言った。
「では、どうすべきだと」
「こちらも、見せる情報と隠す情報を選ぶべきです」
黒崎は続けた。
「すべてを隠そうとすれば、逆に怪しまれる。若狭を
 単なる大和型の延長として誤認させる。
 その一方で、防空システムの核心部分は、最後まで伏せる」
「危険な賭けだな」
「賭けであることは否定しません。しかし、戦争とは
 常に不完全な情報の中で行われるものです。情報戦もまた、同じです」
その夜、黒崎は工廠内の電探試験室に立ち会っていた。
巨大なアンテナがゆっくりと回転し、試験用の電波が空へと放たれる。
計器の針が規則正しく揺れ、目標の反射が紙帯に記録されていく。
「感度、良好です」
担当技官の三宅啓介が言った。
「ですが、この出力では、外部に漏れる可能性があります」
黒崎はしばらく計器を見つめ、それから言った。
「分かっています。だからこそ、制御が必要です」
「制御、ですか」
「ええ。必要な時にだけ、必要な強度で使う。
 そのための運用思想を、今から叩き込む必要があります。
 装置が優れていても、使い方を誤れば、ただの標的になりますから」
三宅は深く頷いた。
数日後、工廠近海に一隻の外国商船が姿を現した。
名目は燃料補給。だが、その航路は不自然だった。
「中佐……いえ、大佐」
設楽が小声で言う。
「あの船、どう見ても、こちらを意識しています」
黒崎は双眼鏡を下ろし、静かに答えた。
「ええ。観測船でしょう。おそらく、電波と工事進捗の両方を見ています」
「どうしますか」
「何もしません」
設楽が驚いた表情を見せると、黒崎は続けた。
「正確には、彼らが見たいものを見せる。大和の影をなぞらせるのです。
 若狭という思想は、まだ見せる段階ではない」
その言葉通り、電探の運用は制限され
代わりに旧式装備の試験が意図的に行われた。
外から見れば、若狭はあくまで巨大な戦艦の一隻に過ぎない。
しかし、その裏で、防空システムの核心は、着実に組み上げられていった。
夜、黒崎は一人、設計室で図面を眺めていた。
外は静まり返り、遠くで波の音だけが聞こえる。
見えない敵。
それは、米国だけではない。航空主兵論という思想、組織内の惰性、そして自分自身の慢心。
すべてが敵になり得る。
「だからこそ、備えるのだ」
黒崎は、誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
若狭は、まだ鋼の塊に過ぎない。だがその背後には、すでに世界規模の視線が注がれている。
見えない敵との戦いは、艦が完成する前から始まっていた。
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