黎明の珊瑚海

みにみ

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山本の賭け

柱島の夜

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昭和十七年五月中旬。

広島湾の奥深く、柱島沖――。

連合艦隊旗艦、戦艦「大和」の艦橋は、夜の闇の中で
まるで海に浮かぶ巨大な鉄の監獄のようだった。外は完全な闇。
波の音さえ、この巨大な鋼鉄の塊の中では、遠い幻聴に聞こえる。

艦橋中央、連合艦隊司令長官席の頭上を灯す裸電球の光は
無遠慮に、そこに集う男たちの顔の深い影を際立たせていた。
部屋を満たすのは、重い葉巻の煙と、誰の口からも発せられない不吉な静寂。

山本五十六司令長官は、いつものように冷静沈着に見えた。
だが、その背広の背中に滲む疲労の痕跡と、窓の外の闇を見つめる鋭い眼光は
彼が極度の緊張状態にあることを示していた。

彼の正面、会議卓の上には、白い紙の束が広げられていた。
それは、つい先日終結した第一次MO作戦、
通称「珊瑚海海戦」の最終的な戦果と損害をまとめた、血に染まった報告書だった。

報告書は、数字の羅列であるにもかかわらず
戦場の凄惨な熱気を宿しているかのようだった。

「翔鶴、飛行甲板大破……瑞鶴、熟練搭乗員、約半数を失う」

「空母『祥鳳』、喪失」

対する米軍の損害は
「空母一隻(レキシントン)、喪失。一隻(ヨークタウン)、大破」とあった。

戦果は相打ち。損害は実質的な敗北。

山本は、報告書の最後のページを静かに閉じると
会議卓に置かれた分厚いガラス灰皿に葉巻の吸殻を押し付けた。
チリチリという小さな音は、この静寂の中では爆発音のように響いた。

「長官」

沈黙を破ったのは、宇垣纏参謀長だった。
彼の声は、長官の静けさとは対照的に、低い怒りに満ちていた。

「作戦の目的は達せられた、と言えなくもない。
 ポートモレスビー攻略は一応の成功を収めております」

宇垣は、そう言うことで、自らの苛立ちを抑え込もうとしているようだった。
しかし、彼の右拳は、報告書の脇で無意識に硬く握りしめられていた。

山本は返事をせず、ただ艦橋の窓から外の闇を見つめている。
彼の視線の先にあるのは、広島湾の黒い海面だけではない。
彼は、遥か彼方、米国の巨大な工業力を
そして日本が辿る未来の深淵を見つめているのだ。

「しかし、長官」宇垣の声が震えた。
「我々が失ったものは、戦果で埋め合わせられるものではありません」

報告書によれば、日本の艦隊航空戦力の中核を担う
第五航空戦隊の二隻――「翔鶴」は、応急修理では済まない程の致命的な損傷を負い
戦線離脱。特に深刻だったのは「瑞鶴」の搭乗員の損耗だった。

「祥鳳はともかく……瑞鶴の損失。
 熟練の艦攻、艦爆、零戦の搭乗員……彼らが失われた」

宇垣は言葉を区切り、痛恨の思いを滲ませた。

「敵の空母一隻を沈めた代償として、我々は我が海軍が誇る
 機動部隊の熟練の牙を削がれたのです。搭乗員の練度は
 艦艇の建造速度では補えません。米国は空母を失っても、搭乗員は戻ってきます。
 彼らは人間という資源において、我々の優位性を削り取った」

彼は、思わず右拳を机に強く叩きつけた。

ドン!

鈍い衝突音が艦橋内に響き渡り、他の幕僚たちがビクリと身動いだ。
宇垣の顔は、電球の光の下で赤く上気している。

「長官!引き分けでは意味がないのです!これでは、ジリ貧を招くだけ。
 国力差は、このままでは縮まらぬ!次の一撃で、敵の息の根を止めねばならぬ」

宇垣の切実な言葉は、彼自身の焦燥と、日本の窮状を代弁していた。
彼は知っていた。米国の工場は、
既に月に数隻の空母を建造できる体制を整えつつあることを。
日本が航空母艦を建造する間に、米国は倍の速さで戦力を回復させてしまう。

山本は、この参謀長の情熱的な苛立ちを静かに受け止めていた。
彼は、宇垣の言うことが、全て真実であると理解していた。

「纏よ」山本は、低く静かな声で言った。「君の焦燥はわかる」

その声は、驚くほど冷静だった。まるで、他人事のように、
淡々と状況を分析する機械の音声のようだった。

「第一次MO作戦で、我々は得たものよりも、遥かに大きなものを失った。
 祥鳳一隻ではない。時間と練度という、最も貴重な資源だ」

山本は、立ち上がった。彼の背丈はそれほど高くないが
その威厳と重厚な存在感は、艦橋の隅々まで行き渡っていた。
彼は、再び窓の外を見た。遠く、闇に溶け込む水平線を見つめる。

「そして、その時間がない中で
 我々は次の作戦、MI作戦を決行しなければならない」

宇垣は息を飲んだ。彼の顔に、新たな焦燥と不安の色が浮かぶ。

「長官、ミッドウェーは…」

「そうだ」山本は、宇垣の言葉を遮った。

「ミッドウェーは、今や海軍の、いや、日本国の意地だ。
 太平洋の要衝を奪い、敵に屈辱を与える。その勝利によって
 我が国の国力消耗を一時的にでも覆い隠し
 融和への道を探る…それが、当初の計画だった」

山本は、会議卓に戻り、先ほどの報告書の隣に、ミッドウェー作戦の概要図を広げた。
その図には、巨大な艦隊がミッドウェー島を取り囲むように配置されていた。

「しかし、今の我々の艦隊は、この図面にあるようには動けない」

彼は、ペンを取り、図面上の「翔鶴」「瑞鶴」の配置場所に、大きくバツを付けた。

「中核たる第一航空戦隊の二隻を欠き、練度も半減した状態で
 堅牢なミッドウェーを攻める。敵は必ず空母をもって迎撃してくるだろう。
 彼らもまた、前回の戦訓を学んでいるはずだ」

宇垣の顔から、血の気が引いていく。
彼は、長官の言わんとすることを、瞬時に理解した。

「つまり、残る一航戦『赤城』『加賀』
 二航戦『蒼龍』『飛龍』の四隻を、わざわざ罠にかけるようなものだ、と?」

山本は、再び報告書に目を落とした。報告書には
祥鳳が沈没した際の、魚雷と爆弾の集中攻撃の様子が生々しく記述されていた。
熟練搭乗員の半減は、直掩隊の防御力低下を意味する。

「その通りだ、纏よ」山本は低い声で断言した。

「この状態でMI作戦を強行すれば、残る四隻の空母を
 敵の防衛線で一挙に失う可能性がある。
 我々の海軍の生命線を、自ら敵の餌食にするようなものだ」

山本は、報告書を再び閉じ、静かに手を置いた。

「国力差は、もはや覆せない。ならば、我々が選択できる道は一つしかない」

宇垣は、ごくりと唾を飲み込んだ。他の幕僚たちも
長官の口から発せられる次の言葉を、息を詰めて待っていた。
艦橋内は、再び、葉巻の煙と不吉な静寂に支配された。

山本は、宇垣の目を真っ直ぐに見据えた。

「MI作戦は、中止する。そして、残る全ての航空機動力を
 第二次MO作戦に投入する。目標は、再び珊瑚海だ」

宇垣の驚愕が、その場にいる全員に伝わった。
彼は、信じられない、とばかりに長官を見つめた。

「珊瑚海……ですか?」

「そうだ。米豪遮断こそが、今、我が国にとって真に急務である」
山本は、言葉に力を込めた。

「敵に残存する空母は、現在太平洋に四隻。
 ミッドウェーの防衛に集中する前に、行動可能な一航戦、二航戦
 そして四航戦を投入し、敵残存戦力を珊瑚海で叩く。絶対的な制海権を確立する」

山本は、自分の決断が、どれほどの反発を招くかを知っていた。
大本営は既にMI作戦で動いている。それを中止し、同じ海域での作戦を繰り返すことは
戦略家として、そして組織のトップとして、異例中の異例の選択だった。

しかし、山本五十六の心の中には、「この一撃でなければ、国力差は覆らない」という
冷徹な計算と、「意地で国は保てぬ」という悲壮な覚悟しかなかった。

彼は、宇垣の苛立ちの籠もった拳を思い出し、決然と言い放った。

「この一撃で米豪を遮断すれば
 敵は太平洋の補給線を失う。もしかすると……」

彼の声が、わずかに、希望の光を含んだ。

「もしかすると、米国側から融和の条件が出てくるかもしれない。
 これが、我々の最後のチャンスだ」

報告書に広げられた、血に染まった数字の羅列。
それは、彼に「意地」を捨てる決断を促す、現実の冷酷な声だった。

宇垣は、長官の眼光に宿る、この「最後の賭け」への強い意志を読み取った。
彼の苛立ちは、一瞬にして消え去り、代わりに重い責任感がのしかかった。

「……承知いたしました、長官。直ちに、参謀本部
 そして各艦隊司令官への通達と、新たな作戦の練り直しに入ります」

宇垣は、力強く敬礼した。

艦橋の闇の中、山本五十六は再び窓の外の闇を見つめた。
彼の顔には、疲労の痕跡と、後の決断を示す硬い決意が刻まれていた。
彼にとって、この戦いは、既に「勝ち」か「負け」かではない。
「生き残る」ための、非情な選択だった。

柱島の夜は、連合艦隊司令長官の*「賭け」によって
静かに、しかし決定的に、その運命の針路を変えようとしていた。
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