黎明の珊瑚海

みにみ

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山本の賭け

内部対立

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山本五十六長官の「MI作戦中止、第二次MO作戦(珊瑚海)決行」という
前代未聞の決断は、連合艦隊司令部内に激震を走らせた。
その後の緊急幕僚会議は、議論の場というよりも
司令長官に対する弾劾の場と化していた。

会議卓を囲むのは、宇垣纏参謀長、近藤信竹第二艦隊司令長官
南雲忠一第一航空艦隊司令長官(空母部隊指揮官)、そして主要な作戦参謀たち。
皆、疲労と緊張で顔が強張り、長官の決定に賛同する者と、
猛烈に反発する者とで、明確に分断されていた。

口火を切ったのは、第二艦隊司令長官、近藤信竹中将だった。
彼は、長官とは対照的に体躯が大きく、その声は鋼鉄の響きを持っていた。

「長官!私はこの案に、断固として反対いたします!」

近藤は、卓上に広げられた作戦概要図を指し、強い語調で続けた。

「MI作戦は、単なる島嶼攻略ではありません。
 それは、先の真珠湾奇襲から半年を経た今、海軍が米太平洋艦隊に対し
 再び決定的勝利を収めるための、唯一の戦略的威嚇であります!」

近藤は、山本が昨晩示した「空母の消耗」という分析を否定するように、反論を展開した。

「確かに、翔鶴、瑞鶴を欠くのは痛手です。
 しかし、我々にはまだ『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』の四隻が健在である。
 これに、近藤艦隊に属する『龍驤』『隼鷹』を加えれば
 六隻でミッドウェーを攻めることが可能でしょう!」

彼の主張は、日本海軍の「艦隊決戦主義」という長年の教義に深く根差していた。
ミッドウェーを占領し、敵艦隊を誘い出し、一挙に殲滅する。
これこそ、国力の劣る日本が勝つための「意地」であり、「正道」であるという信念だった。

「長官。ミッドウェーは、日本海軍の威信そのものです。
 もし今、この大作戦を中止すれば、米国は必ず我が海軍の弱体化を察知する。
 士気は崩壊し、国内の大本営や国民の信頼も失墜するでしょう!」


南雲忠一中将は、近藤の主張に対し、一歩引いた姿勢を見せたが
その表情は不安に満ちていた。空母を率いる立場として、彼の懸念は搭乗員の練度にあった。

「長官の懸念される『罠』の可能性は、承知しております」
南雲は沈痛な面持ちで言った。
「しかし、一度決まったMI作戦を今更覆すのは、戦術的な混乱を招きます。
 我々は、訓練された作戦計画に乗って動くべきです」

彼は、珊瑚海での戦闘で「祥鳳」を失い
さらに五航戦両艦も大きなリスクに晒された経験から
正面からの決戦の危険性を誰よりも知っていた。
それでも、彼の言葉は「 MI作戦は既に動いている」という既成事実の重さに縛られていた。

作戦参謀の一人、黒島亀人中佐が立ち上がった。
彼は、作戦立案の中心人物の一人であり、その論調は極めて攻撃的だった。

「長官!ミッドウェー作戦は既に、大本営にも通達済みです!
 今更、MIを中止し、第二次MO作戦を強行するなど、前例がありません。
 大本営の承認を得られるはずがない!」

黒島は、山本五十六の「独断専行」という過去の経緯にも触れ
この決断が組織全体に与える影響を厳しく糾弾した。

「これは、海軍の威信の崩壊に繋がります。作戦を二転三転させることは
 我が海軍の信頼性を失墜させる愚行です!」

山本は、彼らの激情的な主張を、静かに、そして鋭い眼光で受け止めていた。
彼は、感情に流されることなく、論理的な反論を始めた。

「近藤中将、南雲中将。そして黒島中佐の危惧は理解できる」
山本は、低く、威圧的な声で言った。

「しかし、私は『意地で国は保てぬ』と、昨晩申し上げたはずだ。
 我々の目的は、勝利の美名ではない。国家の存続*だ」

山本は、ゆっくりと立ち上がると、卓上のミッドウェー作戦図を指差した。

「ミッドウェーは、堅牢な防御陣地だ。敵は必ず、空母を後方に隠し
 防衛線で我々を迎え撃つだろう。残る四隻の空母を
 練度半減の搭乗員で突入させることは、まさに罠に自ら飛び込む行為だ。
 運良く勝てたとしても、航空戦力の消耗は不可避。その後の戦いを、どう戦うつもりか?」

彼の論理は、冷徹で、感情を排していた。山本は、
「長期戦になれば国力差で必ず敗れる」という
開戦以来抱き続けてきた確信に基づいて発言していた。

3. 兵站の限界と「最後のチャンス」

議論は、戦略論から、より現実的な兵站の問題へと移った。

「長官!第二次MO作戦、すなわち珊瑚海への
 再度の全戦力投入は、兵站が持たぬ」
別の参謀が声を上げた。

「艦隊は先のMO作戦で燃料と弾薬を大きく消耗しています。
 MI作戦のための補給準備は進んでいたが、珊瑚海へと航路を変更し
 さらに『長門』『陸奥』、高速戦艦四隻を含む
 全戦力を投入するとなれば、燃料は極限まで逼迫する!」

日本の石油備蓄が限りなく少なく、作戦遂行のための燃料補給が綱渡りであることを
誰もが知っていた。全戦力を珊瑚海という遠方に集中させることは
まさに乾坤一擲の賭けであり
失敗すれば、艦隊は燃料切れで動けなくなる可能性があった。

「燃料の問題は、承知している」山本は、即座に答えた。
「故に、この作戦は一撃必殺でなければならぬ。長期戦は許されない」

山本は、再び地図を広げ、オーストラリアと
米国西海岸を結ぶ補給線(シーレーン)を指し示した。

「米豪遮断こそが、この戦局を覆す唯一の方法だ。この珊瑚海での一撃で
 敵空母の戦力、そしてシーレーンを断ち切る。
 そうすれば、敵は太平洋の補給線を失う」


「この一撃によって、敵は太平洋での補給の維持が困難となり
 厭戦気分が国内に広がる。もしかすると
 ……米国側から融和の条件が出てくるかもしれない」

この言葉は、近藤中将たちの心を揺さぶった。
彼らは「ミッドウェー」という戦術的目標に囚われていたが
山本は「講和」という究極の戦略的目標を提示したのだ。

しかし、近藤はなおも納得しなかった。彼は、卓上に身を乗り出した。

「長官の仰る戦略的目標は理解します。しかし、我々は空母七隻を
 集中運用するほどの余裕はないはずだ。翔鶴、瑞鶴抜きで残る六隻では
 敵の迎撃に対し、防御が手薄すぎる!MI作戦であれば、
 少なくとも敵の主力艦隊を誘い出すという明確な目的がある!」


会議は、もはや論理的な議論の体を成していなかった。
それは、「伝統と威信」対「冷徹な現実と生き残り」という、海軍の二つの魂の衝突だった。

「残る空母を惜しむ時ではない!」
山本は、声を荒らげた。彼の平静な仮面が、初めて剥がれ落ちた。

「敵の残存戦力を、この珊瑚海で、全て叩き潰す!これが、
 我が海軍に残された最後の好機だ。ミッドウェーという罠に
 残る空母を嵌めるくらいならば
 私はこの手で、全ての艦隊を指揮し、敵の息の根を止める!」

山本の言葉は、一種の特攻的な決意を帯びていた。
彼は、この作戦が失敗すれば、日本海軍の航空戦力が
完全に消滅することを承知の上で、決行しようとしていた。

宇垣纏参謀長は、この長官の決意に、一瞬言葉を失った。
彼は、長官が、この賭けに自身の全てを賭けていることを悟った。

宇垣は、静かに近藤中将に視線を送った。そして、深く頷いた。

「近藤中将」宇垣が口を開いた。その声は、重く、命令的だった。
「長官のご決断は、既に揺るぎない。我々は
 この作戦を成功させることのみに、全力を尽くす義務がある」

宇垣は、長官の剛腕をもって、この議論を終結させることを選んだ。
彼は、ミッドウェー強行が、より大きなリスクを伴うことを理解していた。

近藤は、宇垣の視線を受け、そして長官の燃えるような眼光に晒された。
彼は、深く息を吐き出し、力なく首を振った。

「……長官。わかりました。承知いたしました」

近藤は、敗北を認めた。それは、彼の信念に対する敗北ではなく
長官の「国家存続」という、より大きな戦略的目標に対する、一時的な戦略的後退だった。

「全戦力を以て、長官の第二次MO作戦案を遂行する」

黒島中佐も、唇を噛みしめながらも、沈黙した。

かくして、数日間にわたる激しい審議と、反対派の猛烈な反抗は
山本五十六の孤独な決断と剛腕によって、終結を迎えた。

艦橋には、再び重い静寂が訪れた。朝の光が窓から差し込み、卓上の地図を照らしている。
そこに描かれた「第二次MO作戦」の文字は、彼らの未来を、再び血塗られた珊瑚海へと誘っていた。

山本は、近藤たちの承諾を見届けた後、疲労を滲ませた宇垣に命じた。

「纏よ。直ちに東京へ電信を打て。MI作戦中止。
 第二次MO作戦、決行。……そして、各艦隊の指揮官を招集せよ。
 二日間で、艦隊編成を完遂する」

宇垣は敬礼し、踵を返した。彼の背中は、新たな作戦の重圧と
長官の非情な決断の重さを一身に背負っていた。

山本五十六は、「賭け」に成功した。だが、その代償として
彼は海軍の伝統と、多くの幕僚たちの信頼を、一時的にではあるが、犠牲にしたのだった。
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