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しおりを挟む瑛蒔に引っ張られ営業車で池上のマンションを訪れた匡史は、昨夜のことを思い出し、俄かに緊張した。なんだか敷居が高くて框を越えられずに居ると、何してんだよ、とあっさり瑛蒔に押し込まれてしまった。
「ソウジ、ただいま。マサチカ連れてきたよ」
瑛蒔はずかずかとリビングをわたると、その向こうにあるひとつのドアの前でそう叫んだ。中から、おかえり、という声だけが響く。
瑛蒔が振り返り、リビングのドア付近で突っ立っている匡史を振り返った。何か言ってよ、と目顔で訴えられ、匡史はゆっくりとドアの前に向かった。
その時だった。ドア越しでも感じる香りに匡史は軽いめまいを覚え、立ち眩みを起こした。しっかり両脚に力を入れる。倒れることはなかったが、匡史はドアから少し離れた。ようやく息はできるようになったものの、体の内側が沸騰しているような熱さは拭えない。匡史は大きく息をしてから、ドアに向かって声を掛けた。
「池上課長……具合、いかがですか?」
匡史の声に驚いたのか、中からがたりと音がした。その後に、心配ないから、という小さな返事が聞こえる。その声は言葉と違ってかなり細い。心配ないはずがない。
「ソウジー、出てきてよー。今日ちゃんと先生に休みの連絡入れられたんだよ、オレ」
「電話できるのか? 瑛蒔」
隣で瑛蒔の話を聞いていた匡史が驚いて聞くと、にっと笑って頷く瑛蒔が居た。
「すげーな、瑛蒔。会社まで一人で来たし」
「それはタクシー乗ったんだー。ここの裏にタクシー会社あるから、そこに行って」
「すげーじゃん。頭いいのな、瑛蒔」
匡史があんまり褒めるせいか瑛蒔は、それ以上言うな、と恥ずかしさでいっぱいの顔で匡史を睨み上げた。了解、と笑うと、安心したように息を吐く。
「オレのことはどうでもいいの! ソウジー、出てきてよー」
とにかく顔を見て安心したいのだろう。瑛蒔は出てきて欲しいと懇願する。それでも池上は、ごめんね、と繰り返した。その度に瑛蒔の顔が曇っていく。
「瑛蒔、ちょっと自分の部屋に行っててくれるか?」
「……どうして?」
突然の匡史の言葉に瑛蒔が怪訝な顔でこちらを見上げた。匡史はしゃがみ込み、瑛蒔と視線を合わせる。
「ちょっとだけ、大人の話。終わったら呼ぶから」
匡史が言うと、瑛蒔は渋々頷いてリビングを後にした。廊下からドアが閉まる音がして、匡史が立ち上がる。
「課長……もしかして、ラット、ですか?」
どうして自分が池上の香りを感じるのか分からないがこの症状は自分も気を付けていることだから分かる。どこかでヒート中のオメガと遭遇して逃げてきたのなら、今とても苦しいはずだ。
「……違うんだ。ラットじゃないから……金丸くんは、近づくな」
池上がそう言った途端、ぐんっと香りが強くなった。匡史の中に凶暴な何かが生まれ、急速に育っていく。背中を変な汗が流れていき、呼吸さえ荒くなる。
「課長……ラットじゃなくて、この香り……」
匡史がごくりと大きく唾を呑み込む。そっとドアに触れた、その時だった。
がちゃりとドアが開いたと思ったら、強い力でネクタイを引っ張られた。突然のことで何も構えていなかった匡史はそれに引かれるまま、足を進める。
「かちょっ……え……」
薄暗い部屋に引き込まれ再び背後で扉が閉まる。鍵のかかる音に驚いて目の前を見やると、そこには荒い呼吸を繰り返す池上が立っていた。
「……お前が一番来ちゃダメ、なのに……」
池上はそう言うと、匡史のネクタイを引き、そのままキスをした。
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