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アルファだと思っていた池上が実はオメガだった――それだけでも衝撃だったのに、その強い香りに惹かれ、自分があんなことまでしてしまった。
仕事に戻ってからもあまり捗らず、翌日になっても匡史はぼんやりとそんなことを考えていた。
「……好きになったから、とか……?」
確かに今思い出しただけでも股間が痛くなる程度には池上の蕩けた顔は魅力的だった。きっかけは香りかもしれないが、落ち着いた後の寝顔を見て胸が熱くなってキスまでしてしまったのだ。相手がオメガなんだから仕方ない、では済ませられないだろう。
午前七時の無人のオフィスで、匡史は大きくため息を吐いた。
前日ほとんど仕事にならなかった匡史は、その遅れを取り戻すために始業時間よりも随分早く出社していた。こんなに自分の気持ちが分からなくて、しかもそんなものに足を引っ張られて仕事にならなくなるなんて初めてのことだ。
「とりあえず今は仕事だな」
そう呟いて気持ちを切り替えて目の前のパソコン画面に向き合った、その時だった。
オフィスのドアが開き、匡史は驚いてそちらを振り返る。こんな時間に出社する人はいないのに、と思ってそちらに視線を向けていると、そこに現れたのは池上だった。
驚いて匡史が立ち上がる。
「……おはよう、金丸くん」
「……おはよう、ございます……」
いつものように細身のスーツをきっちりと着て、昨日は乱れていた髪もサイドに撫でつけている。パリッとしたいつもオフィスで見る池上だ。
「あの、体調は……」
「それについて話したくて……君が出社してくるのを捕まえようと思ってたんだが、先に出社してるとは予想外だったよ」
匡史の言葉に、池上が穏やかに話しながらこちらに近づく。その姿を見ていると、なんだか心臓がドキドキと跳ねる。
「昨日は、本当に申し訳ないことをした。悪かった」
匡史の目の前まで来た池上がそう言って深く頭を下げる。
「え、あの、課長、謝るのはこっちで……昨日も一昨日も、手を出したのは俺です。それで、課長を追い込んでしまってたなんて、知らなくて……」
匡史が言うと、池上が顔を上げた。そして緩く首を振る。
「元はと言えば、僕が自分の性別を偽ってたからだ。僕が初めからオメガだと言っていれば、君も警戒して近づかなかっただろう」
池上が苦い笑みを浮かべそう聞いた。匡史はそれに首を傾げる。
「俺が課長に近づいたのは、あなたが俺の運命の人を攫ってしまうのではないかっていう、不安からです」
自分の近くにアルファは要らないと思ったからだ。自分の存在が池上で霞んでしまわないように、この人を自分から遠ざけたくて近づいた。初めのきっかけは全く逆だった。
「俺……運命の番を信じてるんです。でも、作り話みたいに偶然に出会えるとは思ってなくて……だから、出会いの数を増やして、自分っていう存在を目立たせて、そのたった一人に見つけてもらえるようにって思ってて……だから正直、初めは課長にいい感情は抱いてませんでした。でも……」
自分の意志や気持ちなんかあっさりと覆してしまうほど惹かれる香りに出会ってしまった。体の一番奥、芯の部分から熱くなるようなそんな感覚を初めて覚えたのだ。
匡史はまっすぐに池上を見つめた。
「今はあなたに出会えてよかったって、思ってます。昨日のことも、後悔してません。むしろ、俺の手があなたを少しでも救えたのなら嬉しいくらいで……もっと、あなたのことが知りたいです。課長が運命の人だと確信したい」
香りだけじゃない、体だけじゃない、池上自身に惹かれるのなら、それはきっと運命だ。
匡史が今の気持ちを素直に話すと、そうか、と池上が口を開いた。
「……僕は、すぐに君の香りを感じたよ。事前に課の中にアルファがいるっていうのも教えられていたし……だから、少し怖かった。僕は運命なんて信じてなかったし、アルファもオメガも無くなればいいと思ってたし……でも、金丸くんは僕が知ってるアルファのイメージと全然違ってて――瑛蒔の父親に似てると思ったんだ。歓迎会を開いてくれたこととか、その時僕に対してしてくれたフォローとか……ホント、あいつもそういうところ、無駄に熱くて」
池上が、少し楽しそうに微笑む。きっと瑛蒔の父親を思い出しているのだろう。その笑顔がキレイで、それが余計に辛くて見ていられなくて、匡史は池上から視線を外した。
――好きなんだ、と感じた。
この人が別の誰かを想って笑う、そんな顔を見たくないと思ってしまった。
そんな匡史の思いを知ることもない池上は、そのまま言葉を続けた。
「それでなんとなく気になったんだ。滝上で助けてくれたことも嬉しかった。僕も、今は金丸くんを知りたいと思ってるよ。好きになりたいと思ってる」
池上が丁寧に気持ちの経緯を話してくれる。けれどそれは匡史にとっては辛い言葉だった。自分に興味をもってくれるのは嬉しい。けれど、池上の中にあるのは瑛蒔の父親だ。理想の恋人が心の中にいるのなら、その場所を匡史が奪うことなんか無理な気がした。
「本田さん、ですか……」
「え?」
「……まだ、やっぱり忘れられないんですね」
「いや、そんなことは……」
首を振る池上を見ていることが出来ず、匡史は池上から視線を外し、口を開いた。
「俺は、本田さんの代わりにはなれません。似てるからって、好きになられても俺にはきっと耐えられない……ごめんなさい」
匡史は呆然とする池上に深く頭を下げてからオフィスを出て行った。
自分を知りたいと言ってくれた、その気持ちは嬉しかったし、きっと本当の事だろう。誰かの代わりでも、自分のものになるならそれでもよかったんじゃないか――そんなふうにも確かに思った。けれど、知っていくほどにきっと本田との違いを感じて、あの人の心は離れていくだろう。好意を向けてもらえたことは嬉しかった。けれど、それは自分ではなくて、自分の向こうに元恋人を重ねていたからだ。きっと、彼と違う部分を見つけるたびに池上の好意は、徐々に薄れていくだろう。そして、彼の元へ戻りたいと思い始めるに決まっている。そんなのには耐えられない。ならば、この選択は正しいのだろう。痛手を最小限で済ませたのだから、これ以上はない。
好きなんだと自覚した途端、失恋するなんて、我ながらすごいなと思う。
「……あーあ、運命だと思ったのに……」
泣きそうになる自分をぐっと堪えて、呟く。池上が自分を追ってくることはなかった。
仕事に戻ってからもあまり捗らず、翌日になっても匡史はぼんやりとそんなことを考えていた。
「……好きになったから、とか……?」
確かに今思い出しただけでも股間が痛くなる程度には池上の蕩けた顔は魅力的だった。きっかけは香りかもしれないが、落ち着いた後の寝顔を見て胸が熱くなってキスまでしてしまったのだ。相手がオメガなんだから仕方ない、では済ませられないだろう。
午前七時の無人のオフィスで、匡史は大きくため息を吐いた。
前日ほとんど仕事にならなかった匡史は、その遅れを取り戻すために始業時間よりも随分早く出社していた。こんなに自分の気持ちが分からなくて、しかもそんなものに足を引っ張られて仕事にならなくなるなんて初めてのことだ。
「とりあえず今は仕事だな」
そう呟いて気持ちを切り替えて目の前のパソコン画面に向き合った、その時だった。
オフィスのドアが開き、匡史は驚いてそちらを振り返る。こんな時間に出社する人はいないのに、と思ってそちらに視線を向けていると、そこに現れたのは池上だった。
驚いて匡史が立ち上がる。
「……おはよう、金丸くん」
「……おはよう、ございます……」
いつものように細身のスーツをきっちりと着て、昨日は乱れていた髪もサイドに撫でつけている。パリッとしたいつもオフィスで見る池上だ。
「あの、体調は……」
「それについて話したくて……君が出社してくるのを捕まえようと思ってたんだが、先に出社してるとは予想外だったよ」
匡史の言葉に、池上が穏やかに話しながらこちらに近づく。その姿を見ていると、なんだか心臓がドキドキと跳ねる。
「昨日は、本当に申し訳ないことをした。悪かった」
匡史の目の前まで来た池上がそう言って深く頭を下げる。
「え、あの、課長、謝るのはこっちで……昨日も一昨日も、手を出したのは俺です。それで、課長を追い込んでしまってたなんて、知らなくて……」
匡史が言うと、池上が顔を上げた。そして緩く首を振る。
「元はと言えば、僕が自分の性別を偽ってたからだ。僕が初めからオメガだと言っていれば、君も警戒して近づかなかっただろう」
池上が苦い笑みを浮かべそう聞いた。匡史はそれに首を傾げる。
「俺が課長に近づいたのは、あなたが俺の運命の人を攫ってしまうのではないかっていう、不安からです」
自分の近くにアルファは要らないと思ったからだ。自分の存在が池上で霞んでしまわないように、この人を自分から遠ざけたくて近づいた。初めのきっかけは全く逆だった。
「俺……運命の番を信じてるんです。でも、作り話みたいに偶然に出会えるとは思ってなくて……だから、出会いの数を増やして、自分っていう存在を目立たせて、そのたった一人に見つけてもらえるようにって思ってて……だから正直、初めは課長にいい感情は抱いてませんでした。でも……」
自分の意志や気持ちなんかあっさりと覆してしまうほど惹かれる香りに出会ってしまった。体の一番奥、芯の部分から熱くなるようなそんな感覚を初めて覚えたのだ。
匡史はまっすぐに池上を見つめた。
「今はあなたに出会えてよかったって、思ってます。昨日のことも、後悔してません。むしろ、俺の手があなたを少しでも救えたのなら嬉しいくらいで……もっと、あなたのことが知りたいです。課長が運命の人だと確信したい」
香りだけじゃない、体だけじゃない、池上自身に惹かれるのなら、それはきっと運命だ。
匡史が今の気持ちを素直に話すと、そうか、と池上が口を開いた。
「……僕は、すぐに君の香りを感じたよ。事前に課の中にアルファがいるっていうのも教えられていたし……だから、少し怖かった。僕は運命なんて信じてなかったし、アルファもオメガも無くなればいいと思ってたし……でも、金丸くんは僕が知ってるアルファのイメージと全然違ってて――瑛蒔の父親に似てると思ったんだ。歓迎会を開いてくれたこととか、その時僕に対してしてくれたフォローとか……ホント、あいつもそういうところ、無駄に熱くて」
池上が、少し楽しそうに微笑む。きっと瑛蒔の父親を思い出しているのだろう。その笑顔がキレイで、それが余計に辛くて見ていられなくて、匡史は池上から視線を外した。
――好きなんだ、と感じた。
この人が別の誰かを想って笑う、そんな顔を見たくないと思ってしまった。
そんな匡史の思いを知ることもない池上は、そのまま言葉を続けた。
「それでなんとなく気になったんだ。滝上で助けてくれたことも嬉しかった。僕も、今は金丸くんを知りたいと思ってるよ。好きになりたいと思ってる」
池上が丁寧に気持ちの経緯を話してくれる。けれどそれは匡史にとっては辛い言葉だった。自分に興味をもってくれるのは嬉しい。けれど、池上の中にあるのは瑛蒔の父親だ。理想の恋人が心の中にいるのなら、その場所を匡史が奪うことなんか無理な気がした。
「本田さん、ですか……」
「え?」
「……まだ、やっぱり忘れられないんですね」
「いや、そんなことは……」
首を振る池上を見ていることが出来ず、匡史は池上から視線を外し、口を開いた。
「俺は、本田さんの代わりにはなれません。似てるからって、好きになられても俺にはきっと耐えられない……ごめんなさい」
匡史は呆然とする池上に深く頭を下げてからオフィスを出て行った。
自分を知りたいと言ってくれた、その気持ちは嬉しかったし、きっと本当の事だろう。誰かの代わりでも、自分のものになるならそれでもよかったんじゃないか――そんなふうにも確かに思った。けれど、知っていくほどにきっと本田との違いを感じて、あの人の心は離れていくだろう。好意を向けてもらえたことは嬉しかった。けれど、それは自分ではなくて、自分の向こうに元恋人を重ねていたからだ。きっと、彼と違う部分を見つけるたびに池上の好意は、徐々に薄れていくだろう。そして、彼の元へ戻りたいと思い始めるに決まっている。そんなのには耐えられない。ならば、この選択は正しいのだろう。痛手を最小限で済ませたのだから、これ以上はない。
好きなんだと自覚した途端、失恋するなんて、我ながらすごいなと思う。
「……あーあ、運命だと思ったのに……」
泣きそうになる自分をぐっと堪えて、呟く。池上が自分を追ってくることはなかった。
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