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07.ああ、ようやく
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ー早く、外へ。
アイリスの心にはそれだけだった。アバンドール一族の屋敷になんて、もう一瞬たりとも居たくない。夫と姑に打たれて痛む身体をひきずりながら、一心不乱に前へと進む。
やっと、門が見えた。もうすぐだわ…。
「お、奥様?!どうなさったんで?」
門番が驚いて声を上げた。アイリスと花壇の手入れをすることもある、気のいい老人だ。
「心配ないわ。門を開けてくださらないかしら?」
全身泥だらけのドレスに赤く腫れた頬、乱れた髪。大丈夫と言える状況ではないことは、誰の目にも明らかだ。
「……そんなら、馬車を呼びますです」
「いいのよ。歩くわ」
「そんなわけにゃ!」
「旦那様が行くようにおっしゃったの。大丈夫よ」
こんな状態の奥方をひとりで外出させるなど、どう考えても異常だ。けれど、内情を知っている門番は、それ以上食い下がることはしなかった。
「わかりやした…でしたら、せめてこれを」
そう言って門番小屋から、固く絞られた濡れ手拭いを出してくれる。
「みすぼらしいもんで、申し訳ねえですが」
「ありがとう…助かるわ」
屈辱的な思い出ばかりのこの屋敷だが、救いは使用人たちが優しかったことだ。アイリスが彼らのために心を砕いてきたからだろう。
「…あのね」
「へえ、奥様」
「何かあったら、グリネッド家の、私の実家の代理人を訪ねてね」
「っ?!奥様、やっぱりお供を…!」
「いやね、違うわ。もしここを辞めることになったら、次の仕事くらいは紹介してくれるはずよ」
自分がいなくなったことを知ったら、ロイは激怒して、この門番をクビにするかもしれない。優しい門番を路頭に迷わせたくなかった。
代理人の住所を告げると、もう行くわ、と伝える。門番は何か言いたげだったが、黙って門を開けてくれた。
アイリスはそのまま振り返らずに、屋敷を後にしたのだった。
大通りの人混みの中を、土埃にまみれ髪の乱れた女がひとり歩いているーーアイリスだ。
行き交う人々が興味深そうに見てくるが、気にする余裕はない。知り合いに見られているかもしれないが、そんなことはどうでも良い。一刻も早く行政庁舎に辿り着きたい、それだけだった。
ようやく、庁舎の入り口に着いた。受付で、離縁の手続きをと伝えると、奥の部屋へ案内される。
「アイリス・アバン…ドール様ですね」
係の女性はサインを見て、ほんの一瞬だが驚いた様子を見せた。仕方ない。アバンドール家は王都でも名の知れた商会だし、貴族から嫁いできた妻のことも有名だ。
本当によろしいのですか、取り消しはできないですよ、と尋ねられ、アイリスは構わないと答える。早く自由になりたい。
アイリスはドレスのポケットから、一枚の紙を取り出した。それは、離婚の届出書だった。
そこには、正真正銘ロイとアイリスの直筆のサインがある。フローラばかり優先することに抗議した日、激怒したロイに無理やり署名させられたのだ。
『卑しい邪推をする女とやっていけるか!離婚だ!』
その時はアイリスが必死に懇願して収まったが、その後もことあるごとにロイはこの紙をちらつかせた。その度に、アイリスは泣いて謝った。ロイはそういう男だった。
(愚かだったわ、あまりにも)
なぜ、あの男の本性を見抜けなかったのか。なぜ、あんな男を一度でも愛してしまったのか。
大事にする、と誓った言葉は全て嘘だった。アバンドール家は、翳り始めた権勢を取り戻すために、名流出身の妻が必要だっただけ。
家柄は良いが権力はなく、そのうえ家族揃って世間知らずのお人好し。世馴れたロイには、さぞ扱いやすかっただろう。
「承知いたしました。では、婚姻書のサインと照合して筆跡鑑定をして参ります。しばらくお待ちください」
係の女性は黙って届書を受け取ると、部屋を出て行った。
庁舎には特殊な器具があり、素早く筆跡鑑定ができることはよく知られている。それでもアイリスにとっては、永遠のように感じられた。
そして。
「お待たせいたしました。届出を受理いたしました」
ああ、ようやく…。
「こちらが証書でございます」
手渡された書面には、紛れもなく、今この時を持ってロイとアイリスの婚姻関係が解消されたと書かれていた。
やっと…やっと!
震える手で証書を受け取ると、係官に礼を述べて、深々とお辞儀をしたアイリスだった。
アイリスの心にはそれだけだった。アバンドール一族の屋敷になんて、もう一瞬たりとも居たくない。夫と姑に打たれて痛む身体をひきずりながら、一心不乱に前へと進む。
やっと、門が見えた。もうすぐだわ…。
「お、奥様?!どうなさったんで?」
門番が驚いて声を上げた。アイリスと花壇の手入れをすることもある、気のいい老人だ。
「心配ないわ。門を開けてくださらないかしら?」
全身泥だらけのドレスに赤く腫れた頬、乱れた髪。大丈夫と言える状況ではないことは、誰の目にも明らかだ。
「……そんなら、馬車を呼びますです」
「いいのよ。歩くわ」
「そんなわけにゃ!」
「旦那様が行くようにおっしゃったの。大丈夫よ」
こんな状態の奥方をひとりで外出させるなど、どう考えても異常だ。けれど、内情を知っている門番は、それ以上食い下がることはしなかった。
「わかりやした…でしたら、せめてこれを」
そう言って門番小屋から、固く絞られた濡れ手拭いを出してくれる。
「みすぼらしいもんで、申し訳ねえですが」
「ありがとう…助かるわ」
屈辱的な思い出ばかりのこの屋敷だが、救いは使用人たちが優しかったことだ。アイリスが彼らのために心を砕いてきたからだろう。
「…あのね」
「へえ、奥様」
「何かあったら、グリネッド家の、私の実家の代理人を訪ねてね」
「っ?!奥様、やっぱりお供を…!」
「いやね、違うわ。もしここを辞めることになったら、次の仕事くらいは紹介してくれるはずよ」
自分がいなくなったことを知ったら、ロイは激怒して、この門番をクビにするかもしれない。優しい門番を路頭に迷わせたくなかった。
代理人の住所を告げると、もう行くわ、と伝える。門番は何か言いたげだったが、黙って門を開けてくれた。
アイリスはそのまま振り返らずに、屋敷を後にしたのだった。
大通りの人混みの中を、土埃にまみれ髪の乱れた女がひとり歩いているーーアイリスだ。
行き交う人々が興味深そうに見てくるが、気にする余裕はない。知り合いに見られているかもしれないが、そんなことはどうでも良い。一刻も早く行政庁舎に辿り着きたい、それだけだった。
ようやく、庁舎の入り口に着いた。受付で、離縁の手続きをと伝えると、奥の部屋へ案内される。
「アイリス・アバン…ドール様ですね」
係の女性はサインを見て、ほんの一瞬だが驚いた様子を見せた。仕方ない。アバンドール家は王都でも名の知れた商会だし、貴族から嫁いできた妻のことも有名だ。
本当によろしいのですか、取り消しはできないですよ、と尋ねられ、アイリスは構わないと答える。早く自由になりたい。
アイリスはドレスのポケットから、一枚の紙を取り出した。それは、離婚の届出書だった。
そこには、正真正銘ロイとアイリスの直筆のサインがある。フローラばかり優先することに抗議した日、激怒したロイに無理やり署名させられたのだ。
『卑しい邪推をする女とやっていけるか!離婚だ!』
その時はアイリスが必死に懇願して収まったが、その後もことあるごとにロイはこの紙をちらつかせた。その度に、アイリスは泣いて謝った。ロイはそういう男だった。
(愚かだったわ、あまりにも)
なぜ、あの男の本性を見抜けなかったのか。なぜ、あんな男を一度でも愛してしまったのか。
大事にする、と誓った言葉は全て嘘だった。アバンドール家は、翳り始めた権勢を取り戻すために、名流出身の妻が必要だっただけ。
家柄は良いが権力はなく、そのうえ家族揃って世間知らずのお人好し。世馴れたロイには、さぞ扱いやすかっただろう。
「承知いたしました。では、婚姻書のサインと照合して筆跡鑑定をして参ります。しばらくお待ちください」
係の女性は黙って届書を受け取ると、部屋を出て行った。
庁舎には特殊な器具があり、素早く筆跡鑑定ができることはよく知られている。それでもアイリスにとっては、永遠のように感じられた。
そして。
「お待たせいたしました。届出を受理いたしました」
ああ、ようやく…。
「こちらが証書でございます」
手渡された書面には、紛れもなく、今この時を持ってロイとアイリスの婚姻関係が解消されたと書かれていた。
やっと…やっと!
震える手で証書を受け取ると、係官に礼を述べて、深々とお辞儀をしたアイリスだった。
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