その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

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第二章

【第10話】ほどけた糸と、揺れる想い

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 あの夜から数日が経った。

 いまだ、亜矢香の胸の奥のざわめきは消えていない。事あるごとに出来事が脳裏によみがえり、鼓動が速くなってしまう。
 俊輔の部屋で、あのまま流されたままでいたら、どうなっていたのだろう――そう思い返して想像するたび、顔が熱くなる。

「……何考えてるんだろ、私」

 アパートのひとりきりの部屋でつぶやく声は、頼りなく響いた。
 彼が寸前で止めてくれたからこそ、自分も冷静を取り戻すことができた。けれど、あの時の感触や熱を思い出すと、どうしても心臓が早鐘を打つ。

 ――本当は、自分は、どうなりたかったのか。
 ――俊輔のことを、自分は今、どう思っているのか。

 それについて考えようとすると、胸の内が甘くざわめく。
 感じたことのないざわめきに慣れなくて、いつも、途中で考えるのをやめてしまう。

 次に彼と顔を合わせるのが、楽しみでもあり、怖いようでもあった。


 ◇ ◇ ◇


 その週末、早番のシフトが入っていた亜矢香に合わせ、店舗最寄りの駅前で待ち合わせる。もはや待ち合わせの定番のひとつになった場所だ。
 亜矢香がやや速足で向かうと、先に来ていた俊輔はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。

「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
「いえ。気が逸って早く来てしまっただけなので、大丈夫ですよ」

 ありきたりなやり取りを自然と交わせたことに、お互い、少しほっとしたような表情になった。

 今日は気分転換と買い物を兼ねて、二駅向こうのショッピングモールを歩き回ることにしていた。
 休日午後の雑踏の中、肩が触れるか触れないかの距離に自然と並んで歩く。それだけで、心がくすぐったいようなざわめきで占められる。

「あの……この前の映画、面白かったですね」

 亜矢香がそう口にすると、俊輔は一瞬だけ驚いたようにこちらを見たが、すぐに柔らかい動作でうなずいた。

「そうですね。また、一緒に行きましょう」
「……はい」

 ほんの数秒の間に、口に出せなかった言葉が、胸に沈むように残る。

 ――あの夜のことは忘れますから、あなたも忘れてください。

 じわりと残る気まずさを払うためにも、そう言いたい。
 けれど同時に、忘れたくない自分も、確かに心の片隅にいた。
 そんなふうに思う自分が、亜矢香は不思議でありながら、どこか納得できるような心持ちもあるのだった。


 一時間半ほど散策し、服を見たり小物を購入したりしながら回った後、モールの1階にあるカフェで腰を下ろした。Cafeワイズとは別の、全国展開している大手チェーン店だ。
 ごく自然に席を確保し、列に並ぶ俊輔の様子に、亜矢香は首を傾げる。目ざとく気づいたらしい彼は「どうかしましたか?」と尋ねてきた。

「あ、いえ……その。お店の雰囲気とか、気にならないのかなって思って」
「――ああ、なるほど。リサーチしないのかってことですね」
「はい」

 亜矢香が肯定すると、俊輔は微苦笑を浮かべ、低めた声で答えた。

「仕事中ならもちろんしますけどね。今はプライベート、しかもデート中ですから。好きな人と一緒の時ぐらい、お客さんに徹します」

 最後の部分で、今度はにっこりと笑いかけられ、亜矢香の頬が熱くなる。
 そんな甘い笑みで「好きな人と一緒」とか言うなんて、反則だ。

 提供された飲み物を確保したテーブルまで運び、向かい合って座った。一口、二口をすする時間が、妙に長く感じられる。

 俊輔が、にわかに表情を引きしめて、こう切り出した。

「先日はすみませんでした。あんなことして、驚かせてしまって」

 あんなこと、と言われて一気にあの出来事が、あの時の感触がまたよみがえった。ぶわっと血流が速くなる心地がする。

「い、いえ……! そんな、ことは」

 形だけでも否定しようとする亜矢香を、俊輔は首を振って制する。

「いや、僕が堪えるべきだったんです。……正直、気持ちを抑えるのは簡単じゃなかった。でも、あそこであのまま進めたらお互いに後悔してしまう気がして、なんとか留めました」

 静かに、抑制をもって告げられた言葉に、亜矢香の胸の奥がちくりと痛んだ。
 自分を大切に思ってくれているのだとわかるのに、なぜだか泣きそうになってしまう。

「……ありがとうございます」

 か細い声で言ったものの、言葉通りではない感情が、亜矢香の中に巡っていた。 
 大事にしてもらえることは有難いと思う。けれど、そうされるだけでは満たされないといった、かすかな渇望も感じ始めていた。

「その、私……あの時、確かにびっくりしましたけど」

 懸命に考えながら、言葉を選びつつ、亜矢香は正直な思いを紡いでいく。

「でも、嬉しい、って思う気持ちもありました。触れてもらえて、嬉しかったです」

 ゆっくりと小さな、だがはっきりとした声で、告白のように伝える。

 俊輔の目が、しばし見開かれた後、優しく細められた。
 その視線は、「欲望」ではなく「慈しみ」の色を帯びているように見えて、亜矢香はようやく、ぎこちなく固まった心がほぐれていくのを感じた。


 カフェを出た後、ショッピングモールから駅までの道を歩きながら、俊輔がそっと自分の手を差し出す。

「今日は、つないでもいいですか?」
「――はい」

 慎重な問いに、一瞬の間の後、亜矢香はうなずいた。

 指先が触れ合うと同時に、互いの体温が伝わる。
 あの夜の、火が点くような熱とは違う、静かで穏やかな温もり。けれど、感じる心臓の高鳴りは同じだった。

「僕は焦らないつもりです。でも、もう少しあなたに近づきたい」
「私も、そう思ってます」

 夕暮れの光が二人を包み込み、長い影を並べて寄り添わせる。

「お試し交際」の糸はこうして、昨日よりも固く結ばれ、想いの結び目を増やしていくのだった。
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