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第三章
【第11話】揺らぐ日常とささやかな秘密
平日昼下がりのカフェは、いつもと同じように賑わっていた。
ランチを終えた客が席を立ち、入れ代わりでコーヒー片手に長居する常連客が増える時間帯。
亜矢香は返却コーナーに積まれたトレイを片づけながら、入口の鈴が鳴る音に、思わず顔を上げた。
そこに立っていたのは、背広姿のよく知った男性――仕事途中で寄ったのであろう、俊輔。
彼がこちらに微笑みかけてくれるだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
先日の出来事がまた、脳裏に鮮明に思い出されてきて、自然と視線が逸れてしまった。
「い、いらっしゃいませ」
努めて平静を装って挨拶をするものの、やや声が乱れた。カウンターに戻ったところで、レジに立っている三好が小声で囁いてくる。
「副社長さん、また来たのね。なんかほぼ毎日じゃない? お目当ての人でもいるのかな」
三好のからかうような笑みに皮肉は感じられなかったが、彼女の言葉に反応した周囲の視線が、否応なく亜矢香に刺さってくる。
「そんなの、桜田さんに決まってるよねえ。可愛い人は特別扱いされちゃっていいなあ」
「い、いえ。そんなはずないですよ。あんな偉い人が」
他の同僚に応じる声と手が、わずかに震えているのが自分でもわかってしまう。
彼が「特別なお客様」であることは、すでに誰もが知っている。けれど、その向こう側――あの日の夜、亜矢香が俊輔の部屋で彼と触れ合い、唇を重ねてしまったことは、もちろん誰も知らない。
秘密を抱えているという事実はこんなにも心をざわつかせるのだと、亜矢香は初めて気づいた。
俊輔はいつもの窓際の席に腰を下ろし、ブレンドコーヒーを注文した。三好に急かされるようにホールに出た亜矢香が、カップを差し出す。受け取った彼の指先が一瞬、自分の指に触れた。
その一瞬がやけに長く感じられて、心臓が跳ねた。
彼の視線がわずかにやわらぎ、唇が「ありがとう」と形づくる。
それだけのやりとりなのに、亜矢香は身体が熱くなってしまうのを強く感じた。
だが同僚や周囲の目が気になって、すぐに離れる。
笑顔を保ったまま、背を向けた途端、心臓がせわしく鳴り始めた。
――もし誰かにこの気持ちを知られたら。もし噂になったら。
頭ではわかっている。これほどに立場の違う人を恋愛対象として考えるなど、ましてや付き合うことなどは、望むべきではないのだと。
けれど、彼がこうして店に来てくれるだけで、今日という日が特別になるのも、今の亜矢香にとっては間違いのない事実だった。
閉店後、店の通用口を出たところで、俊輔が待っていた。
夜風に揺れるスーツの裾が、少し離れた街灯の光を受けて、淡く光っている。
「お疲れ様でした。……もしよかったら、少し歩きませんか」
その声音は、静かで、どこか遠慮がちに聞こえた。
差し出された言葉を、亜矢香が断る理由はなく、二人並んで夜の街を歩き出す。
ビルが立ち並ぶ合間を、普段は行かない方向へ抜けると、川沿いの遊歩道に出た。街灯が水面に映って揺らめき、心地よい風が頬をなでていく。
「仕事の後にこうして歩くの、久しぶりです」
俊輔の声は穏やかで、どこか解放感がにじんでいた。
立場上、会社では背負っているものが多いのだろう。きっと亜矢香が想像できる以上に。
彼が、その重さを少しの間でも忘れる助けになれるのなら――そんなふうにふと、思った。
「副社長なのに、こんな場所を私と歩いてて、大丈夫なんですか?」
軽く冗談めかしてそう言うと、俊輔が小さく、けれど明るく笑う。
「夜なら、誰も気づかないですよ。……それに、あなたと一緒なら気にしません」
自分の心臓が高鳴る音が、耳の奥で聞こえるようだった。
それから俊輔は、他愛ない話題をいくつか口にした。学生の頃に好きだった映画のこと、最近読んだ本についてなど。
初めて聞く彼の一面を知るたびに、気持ちの距離が、少しずつ縮まっていく気がした。
けれど同時に、昼間の同僚の言葉が頭をよぎる。
「特別扱い」――そんな言葉の棘が、亜矢香を現実に引き戻す。
立場の違い。年齢の差。社内の噂。
自分は彼にふさわしい人ではないかもしれない、という不安が、心の隅で小さく疼いた。
亜矢香のそんな迷いを見透かしたかのように、俊輔が足を止めた。
夜の風が髪を揺らし、街灯の光が彼の横顔を照らす。
「不思議ですね。あなたと話してると、いろんな気持ちが楽になるんです」
「……え」
「仕事でも、家族のことでも……考えなきゃならないことは山ほどあるのに、あなたの前だと、その重さを忘れてしまう」
淡々とした口調の裏に、疲れがわずかににじんでいるように思えた。
俊輔の横顔を見つめながら、亜矢香は胸の奥に小さな灯がともるのを感じる。
彼を、現実的に支えられる女性にはなれないのかもしれない。それでもせめて、隣にいて心をやわらげられる存在でいたい。そう、強く思った。
「……私も、同じです」
ようやく絞り出した声は、夜風にかき消されそうなほど細く、小さかった。
「俊輔さんと話していると、なんだか、世界を少し優しく感じる気がします」
彼の瞳が、驚いたように見開かれた後、やわらかく笑う形になった。
「そう言ってもらえるなんて、嬉しいです」
二人の間に沈黙が訪れる。けれど気まずさからではなく、静かな安らぎがあった。
並んで歩く足音が、川面に映る灯りと重なり合う。
ときおり手が触れそうになっては、互いにそっと離れる。
言葉にできない想いが、形を持たないまま夜の空気に溶けていく。
――現実と日常の中に生まれた、小さな秘密。
けれどそれは、確かに二人を結ぶ糸になり始めていた。
触れ合わずにいても、大っぴらに恋と呼べる関係ではなくても、心だけはもう隠せなかった。
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