その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

文字の大きさ
13 / 31
第三章

【第12話】触れられた孤独



 その週末の午後、待ち合わせたのは駅前の広場だった。
 人混みを縫って亜矢香が待ち合わせ場所に向かうと、俊輔はいつもと変わらない落ち着いた様子で立っていた。
 灰色のコートの襟元を風が揺らす中、彼は手をポケットに入れてたたずんでいる。
 その姿を見つけただけで、亜矢香の胸は不思議と安らいだ。

「お待たせしました」
「いいえ。僕も今、来たところです」

 そんなありきたりのやりとりすら、甘やかでくすぐったい。
 他愛のない会話の中で、少しずつ「恋人未満」の距離がにじんでいくようだった。

 二人は映画館へ向かい、話題になっている国内作品を観た。

 スクリーンの光が暗闇の中で揺れて、俊輔の横顔を照らす。
 笑う場面では肩をわずかに揺らし、悲しい場面では静かに眉を寄せる。
 その表情のひとつひとつに情があふれていて、亜矢香は何度も目を奪われた。
 ときおり彼がこちらに目を向けるたび、視線が重なり、胸が高鳴る。

 上映が終わり、館内に照明が戻った。

「いい映画でしたね」
「ええ。少し泣きそうでした」

 彼の言葉に自然と笑みがこぼれる。
 強くて穏やかな人――そんな印象の奥に、思う以上の繊細さがあるのだと感じた。

 映画館を出て、夕食をとるため、駅前のアーケード街を並んで歩いた。
 有名な子供服ブランド店のショーウィンドウには、カラフルな服を着せられたマネキンがいくつも並び、その前を、風船を持った小さな男の子が駆けていく。

「ママ、これ見て!」

 弾む声に、俊輔がわずかに足を止めた。

 母親らしき女性が微笑みながら、男の子の頭を優しく撫でる。
 その光景を、俊輔は穏やかな、それでいて切なげな目でしばらく見つめていた。
 その横顔はどこか懐かしげであり、少しだけ寂しそうでもあった。

「……いいですね、ああいうの」

 ふと漏らした声は、風にかき消されそうに小さい。

「楽しそうで、温かくて。……子供の頃、ああやって親と手をつないで歩いた記憶が、もうほとんどないんです」

 その言葉に、亜矢香は胸の奥をつかまれたような気がした。

 彼がどんな過去を抱えているのか、詳しくは知らない。
 けれど、ほんの一瞬にじんだ寂しさが、何よりも雄弁に俊輔の心を語っていた。

「俊輔さん、子供好きなんですね」

 そっと言うと、彼は小さく微笑んだ。

「ええ。無邪気でまっすぐで……あんなふうに素直に笑えるのは、うらやましいですよ」

 その言葉に潜む思い――「届かない場所への憧れ」が静かに、確実に胸を打つ。

 人混みに流されそうになった瞬間、俊輔が自然な仕草で腕を引いてくれた。

「あ、すみません」
「いえ。怪我でもしたら大変ですから」

 何気ない一言に、胸の奥がじんわり温かくなる。
 その手の力の確かさが、言葉よりもはっきりと、彼の優しさを伝えていた。


 俊輔が予約してくれていたのは、アーケード街から少し離れた場所の、落ち着いたレストラン。
 ガラス越しに夕暮れの光が差し込み、窓際の席には淡いオレンジ色の影が落ちる。

 店内にはグラスの音と、低く流れるピアノの旋律。

 ワインを勧められたが、二人とも「今日は控えめにしましょう」と、ノンアルコールドリンクを選んだ。
 グラスを合わせる音が、静かに響いた。

「こうしてゆっくり食事するのは、最近では亜矢香さんとぐらいです」

 ぽつりと俊輔が漏らした。

「普段は一人で、急いで済ませてしまうので」

 驚いて顔を上げると、彼は淡く笑っている。

「家に帰っても誰もいませんし、日中は忙しいから外で食べることが多くて……気づけば、それが当たり前になっていました」

 淡々とした声の奥に、彼の抱える寂しさが感じられた。
 先ほどの、家族連れを見つめる少し複雑な色のまなざしが、亜矢香の脳裏で重なる。

「わかります。……私も、一人で食べる時、妙に寂しくなることがあって」

 自然に言葉がこぼれていた。

「だから、こうして誰かと食卓を囲めるのって、すごく嬉しいです」

 俊輔の目が、静かに見開かれた。

「そうですか……あなたといると本当に、同じ食事でも違う味わいがします」

 その声はどこか柔らかく、遠い過去をなぞるようだった。

 湯気が立ちのぼるスープが運ばれてきた。白いスープ皿からは、芳しい香りが漂ってくる。
 オーソドックスなメニューでありながら、自分で作るのとは違う、特別な味がする。

 俊輔はフォークを動かしながら、ふと思い出したようにつぶやいた。

「昔、両親とよく外食していたんです。休日は決まって、母が好きな洋食屋へ行って……」

 そこまで言って、少しだけ微笑む。

「――まるで、昨日のことみたいに思い出しました」

 その笑顔が、穏やかなのに切なさを帯びていて、亜矢香は何も言えなかった。
 言葉を探す代わりに、コーヒーカップに添えられた手に、そっと指を触れさせた。
 わずかに触れ合った温もりが、不思議なほど、穏やかな気持ちを呼び起こした。

「……ありがとう」

 俊輔が静かに呟く。その声音が、胸の奥にじんと響いた。


 夜風に吹かれながら、駅へ向かう道をふたり、隣り合って歩く。
 街灯が一定の間隔で続き、二人の影を長く伸ばしている。
 昼間の喧噪が嘘のように静かで、風の音と、足音だけがあたりに響いた。

「今日は楽しかったです」
「ええ、僕も。……あなたが隣にいてくれると、心地いい」

 その言葉に亜矢香の胸が熱くなる。
 息を吸い込むと、夜の冷たさよりも彼の温かい心を強く感じた。

 もっと寄り添いたい。
 彼の孤独に触れたからこそ、自分が支えになりたい。

 声に出す勇気はまだなかったけれど、歩調を合わせながら、亜矢香はそっと彼の手の近くへ自分の手を伸ばした。
 先ほどと同じように、指がわずかに触れる。ただそれだけで、心臓が跳ねた。

 回答が途切れる暗がりで、夜空に浮かぶ月の光が、ふたりの影をそっとひとつに重ねる。
 その光の下で、言葉にならない想いが静かに芽吹いていた。
感想 8

あなたにおすすめの小説

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

ワケあり上司とヒミツの共有

咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。 でも、社内で有名な津田部長。 ハンサム&クールな出で立ちが、 女子社員のハートを鷲掴みにしている。 接点なんて、何もない。 社内の廊下で、2、3度すれ違った位。 だから、 私が津田部長のヒミツを知ったのは、 偶然。 社内の誰も気が付いていないヒミツを 私は知ってしまった。 「どどど、どうしよう……!!」 私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end** ◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です! https://estar.jp/novels/26513389

手を伸ばした先にいるのは誰ですか~愛しくて切なくて…憎らしいほど愛してる~【完結】

まぁ
恋愛
ワイン、ホテルの企画業務など大人の仕事、そして大人に切り離せない恋愛と… 「Ninagawa Queen's Hotel」 若きホテル王 蜷川朱鷺  妹     蜷川美鳥 人気美容家 佐井友理奈 「オークワイナリー」 国内ワイナリー最大手創業者一族 柏木龍之介 血縁関係のない兄妹と、その周辺の何角関係…? 華やかな人々が繰り広げる、フィクションです。

定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました

藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。 そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。 ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。 その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。 仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。 会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。 これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。

フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛

咲妃-saki-
恋愛
26歳OLの木崎茉莉は人生のどん底にいた。上手くいかないことに慣れ、心を凍らせることで自分を守る毎日に絶望した茉莉は、雨の夜に思わず人生の終わりを願ってしまう。そんな茉莉に手を差し伸べたかっこいい彼。茉莉は、なぜか無償の愛のような優しさをくれる不思議な男性に少しずつ救われ、前を向いていく。けれど、疑ってしまうほど親切な彼には、親切であり続ける理由があって……。雨の夜の出会いがもたらした、優しくも切ない物語。

サディスティックなプリテンダー

櫻井音衣
恋愛
容姿端麗、頭脳明晰。 6か国語を巧みに操る帰国子女で 所作の美しさから育ちの良さが窺える、 若くして出世した超エリート。 仕事に関しては細かく厳しい、デキる上司。 それなのに 社内でその人はこう呼ばれている。 『この上なく残念な上司』と。