その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

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第三章

【第12話】触れられた孤独

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 その週末の午後、待ち合わせたのは駅前の広場だった。
 人混みを縫って亜矢香が待ち合わせ場所に向かうと、俊輔はいつもと変わらない落ち着いた様子で立っていた。
 灰色のコートの襟元を風が揺らす中、彼は手をポケットに入れてたたずんでいる。
 その姿を見つけただけで、亜矢香の胸は不思議と安らいだ。

「お待たせしました」
「いいえ。僕も今、来たところです」

 そんなありきたりのやりとりすら、甘やかでくすぐったい。
 他愛のない会話の中で、少しずつ「恋人未満」の距離がにじんでいくようだった。

 二人は映画館へ向かい、話題になっている国内作品を観た。

 スクリーンの光が暗闇の中で揺れて、俊輔の横顔を照らす。
 笑う場面では肩をわずかに揺らし、悲しい場面では静かに眉を寄せる。
 その表情のひとつひとつに情があふれていて、亜矢香は何度も目を奪われた。
 ときおり彼がこちらに目を向けるたび、視線が重なり、胸が高鳴る。

 上映が終わり、館内に照明が戻った。

「いい映画でしたね」
「ええ。少し泣きそうでした」

 彼の言葉に自然と笑みがこぼれる。
 強くて穏やかな人――そんな印象の奥に、思う以上の繊細さがあるのだと感じた。

 映画館を出て、夕食をとるため、駅前のアーケード街を並んで歩いた。
 有名な子供服ブランド店のショーウィンドウには、カラフルな服を着せられたマネキンがいくつも並び、その前を、風船を持った小さな男の子が駆けていく。

「ママ、これ見て!」

 弾む声に、俊輔がわずかに足を止めた。

 母親らしき女性が微笑みながら、男の子の頭を優しく撫でる。
 その光景を、俊輔は穏やかな、それでいて切なげな目でしばらく見つめていた。
 その横顔はどこか懐かしげであり、少しだけ寂しそうでもあった。

「……いいですね、ああいうの」

 ふと漏らした声は、風にかき消されそうに小さい。

「楽しそうで、温かくて。……子供の頃、ああやって親と手をつないで歩いた記憶が、もうほとんどないんです」

 その言葉に、亜矢香は胸の奥をつかまれたような気がした。

 彼がどんな過去を抱えているのか、詳しくは知らない。
 けれど、ほんの一瞬にじんだ寂しさが、何よりも雄弁に俊輔の心を語っていた。

「俊輔さん、子供好きなんですね」

 そっと言うと、彼は小さく微笑んだ。

「ええ。無邪気でまっすぐで……あんなふうに素直に笑えるのは、うらやましいですよ」

 その言葉に潜む思い――「届かない場所への憧れ」が静かに、確実に胸を打つ。

 人混みに流されそうになった瞬間、俊輔が自然な仕草で腕を引いてくれた。

「あ、すみません」
「いえ。怪我でもしたら大変ですから」

 何気ない一言に、胸の奥がじんわり温かくなる。
 その手の力の確かさが、言葉よりもはっきりと、彼の優しさを伝えていた。


 俊輔が予約してくれていたのは、アーケード街から少し離れた場所の、落ち着いたレストラン。
 ガラス越しに夕暮れの光が差し込み、窓際の席には淡いオレンジ色の影が落ちる。

 店内にはグラスの音と、低く流れるピアノの旋律。

 ワインを勧められたが、二人とも「今日は控えめにしましょう」と、ノンアルコールドリンクを選んだ。
 グラスを合わせる音が、静かに響いた。

「こうしてゆっくり食事するのは、最近では亜矢香さんとぐらいです」

 ぽつりと俊輔が漏らした。

「普段は一人で、急いで済ませてしまうので」

 驚いて顔を上げると、彼は淡く笑っている。

「家に帰っても誰もいませんし、日中は忙しいから外で食べることが多くて……気づけば、それが当たり前になっていました」

 淡々とした声の奥に、彼の抱える寂しさが感じられた。
 先ほどの、家族連れを見つめる少し複雑な色のまなざしが、亜矢香の脳裏で重なる。

「わかります。……私も、一人で食べる時、妙に寂しくなることがあって」

 自然に言葉がこぼれていた。

「だから、こうして誰かと食卓を囲めるのって、すごく嬉しいです」

 俊輔の目が、静かに見開かれた。

「そうですか……あなたといると本当に、同じ食事でも違う味わいがします」

 その声はどこか柔らかく、遠い過去をなぞるようだった。

 湯気が立ちのぼるスープが運ばれてきた。白いスープ皿からは、芳しい香りが漂ってくる。
 オーソドックスなメニューでありながら、自分で作るのとは違う、特別な味がする。

 俊輔はフォークを動かしながら、ふと思い出したようにつぶやいた。

「昔、両親とよく外食していたんです。休日は決まって、母が好きな洋食屋へ行って……」

 そこまで言って、少しだけ微笑む。

「――まるで、昨日のことみたいに思い出しました」

 その笑顔が、穏やかなのに切なさを帯びていて、亜矢香は何も言えなかった。
 言葉を探す代わりに、コーヒーカップに添えられた手に、そっと指を触れさせた。
 わずかに触れ合った温もりが、不思議なほど、穏やかな気持ちを呼び起こした。

「……ありがとう」

 俊輔が静かに呟く。その声音が、胸の奥にじんと響いた。


 夜風に吹かれながら、駅へ向かう道をふたり、隣り合って歩く。
 街灯が一定の間隔で続き、二人の影を長く伸ばしている。
 昼間の喧噪が嘘のように静かで、風の音と、足音だけがあたりに響いた。

「今日は楽しかったです」
「ええ、僕も。……あなたが隣にいてくれると、心地いい」

 その言葉に亜矢香の胸が熱くなる。
 息を吸い込むと、夜の冷たさよりも彼の温かい心を強く感じた。

 もっと寄り添いたい。
 彼の孤独に触れたからこそ、自分が支えになりたい。

 声に出す勇気はまだなかったけれど、歩調を合わせながら、亜矢香はそっと彼の手の近くへ自分の手を伸ばした。
 先ほどと同じように、指がわずかに触れる。ただそれだけで、心臓が跳ねた。

 回答が途切れる暗がりで、夜空に浮かぶ月の光が、ふたりの影をそっとひとつに重ねる。
 その光の下で、言葉にならない想いが静かに芽吹いていた。
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