その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

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第三章

【第14話】わたしの「好き」の形

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 翌日の夜、亜矢香は待ち合わせ時間よりほんの少し早く、駅前に着いた。

 前夜、俊輔の過去を聞いてから、一晩中胸がざわついて眠れなかった。
 仕事中も、うっかりミスをしないよう集中するのが一苦労だった。

 今日は、彼と会う予定はなかった。だが会わずにはいられなくて、呼び出したのだ。どうしても話をしたくて。

 彼の背負ってきた孤独を思うと、放っておけない。けれど同情ではなく、純粋に「一緒にいたい」と思っていること――それを、きちんと伝えたかった。

 ほどなくして、人の流れの向こうから、俊輔が現れる。
 白いシャツにグレーのジャケット。いつもと変わらない、穏やかな笑み。
 その姿を見ただけで亜矢香は、心の中の迷いが、少しずつ溶けていくように感じた。

「お待たせしました」
「いえ。私が早く来ちゃったんです」

 互いに微笑み合い、近くのリストランテへと向かう。
 店内は夕食時で、席はほとんど埋まっていた。テラス席では、若い夫婦と小さな女の子が談笑しながら食事している。

 俊輔の視線がふとそちらに向かい、やわらかく細められる。

「……いいですね。あんなふうに、家族で笑いながら過ごせる時間って」

 その切なげな横顔に、前夜の言葉が重なる。

『でも、時々考えるんです……元の家族のままでいたなら、僕はどんなふうに大人になってたんだろうって』

 胸の内が、じんと熱くなった。

 美味しいイタリアンの香りが漂う中、しばらくは他愛ない会話が続く。
 仕事の話、昨日見た映画の話、最近読んだ本の話。

 けれど、亜矢香の心の奥ではずっと、言葉にならない想いがくすぶっていた。
 このまま穏やかに時間が過ぎてもいい気が、ほんの少しだけした。
 でも、それだけではやはり終われない。

「俊輔さん」

 デザートのタイミングで、亜矢香は俊輔に呼びかけた。彼がわずかに目を見開いて顔を上げる。
 胸の鼓動が速くなる。逃げ出したくなる気持ちを押さえ込み、息を整えた。

「今日はお話があるんです」
「ええ、そう言ってましたね。どうしました?」

 亜矢香はもう一度、静かに息を吸い込む。

「私、お試しとかじゃなくて、……本気で、俊輔さんが好きです」

 一気に吐き出した言葉が、その場の空気を震わせた。
 膝の上で握った手も震えている。恥ずかしさと緊張で視線を落としたまま、続けた。

「俊輔さんの過去も、背負ってきたものも、全部ひっくるめて……それでも一緒にいたいって思ってます。あなたの気持ちを、全部は理解できないかもしれない。でも、辛い時も、もちろん嬉しい時も、一番近くにいたいです」

 俊輔はしばしの間、何も言わなかった。

 コーヒーカップをソーサーに置く音が、やけに大きく響く。
 その沈黙の中、自分の心臓の音だけが、耳元に移動したかのようにはっきりと聞こえる。

 何分、経ったのだろう――ようやく、低く静かな声が返ってきた。

「そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもいませんでした」

 亜矢香がゆっくりと顔を上げると、彼の瞳に光がゆらめいていた。

「僕は、あなたに癒やされてばかりで……与えてあげられるものなんて何もないんじゃないかと思って、この頃は自信がなかったんです」
「そんなこと、ないです」

 亜矢香の口から、自然に言葉がこぼれる。

「俊輔さんが頑張ってる姿を見てると、私もちゃんと仕事しようって思える。……だから、私も支えたいんです」

 彼の声が、迷うように揺れた。

「支える、なんて。僕の方が、あなたに頼ってばかりなのに」
「頼ってください」

 反射的に、そう言い切っていた。

「強い人ほど、一人で抱え込んでしまうんです。でも、たまには甘えてもいいと思います。人間なんだから、ずっと一人ではいつか、頑張れなくなってしまいます」

 その瞬間、俊輔の表情がゆるやかに崩れる。
 苦笑のようでもあり、泣く寸前のようでもあった。

「……あなたには、敵いませんね」

 そう言って、小さく息を吐いた後、彼の伸ばした手がテーブルの上で、亜矢香の手を包み込んだ。 大きな手のひらは温かく、指先がかすかに震えている。

「ありがとう。あなたに会えて、本当によかった」

 その声は、亜矢香の心にまっすぐに届いた。

 前触れなく席を立った俊輔が、彼女の横にひざまずく。
 戸惑う間もなく、もう一度手を取られ、両手で包み込まれた。

 優しい温もりと、熱を帯びた視線を向けられて、頭の中が真っ白になる。
 低くささやくような、それでいてはっきりとした声で、俊輔は告げた。

「僕も、あなたが好きです。誰よりも」

 心臓が甘く鼓動を打ち、跳ねた。

 手の甲に俊輔の唇が触れた瞬間、これまで亜矢香の中でずっと抑えてきた感情が、一気に解き放たれていく。
 それは熱くもなく、激しくもなく、ただ確かに『この人が愛しい』と想う気持ち。
 亜矢香が二十六年の人生の中で、初めて認識した、深くあたたかな心だった。

 彼に手を握られたまま、亜矢香は息を整える。
 涙がひとすじ、頬をつたった。
 それでも、心の奥には不思議なほどの安らぎが広がっていた。


 ――もう、迷わない。
 彼を支えたいという感情が、恋と呼ぶ想いになったのだと、はっきりわかった。
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