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第三章
【第15話】恋人になれた夜
しおりを挟む駅までの道を歩きながら、二人の間に言葉はなかった。
告白の後、互いに何を言えばいいのか分からず、リストランテを出てからもただ静かに、並んで歩いていた。
けれど、その沈黙が不思議と心地よかった。
冷たい夜風が吹くたび、無意識のうちに、肩がかすかに触れ合う。
そのたび、胸の奥が温かくなる。
駅の手前で俊輔が立ち止まり、ふと夜空を見上げた。
「……このまま、もう少しだけ一緒にいてもいいですか」
亜矢香は小さく息を呑む。
ほんの少しの逡巡。だが、拒絶は一瞬も感じなかった。
うなずくと、彼の表情がほっと緩んだ。
大通りに出て捕まえたタクシーの中、窓の外で流れていく街の灯りを眺めながら、亜矢香は胸の鼓動を抑えきれずにいた。
隣に座る俊輔の肩越しに、わずかに感じる体温。
まだ何も起きていないのに、世界が少しずつ柔らかく溶けて、変わっていく気がした。
彼の部屋に入るのは、あの夜以来だった。
灯りは落とされ、窓から見える街のネオンだけが、室内をぼんやり照らしている。
サイドテーブルの上には、飲みかけのミネラルウォーターと、静かに時計の秒針が刻む音。
前よりも近い距離で、呼吸の音がはっきりと聞こえた。
ベッドに隣り合って腰かけ、手を重ね合う。
「緊張してますか」
俊輔が優しく笑いかける。
「……はい、少しだけ」
「そうですよね。……実は、僕もです」
「えっ」
「なんというか……相手があなただと思うと」
照れくさそうに目を細める仕草がやけに幼く、少年のように見えて、亜矢香は胸の奥が痛いほどに切なさを覚えた。
俊輔の顔が、静かにこちらへと近づいてくる。
彼の指先が、亜矢香の頬にかかる髪をそっと払う。
指先の温もりを感じたその瞬間、息が止まった。
唇が触れ合ったのは、ごく自然な流れだった。
軽く触れるだけの口づけが、もう一度、そしてもう一度とやわらかく重ねられる。
少しずつ深く、そして熱くなっていくたびに世界は静まり、相手の体温だけが確かに存在するもののように思えた。
俊輔の大きな手が、頬から首筋へと、ゆっくり滑らされていく。
熱を帯びた指が触れるたび、肌のその場所にかすかな痕が残されるようだった。
離れがたいように、唇が何度となく触れ合い、重なる。
「……嫌じゃありませんか」
「嫌なわけ、ないです」
俊輔の吐息のような質問に答えながら、亜矢香は胸の奥を震わせる。
彼の視線が、この上なく真剣に自分を見つめていた。
そこには、欲望以上に、確かな想いの熱が宿っていた。
視線が絡んだままで、俊輔が小さくささやく。
「あなたを抱きしめてもいいですか」
切望を込めたその言葉が、胸の奥に温かく溶けていく。
亜矢香は、ただ静かにうなずいた。
俊輔がそっと、亜矢香の背中に腕を回して抱き寄せる。
心臓の鼓動がぶつかり合うほどに、ぴったりと身体同士が密着する。
背中に添えられた手のひらが、安心と同時に、抗いがたい熱を生み出していく。
彼の唇が首筋をたどり、その指先が肩をなぞった瞬間、亜矢香の周りから世界がふっと遠のいた。
力強い腕の中で、時間の流れが今だけ、ゆるやかになったように感じられる。
俊輔のひとつひとつの動きは、慎重に確かめるような速度であり、気遣いにあふれて優しかった。
二人の息が触れ合う。
互いの鼓動の音が、耳奥で混ざる。
俊輔の手が亜矢香の頬を包み、もう一度、深く唇が重ねられる。
そのキスに、言葉はいらなかった。
これまで抑えてきた感情がどこまでも溶け合い、ひとつになっていくのを、心と身体で感じていた。
長い指が亜矢香の髪をほどき、額に触れるだけのキスを落とす。
彼の動作のたびに、胸の奥が甘くしびれて疼く。
心から湧き上がる想いが、彼の手に導かれるかのように、身体の隅々まで染みわたっていく。
――こんなふうに誰かを愛しいと思う日が来るなんて。
彼の名を呼んだ亜矢香の声は、静かな部屋の闇に溶ける。
その声に応えるように、俊輔が抱き寄せる腕の力を強めた。
お互いの体温が溶け合うように混ざり、呼吸と肌が重なっていく。
……やがて、静かな熱を身体の奥に感じた時。
亜矢香の視界は少し揺れ、涙が頬をつたった。
窓の外のネオンさえも遠のき、部屋が二人だけの世界に変わる。
そこに言葉は必要なく、ただお互いの想いが熱を帯び、深く混ざり合っていた。
温もりと熱に満ちた長い夜の途中で、亜矢香は俊輔の胸に顔を埋めた。
彼の鼓動が耳元で静かに、規則正しく響く。
ゆっくりと整っていく呼吸のリズムに合わせて、心も徐々に落ち着いていった。
「……ありがとう」
俊輔が小さく、つぶやくように言った。
「あなたに出会えて、本当によかった」
「――私もです」
亜矢香がそう応じた後、再び静寂が落ちる。
それは重い沈黙ではなく、互いが満たされたゆえの静けさだった。
相手の温もりを確かめながら、二人は指先を絡める。
その小さな仕草が今は、永遠の約束のように感じられた。
短い眠りを覚ますように、夜がゆっくりと明けていく。
先に覚醒した亜矢香は、目を閉じる俊輔の顔をそっと見上げる。
カーテンの隙間から差し込む、朝の淡い光が、彼の頬を照らした。
その表情は穏やかで、どこか解き放たれたように見えた。
俊輔が目を開け、微笑みかける。
「おはようございます」
「おはようございます……」
少しかすれた声で返すと、彼は優しく髪を撫でた。
「これからも、君を大切にしていきたい」
まっすぐな言葉が、朝の光のように胸の奥に沁みた。
――恋人になれた夜。
それは二人にとって「過去」を乗り越え、「未来」を信じるための、始まりの時間でもあった。
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