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第四章
【第16話】恋人と社会のはざまで
しおりを挟む俊輔の部屋で一夜を過ごしてから、まだ数日しか経っていない。
だが亜矢香の目に映る世界は、すっかり色を変えてしまったようだった。
あの朝に目覚めた時に見た、彼の眠そうな横顔。
眠気まじりに髪を撫でてくれた指。
別れ際、電車の中で何度もつないだ手のぬくもり。
それらのひとつひとつが、まるで夢の出来事のようで、それでいて確かに現実だった。
目を閉じればすぐに思い出せる――彼に与えられた温かな優しさが、心の奥に静かに灯っている。
出勤途中にすれ違う通勤客のざわめきも、カフェのエスプレッソマシンの音も以前と同じなのに、亜矢香の耳にはどこか違って聞こえた。
胸の奥で、ひそかに「恋人」という言葉の、そして存在の重みを知ってしまったから――かもしれない。
これまで生きてきた「亜矢香」とは、違う自分になっている。
その事実が、決して嫌ではなかった。むしろ感じるすべてが新鮮で、隅々の細胞にまで気力が行き渡っているようだった。
なのに――現実は容赦なく、心を日常へと引き戻し、現実を突きつけてくる。
「ねえ、桜田さん。ちょっと噂になってるけど……」
数日後の勤務中。
そう声をかけてきたのは、一緒にシフトに入っていた三好だった。
休憩中に、不自然なほど慎重な口調で、それでいて確信を込めた視線を向けてくる。
コーヒーの香りが満ちる狭い休憩室の中、その一言が重く響いた。
「副社長さんと……その、桜田さんが特別な関係なんじゃないかって」
「……え?」
飲みかけの紙コップを置いた手が、震えた。
「そんなはずない、った最初は思ってたけど、このところ週に何度も来てるでしょ? しかも最近、他のスタッフとはほとんど喋ってないのに、桜田さんとだけはやたら親しげだし」
「……っ……」
血の気が引くような感覚。まさか、そんなふうに見られているだなんて。
心臓の鼓動が速くなり、紙コップの表面を指が滑った。
俊輔はいつも自然な態度だった――と思う。
けれど、来店頻度が高くなっているのも、来るたびに亜矢香と何かしら言葉を交わしているのも事実だ。
加えて自分が、……もしかしたら表情や声に、抑えきれない何かをにじませていたかもしれない。普通に振る舞っているつもりだったけど、俊輔の来店時、浮かれた気持ちを感じずにいられたかと聞かれれば、そうとは言い切れないから。
顔を青ざめさせた亜矢香に、三好は気遣うようにこう言った。
「ごめんね、悪く言うつもりはなかったの。ただ……あの人、副社長さんだから。もし万が一何かあったら、あなたの方が立場的に大変だと思って」
「……ありがとうございます」
震える声でそう返すのが精一杯だった。
優しさに包まれた時間の後に、急に現実を思い知らされる。
――こんなにも簡単に、日常の空気が変わってしまうなんて。
勤務中、注文を取りながらも亜矢香は心ここにあらずの状態だった。
俊輔が来るかもしれない――と思うたび、胸がざわめく。
けれど、今日はいっこうに姿を見せず、メールも来なかった。
その静けさが逆に、不安を増幅させた。
――彼も、何かを感じ取っているのかもしれない。
俊輔は鋭い人だ。こんな噂が出ていることに気づけば、きっと、亜矢香を守ろうとあえて距離を取る。そうするに違いない。
仕方のないこと。そう考えようとすればするほど、胸の奥がちくりと痛んだ。
夜、閉店作業を終えて店を出ると、冷たい風が頬をかすめた。
そのタイミングでスマートフォンが、アプリの通知音を鳴らす。
画面には新着メッセージがひとつ。
差出人の「俊輔」の文字を見た瞬間、亜矢香の心を占めていた不安が、わずかに和らいだ。
【今から、少しだけ会える?】
逸る指で返信を打つ。
【はい、大丈夫です】
【じゃあ、店の前にいて。すぐ行くから】
指示通り、店舗前の道に立っていると、ほどなく俊輔が、向かい筋の路地から姿を見せた。
ダークスーツの上に黒いコートを羽織り、街灯の光に照らされた姿は、夜の闇に溶けてしまいそうな儚さがあった。
「すまない、急に呼び出してしまって」
「いえ……来てくれて、嬉しいです」
彼の声を聞いただけで、胸の内が温かくなる。
けれど亜矢香は、次に言おうとした言葉を飲み込んだ。
自分たちのことがスタッフの間で噂になっている。そんな現実を伝える勇気が、まだ出なかった。
俊輔が歩み寄り、ほんの少しだけ距離を詰める。
「この数日、顔を見られなかったから。……忙しいのかと思ってた。大丈夫?」
静かで、穏やかな声。
亜矢香は唇を噛みしめて、かろうじて笑みを作る。
「大丈夫です。ただ……少し、考えていました」
「何を?」
「私たちのこと、どうすればいいのかなって」
しばしの静寂。
その沈黙で、彼が噂について聞きつけていることを、亜矢香は察した。
だが俊輔はそれには触れず、カバンを持つ拳を握りしめるような仕草をした。
「焦らなくていい。何があっても、俺は君を大切にする」
その冷静な声音が、逆に、亜矢香の胸を締めつける。
「ありがとうございます」
彼に守られることは嬉しい。
けれど、それだけでは駄目だ。
この関係を「守る」ためには、亜矢香自身も、何かを為さなければいけない。
手を取られて持ち上げられ、俊輔はそっと唇を触れさせた。
見上げた夜空には、雲間から月が覗いている。
その光が、二人の影を淡く重ねた。
――この手を離さないために、もっと強くならなければ。
亜矢香の胸の奥に、そんな小さな決意が芽生えた。
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