その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

文字の大きさ
17 / 27
第四章

【第16話】恋人と社会のはざまで

しおりを挟む


 俊輔の部屋で一夜を過ごしてから、まだ数日しか経っていない。
 だが亜矢香の目に映る世界は、すっかり色を変えてしまったようだった。

 あの朝に目覚めた時に見た、彼の眠そうな横顔。
 眠気まじりに髪を撫でてくれた指。
 別れ際、電車の中で何度もつないだ手のぬくもり。

 それらのひとつひとつが、まるで夢の出来事のようで、それでいて確かに現実だった。
 目を閉じればすぐに思い出せる――彼に与えられた温かな優しさが、心の奥に静かに灯っている。

 出勤途中にすれ違う通勤客のざわめきも、カフェのエスプレッソマシンの音も以前と同じなのに、亜矢香の耳にはどこか違って聞こえた。

 胸の奥で、ひそかに「恋人」という言葉の、そして存在の重みを知ってしまったから――かもしれない。
 これまで生きてきた「亜矢香」とは、違う自分になっている。
 その事実が、決して嫌ではなかった。むしろ感じるすべてが新鮮で、隅々の細胞にまで気力が行き渡っているようだった。


 なのに――現実は容赦なく、心を日常へと引き戻し、現実を突きつけてくる。

「ねえ、桜田さん。ちょっと噂になってるけど……」

 数日後の勤務中。
 そう声をかけてきたのは、一緒にシフトに入っていた三好だった。

 休憩中に、不自然なほど慎重な口調で、それでいて確信を込めた視線を向けてくる。
 コーヒーの香りが満ちる狭い休憩室の中、その一言が重く響いた。

「副社長さんと……その、桜田さんが特別な関係なんじゃないかって」
「……え?」
 飲みかけの紙コップを置いた手が、震えた。

「そんなはずない、った最初は思ってたけど、このところ週に何度も来てるでしょ? しかも最近、他のスタッフとはほとんど喋ってないのに、桜田さんとだけはやたら親しげだし」
「……っ……」

 血の気が引くような感覚。まさか、そんなふうに見られているだなんて。
 心臓の鼓動が速くなり、紙コップの表面を指が滑った。

 俊輔はいつも自然な態度だった――と思う。
 けれど、来店頻度が高くなっているのも、来るたびに亜矢香と何かしら言葉を交わしているのも事実だ。

 加えて自分が、……もしかしたら表情や声に、抑えきれない何かをにじませていたかもしれない。普通に振る舞っているつもりだったけど、俊輔の来店時、浮かれた気持ちを感じずにいられたかと聞かれれば、そうとは言い切れないから。

 顔を青ざめさせた亜矢香に、三好は気遣うようにこう言った。

「ごめんね、悪く言うつもりはなかったの。ただ……あの人、副社長さんだから。もし万が一何かあったら、あなたの方が立場的に大変だと思って」
「……ありがとうございます」

 震える声でそう返すのが精一杯だった。
 優しさに包まれた時間の後に、急に現実を思い知らされる。

 ――こんなにも簡単に、日常の空気が変わってしまうなんて。


 勤務中、注文を取りながらも亜矢香は心ここにあらずの状態だった。
 俊輔が来るかもしれない――と思うたび、胸がざわめく。

 けれど、今日はいっこうに姿を見せず、メールも来なかった。
 その静けさが逆に、不安を増幅させた。 

 ――彼も、何かを感じ取っているのかもしれない。

 俊輔は鋭い人だ。こんな噂が出ていることに気づけば、きっと、亜矢香を守ろうとあえて距離を取る。そうするに違いない。
 仕方のないこと。そう考えようとすればするほど、胸の奥がちくりと痛んだ。


 夜、閉店作業を終えて店を出ると、冷たい風が頬をかすめた。

 そのタイミングでスマートフォンが、アプリの通知音を鳴らす。
 画面には新着メッセージがひとつ。
 差出人の「俊輔」の文字を見た瞬間、亜矢香の心を占めていた不安が、わずかに和らいだ。

【今から、少しだけ会える?】

 逸る指で返信を打つ。

【はい、大丈夫です】
【じゃあ、店の前にいて。すぐ行くから】

 指示通り、店舗前の道に立っていると、ほどなく俊輔が、向かい筋の路地から姿を見せた。
 ダークスーツの上に黒いコートを羽織り、街灯の光に照らされた姿は、夜の闇に溶けてしまいそうな儚さがあった。

「すまない、急に呼び出してしまって」
「いえ……来てくれて、嬉しいです」

 彼の声を聞いただけで、胸の内が温かくなる。

 けれど亜矢香は、次に言おうとした言葉を飲み込んだ。
 自分たちのことがスタッフの間で噂になっている。そんな現実を伝える勇気が、まだ出なかった。

 俊輔が歩み寄り、ほんの少しだけ距離を詰める。

「この数日、顔を見られなかったから。……忙しいのかと思ってた。大丈夫?」

 静かで、穏やかな声。
 亜矢香は唇を噛みしめて、かろうじて笑みを作る。

「大丈夫です。ただ……少し、考えていました」
「何を?」
「私たちのこと、どうすればいいのかなって」

 しばしの静寂。
 その沈黙で、彼が噂について聞きつけていることを、亜矢香は察した。

 だが俊輔はそれには触れず、カバンを持つ拳を握りしめるような仕草をした。

「焦らなくていい。何があっても、俺は君を大切にする」

 その冷静な声音が、逆に、亜矢香の胸を締めつける。

「ありがとうございます」

 彼に守られることは嬉しい。
 けれど、それだけでは駄目だ。

 この関係を「守る」ためには、亜矢香自身も、何かを為さなければいけない。

 手を取られて持ち上げられ、俊輔はそっと唇を触れさせた。
 見上げた夜空には、雲間から月が覗いている。
 その光が、二人の影を淡く重ねた。


 ――この手を離さないために、もっと強くならなければ。
 亜矢香の胸の奥に、そんな小さな決意が芽生えた。
しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

腹違いの弟くんの執着

ひぽたま
恋愛
あかね(29才)は医局勤めの新人女医。 とある理由があってど田舎の診療所に派遣を申し出るが、到着したその家には「とある理由」である腹違いの弟、葵くんがすでに到着していた! あかねは元々葵の家庭教師だったが、葵はあかねにベタ惚れ。あかねも葵を可愛がっていたのだが、お互いの両親の無責任から二人は腹違いの姉弟だとわかり、そこから葵の暴走が始まった。 常に逃げ腰のあかねに、追う葵。 葵の大学卒業を期にこっそり距離をおくつもりだったあかねを、なんと葵は就職も蹴って追いかけてきたのだった。 場所はど田舎。知り合いもいなければ逃げ込む先もない診療所兼住居で葵は堂々と宣言する。 「ここなら僕たち、夫婦として暮らせるよね」 冗談じゃない!が、患者さんを放り出して逃げるわけにもいかない。 かくしてあかね先生と葵くんの倫理をかけた駆け引きがはじまるのだったーー。

数合わせから始まる俺様の独占欲

日矩 凛太郎
恋愛
アラサーで仕事一筋、恋愛経験ほぼゼロの浅見結(あさみゆい)。 見た目は地味で控えめ、社内では「婚期遅れのお局」と陰口を叩かれながらも、仕事だけは誰にも負けないと自負していた。 そんな彼女が、ある日突然「合コンに来てよ!」と同僚の女性たちに誘われる。 正直乗り気ではなかったが、数合わせのためと割り切って参加することに。 しかし、その場で出会ったのは、俺様気質で圧倒的な存在感を放つイケメン男性。 彼は浅見をただの数合わせとしてではなく、特別な存在として猛烈にアプローチしてくる。 仕事と恋愛、どちらも慣れていない彼女が、戸惑いながらも少しずつ心を開いていく様子を描いた、アラサー女子のリアルな恋愛模様と成長の物語。

イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。

楠ノ木雫
恋愛
 蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……

年下研修医の極甘蜜愛

虹色すかい
恋愛
医局秘書として市内の病院に勤務する廣崎彩27歳。普段はスマートに仕事をこなすクールな彼女だが、定期的にやって来る「眠れない夜」に苦しんでいる。 そんな彩に、5年越しの思いを寄せる3歳年下の藤崎仁寿。人当たりがよくて優しくて。仔犬のように人懐っこい笑顔がかわいい彼は、柔和な見た目とは裏腹に超ポジティブで鋼のような心を持つ臨床研修医だ。 病気や過去の経験から恋愛に積極的になれないワケありOLとユーモラスで心優しい研修医の、あたたかくてちょっと笑えるラブストーリー。 仁寿の包み込むような優しさが、傷ついた彩の心を癒していく――。 シリアスがシリアスにならないのは、多分、朗らかで元気な藤崎先生のおかげ♡ ***************************** ※他サイトでも同タイトルで公開しています。

Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜

yuzu
恋愛
 人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて…… 「オレを好きになるまで離してやんない。」

処理中です...