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第四章
【第19話】離れても、愛は消えない
しおりを挟むその週末、亜矢香は俊輔としばらくぶりに会った。
亜矢香の希望で、よく行く駅前のカフェではなく、少し離れた静かな街のベーカリーレストランでの昼食。しばらく前に雑誌で紹介されていた店だ。
レンガ造りの外観が温かい雰囲気を醸し出し、奥まった半個室の席は、店の外や他の客からの視線を遮ってくれていた。
店内は、パンが焼ける時に漂わせる香ばしい匂いで満ちている。
バターと小麦が混ざった温もりのある香りに包まれていると、張り詰めていた心が少しずつ、ほどけていく気がした。
「連絡、控えてたけど……辛くなかった?」
パン皿とドリンクを挟んで向かい合う俊輔は、いつもと変わらない穏やかな声で、そう尋ねてきた。
亜矢香は少しだけ逡巡して、本音を答えることにする。
「……正直に言うと、ちょっとだけ寂しかったです。でも、自分でいろいろ考える時間が必要でしたから」
俊輔は、それ以上は何も聞かずに、ただ静かにうなずいた。
彼が、亜矢香の今の状況を耳にしていないはずがない。だが、詮索は一切せず、急かしたりもしてこない。
その、大人の優しさが胸に沁みて、亜矢香は少し目を伏せた。
「この数日、いろんなことがありました。……職場のことも、異動の件も」
「うん」
「だから……自分がどこに立っていたいのか、なおさら考えたくなって」
焼きたてのクロワッサンを割ると、ぱりっとした音が小さく響いた。
ほのかに湯気を立てる断面を見つめながら、亜矢香は意を決して言葉にする。
「私、今のままじゃきっと、駄目なんだなって思って……転職しようかな、と考えてます」
そこで、俊輔の手が止まった。
切り分ける途中だったパンと手が宙で揺れ、ゆっくり皿に戻される。
「……Cafeワイズ、辞めるってこと?」
「はい。周りの見方とかも気になりますけど、それ以上に……自分で選びたいなって思ったんです。守られる立場にいるだけじゃなくて、自分の足で立ちたくて」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
店の奥で子ども連れの家族が笑っている声が聞こえ、その明るい響きが、静けさの重みをやわらげる。
そして。
「正直、君が店を辞めると寂しい」
彼の言葉は、意外なほど率直で、素直だった。
「でも、すごく嬉しいな」
「え?」
「誰かに依存するばかりじゃなくて、自分で人生を歩もうとする人は、好感が持てる。君がそういうふうに考えてくれて、すごく誇らしく思うよ」
目が熱くなった。
その言葉は、彼がいつも向けてくれた優しさとは少し違う。
亜矢香という個人を、ひとりの人間として尊重し、誇りに思ってくれている――そんな響きがあった。
「俊輔さん……」
涙がこぼれそうになって、慌ててまばたきを繰り返す。
「亜矢香さんは強い人だよ。自分では気づいてないかもしれないけど」
「……強くなんか、ないです」
「いや、強いよ。不安に思いながらも、ちゃんと自分で将来を選ぼうとしている。そういうところがすごく好きだ」
――どうしてこの人は、こんなにもまっすぐな言葉をくれるのだろう。
胸にゆっくりと落ちていくその声音が、寂しさも不安も、静かに包んでくれる。
「……しばらく、会わないでいるのがいいかもしれません」
自分の声が、少し震えているのがわかった。
「うん」
「でも、連絡は……しても、いいですか?」
俊輔はやわらかく、優しく笑った。
「もちろん。君からの連絡なら、いつでも嬉しい」
彼の笑顔は、どこまでも亜矢香を包み込むように温かかった。
距離がこれほどに近いにもかかわらず、手を伸ばすことはしない。
触れないままの距離感が、今はかえって安心できる。そんな気がしていた。
レストランを出ると、空はすっかり濃紺色になっていた。
街灯がぽつぽつと並び、歩くたびに互いの影が並んで揺れる。
駅までの道を並んで歩きながら話す声はどちらもいつもより低く、落ち着いていた。
近すぎず、遠すぎず。
恋人同士にしては曖昧な距離が、不思議と心地よかった。
手はつないでいない。けれど、二人の歩幅は自然とそろっていた。
ホームに入ってきた電車の風が、通路を通り抜け、余韻が髪を軽く揺らす。
電車に乗り込む直前、亜矢香は振り返った。
俊輔が、目を逸らすことなくこちらを見つめていた。
「焦らずに。待ってるから」
その言葉に胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……ありがとう」
亜矢香が頭を下げると同時に、扉が閉まり、電車がゆっくりと動き出す。
窓越しに見える俊輔の姿は、少しずつ小さくなっていくのに、なぜだか距離を感じなかった。
むしろ強く結びつくような、確かな温もりが心の中にあった。
――離れても、愛は消えない。
きっとこの時間は、二人がさらに、強くなるためのものだ。
車窓に流れゆく夜景を眺めながら、亜矢香はそっと胸に手のひらを当てた。
そこに息づく温かさを、もう一度確かめるように。
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