その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

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第四章

【第18話】守られるだけの私ではなく

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「桜田さん。お話があるので、終わったら少しお時間ください」

 その日のシフト終了間際。
 店長からそう声をかけられた時、亜矢香は胸の内で小さく波が立つのを感じた。
 嫌な予感というか、覚悟が定まるというか――もしくは、どちらともつかないざわめき。

 レジを次の人と交替して、バックヤードの奥にある小さな事務所のドアを開ける。パイプ椅子に座る店長の隣には、何度か見かけたことのある人物――本社から来たエリアマネージャーの男性がいた。
 その配置だけで、話される事柄の重みが伝わってくる。

「座ってください」
「はい」

 亜矢香が向かいの位置に座ると、エリアマネージャーは開口一番、こう切り出した。

「実は本社内で、桜田さんの評価について一部から、少々意見が出ておりまして」
「……はい」

 エリアマネージャーは書類を手にしたまま、淡々と言葉を続ける。

「先日まで、あなたの働きぶりを見込んで、別店舗への異動の話が進んでいたのですが。その件はしばらく、保留とさせていただくことになりました」

 やっぱり――
 その言葉を喉の奥で飲み込みながら、視線を落とす。

「保留」という言葉の曖昧さが、かえって残酷に聞こえた。
 異動自体を望んでいたわけではない。けれど、働きぶりで評価される、という当たり前の事象が別の理由でねじ曲がる現実。
 初めて実感したそれは、想像していたよりもずっと、息苦しくて窮屈だった。

「申し上げておきますと、桜田さん自身の理由ではありません。ただ、その……タイミングの問題でして」

 エリアマネージャーの隣で肩を縮こめる店長の表情は、明らかに気まずそうであり、どこか申し訳なさを含んでもいた。
 それが逆に、胸を深く刺した。

「……承知しました。わざわざのご説明、ありがとうございます」

 詳しく聞く勇気は出せなかった。
 俊輔に関して言及されでもしたら、何かが崩れてしまうかもしれない。殺伐とした予感が胸から離れず、亜矢香はただ頭を下げるしかなかった。


 通用口から店を出ると、夜風が頬に触れて一瞬ひんやりと感じた。
 昼間のざわつく空気とは違い、街は静かな闇に包まれ、少し離れた大通りから聞こえる車の音が規則的に響いている。

 歩き出した亜矢香は、しかしすぐに立ち止まり、深く息を吸い込んだ。

 ――どうしてこんなふうになってしまったんだろう。

 俊輔と過ごした夜は、穏やかな優しさで満ちていた。
 彼の腕の中で、あの人の不器用な愛情に触れた時、世界はもっと明るいものに思えた。

 けれど現実は、そんな小さな幻想など、簡単に打ち砕いてしまう。

 亜矢香はしばらく歩いてから、もう一度立ち止まり、鞄からスマートフォンを取り出した。
 操作する指が震えているのは、冷える空気のせいだけではなかった。

 検索からたどって、名の通った求人サイトを開く。
「正社員登用あり」「キャリアアップ制度」といった文字が並ぶ画面を、一件一件確かめながらスクロールしていく。

 すぐに辞めるつもりではない。
 だが、考えておかなければならないとは思った。

『今の自分が立っている場所に頼らずに、もっと自分の力で歩けるようになりたい』

 そんな思いが、心の奥で静かにふくらんできていたからだ。

 俊輔を知るまで、彼のような人が生きる世界は、自分とは関係のない場所だと思っていた。
 あくせくと働くばかりの自分は、高い位置にいる俊輔には釣り合わないと、今でもくすぶる思いは片隅にあった。

 けれど。

 これまで俊輔が与えてくれた優しさが、胸に灯をともしてくれている。
 言えば、彼は亜矢香を守ってくれるだろう。だが、それだけでは足りないのだ。

 ――あの人の隣に、胸を張って立てるようになりたい。

 ずっと前から心で眠っていた「変わりたい」という願いが、今、ゆっくりと浮かび上がる。


 駅のホームで電車を待つ間に、ふとスマートフォンが震えた。
 画面に表示されたのは、俊輔からのメッセージ。

『今日は冷えるね。無理はしてない?』

 その短い言葉に、目の奥がじんわり熱くなる。
 彼はいつも、状況を察してくれて、強引に踏み込んではこない。
 けれど、必要な時には必ずそばにいてくれる。その優しさが自分を支えてきた。

 ――だからこそ、逃げたくない。

 電車がホームに滑り込み、その風に髪を揺らしながら、亜矢香は返信の画面を開いた。
 少し迷ってから、ゆっくり文字を打つ。

『ありがとう。大丈夫です。私、ちゃんと自分の道を考えようと思います』

 送信した後、胸に温かいものが広がった。
 ほんの少しだけ、背筋が伸びる。

 ――もう、守られるだけの私じゃいたくない。

 俊輔を想う気持ちが、優しいだけの感情ではなく、力にも変わっていくのを感じていた。
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