8 / 11
08.求婚
しおりを挟む
ベルモント大公家の領地に足を踏み入れたとき、クラリーヌの胸には、明確な決意があった。
誰かに救われるためでも、庇護を求めるためでもない。
ここで働き、自分の手で、もう一度立ち上がる──それだけを信じて、この地へ来たのだ。
「無理のない範囲で、手伝っていただけることがあればと。……ジュリアンさまからの伝言です」
そう伝えたのは、大公家の女官長だった。
過去の肩書きも事情も、詮索されなかった。ただ「働く意思」をきちんと受け止めてくれたことが、何より嬉しかった。
最初に任されたのは、文書の整理と記録の書き写し。
小さな机と控えめな席からの再出発だったが、クラリーヌは与えられた仕事に誠実に向き合った。
やがて、屋敷内でささやかに名が広まっていった。
「記録が整って、確認が楽になった」
「彼女に通すと、文面の不備がなくなる」
「あの方の対応は丁寧で品がある」
褒め言葉のために働いているわけではなかった。
けれど、その言葉たちは、かつて誰からも求められなかった自分が──今はここにいてもいいと認められている証のように思えた。
そんなある日のこと。
夕方の回廊で報告書を抱えていたクラリーヌの前に、ふいに湯気の立つカップが差し出された。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのはジュリアンだった。
「冷える廊下で、長く立ち仕事をされていたでしょう。温かいものを。……ミントとシナモン、どちらもお好きでしたよね」
彼の声はあくまで穏やかで、控えめだった。
特別な言葉はなくとも、そのさりげない気遣いが胸に染みる。
クラリーヌは静かに礼を述べてカップを受け取った。
手のひらに広がるぬくもりが、身体の芯まで届くようだ。
その日を境に、ジュリアンはときおり、何かの折にクラリーヌの前に現れた。
過干渉ではなく、ただ必要なときに必要な分だけ寄り添う姿勢に、クラリーヌの心も少しずつ開かれていった。
与えられた居場所ではなく、自分で築いた場所。
その実感が、静かにクラリーヌの中に根づいていった。
春の気配が色濃くなりはじめた頃、クラリーヌは南庭に呼び出された。
咲き始めたばかりの白い花が風に揺れるその場所に、ジュリアンは立っていた。
「お疲れさまです。……少し、お時間をいただけますか」
彼は変わらず穏やかな声でそう言い、クラリーヌが頷くのを見届けてから、一拍の静寂の後に続けた。
「そろそろ、名乗らせていただいてもよいでしょうか。私は、ベルモント大公家の第三公子──ジュリアン・ベルモントです。修行の一環で身分を伏せ、王城で騎士として勤めておりました」
クラリーヌは、驚きに息を呑んだ。
けれど、混乱や怒りはなかった。
思い返せば、彼の立ち居振る舞いは常に落ち着いていて、誰よりも周囲に気を配り、過剰に何かを主張することがなかった。
──ああ、やっぱり。
それが、クラリーヌの胸に浮かんだ正直な感想だった。
ジュリアンは、咲き始めた白い花の向こうで、しばし迷うように目を伏せた。
そして意を決したように、まっすぐクラリーヌを見つめる。
「……あなたの姿を見て、私は何度も心を打たれてきました」
その声音は、静かで、けれどひとつひとつの言葉が深く胸に響いた。
「自分の立場を嘆くことなく、与えられた仕事に黙々と向き合い、誰かのために、見返りも求めず力を尽くすその姿を、私はずっと見てきました。あなたが誰よりも真摯で、誠実な人であることを……ずっと」
ジュリアンは、少しだけ息をつくと、穏やかな笑みを浮かべた。
「私は、そんなあなたの人柄に、そして背筋を伸ばして歩こうとする強さに、心から惹かれました。地位でも立場でもなく、あなたという人そのものに──」
彼は一歩、クラリーヌの前に進み出る。
春の風が静かに吹き抜ける中、真っすぐに言葉を重ねた。
「──クラリーヌ・ラシャンブル嬢。どうか、これからの人生を、私と共に歩んでいただけませんか?」
その言葉には、飾りも虚勢もなかった。
ただ、彼女を一人の人間として大切にしたいという、誠意だけが宿っている。
クラリーヌは、その言葉を胸にしっかりと受け止めた。
過去に投げかけられた薄っぺらい気遣いとはまるで違う、本当に行動で示し、さりげなく寄り添ってくれた人の声だった。
「……あなたが、私のことをそう見ていてくれたなんて、驚きです。でも、嬉しい。……この地で、ようやく自分の価値を信じられるようになったのは、あなたのおかげです」
胸の奥に積もっていた迷いや不安が、風に溶けていくようだった。
「あなたは、口先ではなく、行動で示してくれました。私の弱さも、努力も、ちゃんと見てくれた。……そんな人は、他に誰もいなかった」
クラリーヌはそっと微笑み、真っすぐにジュリアンを見返す。
「はい。……私も、あなたとなら前を向いていけます。あなたとなら──心からそう思えるんです」
ようやく見つけた、自分の足で立てる場所。
誰にも否定されず、ただ在ることを認めてくれる人と、並んで歩ける未来。
クラリーヌの瞳には、確かな光が宿っていた。
それは、春の陽射しよりもあたたかく、迷いのない輝きだった。
誰かに救われるためでも、庇護を求めるためでもない。
ここで働き、自分の手で、もう一度立ち上がる──それだけを信じて、この地へ来たのだ。
「無理のない範囲で、手伝っていただけることがあればと。……ジュリアンさまからの伝言です」
そう伝えたのは、大公家の女官長だった。
過去の肩書きも事情も、詮索されなかった。ただ「働く意思」をきちんと受け止めてくれたことが、何より嬉しかった。
最初に任されたのは、文書の整理と記録の書き写し。
小さな机と控えめな席からの再出発だったが、クラリーヌは与えられた仕事に誠実に向き合った。
やがて、屋敷内でささやかに名が広まっていった。
「記録が整って、確認が楽になった」
「彼女に通すと、文面の不備がなくなる」
「あの方の対応は丁寧で品がある」
褒め言葉のために働いているわけではなかった。
けれど、その言葉たちは、かつて誰からも求められなかった自分が──今はここにいてもいいと認められている証のように思えた。
そんなある日のこと。
夕方の回廊で報告書を抱えていたクラリーヌの前に、ふいに湯気の立つカップが差し出された。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのはジュリアンだった。
「冷える廊下で、長く立ち仕事をされていたでしょう。温かいものを。……ミントとシナモン、どちらもお好きでしたよね」
彼の声はあくまで穏やかで、控えめだった。
特別な言葉はなくとも、そのさりげない気遣いが胸に染みる。
クラリーヌは静かに礼を述べてカップを受け取った。
手のひらに広がるぬくもりが、身体の芯まで届くようだ。
その日を境に、ジュリアンはときおり、何かの折にクラリーヌの前に現れた。
過干渉ではなく、ただ必要なときに必要な分だけ寄り添う姿勢に、クラリーヌの心も少しずつ開かれていった。
与えられた居場所ではなく、自分で築いた場所。
その実感が、静かにクラリーヌの中に根づいていった。
春の気配が色濃くなりはじめた頃、クラリーヌは南庭に呼び出された。
咲き始めたばかりの白い花が風に揺れるその場所に、ジュリアンは立っていた。
「お疲れさまです。……少し、お時間をいただけますか」
彼は変わらず穏やかな声でそう言い、クラリーヌが頷くのを見届けてから、一拍の静寂の後に続けた。
「そろそろ、名乗らせていただいてもよいでしょうか。私は、ベルモント大公家の第三公子──ジュリアン・ベルモントです。修行の一環で身分を伏せ、王城で騎士として勤めておりました」
クラリーヌは、驚きに息を呑んだ。
けれど、混乱や怒りはなかった。
思い返せば、彼の立ち居振る舞いは常に落ち着いていて、誰よりも周囲に気を配り、過剰に何かを主張することがなかった。
──ああ、やっぱり。
それが、クラリーヌの胸に浮かんだ正直な感想だった。
ジュリアンは、咲き始めた白い花の向こうで、しばし迷うように目を伏せた。
そして意を決したように、まっすぐクラリーヌを見つめる。
「……あなたの姿を見て、私は何度も心を打たれてきました」
その声音は、静かで、けれどひとつひとつの言葉が深く胸に響いた。
「自分の立場を嘆くことなく、与えられた仕事に黙々と向き合い、誰かのために、見返りも求めず力を尽くすその姿を、私はずっと見てきました。あなたが誰よりも真摯で、誠実な人であることを……ずっと」
ジュリアンは、少しだけ息をつくと、穏やかな笑みを浮かべた。
「私は、そんなあなたの人柄に、そして背筋を伸ばして歩こうとする強さに、心から惹かれました。地位でも立場でもなく、あなたという人そのものに──」
彼は一歩、クラリーヌの前に進み出る。
春の風が静かに吹き抜ける中、真っすぐに言葉を重ねた。
「──クラリーヌ・ラシャンブル嬢。どうか、これからの人生を、私と共に歩んでいただけませんか?」
その言葉には、飾りも虚勢もなかった。
ただ、彼女を一人の人間として大切にしたいという、誠意だけが宿っている。
クラリーヌは、その言葉を胸にしっかりと受け止めた。
過去に投げかけられた薄っぺらい気遣いとはまるで違う、本当に行動で示し、さりげなく寄り添ってくれた人の声だった。
「……あなたが、私のことをそう見ていてくれたなんて、驚きです。でも、嬉しい。……この地で、ようやく自分の価値を信じられるようになったのは、あなたのおかげです」
胸の奥に積もっていた迷いや不安が、風に溶けていくようだった。
「あなたは、口先ではなく、行動で示してくれました。私の弱さも、努力も、ちゃんと見てくれた。……そんな人は、他に誰もいなかった」
クラリーヌはそっと微笑み、真っすぐにジュリアンを見返す。
「はい。……私も、あなたとなら前を向いていけます。あなたとなら──心からそう思えるんです」
ようやく見つけた、自分の足で立てる場所。
誰にも否定されず、ただ在ることを認めてくれる人と、並んで歩ける未来。
クラリーヌの瞳には、確かな光が宿っていた。
それは、春の陽射しよりもあたたかく、迷いのない輝きだった。
684
あなたにおすすめの小説
完結 女性に興味が無い侯爵様 私は自由に生きます。
ヴァンドール
恋愛
私は絵を描いて暮らせるならそれだけで幸せ!
そんな私に好都合な相手が。
女性に興味が無く仕事一筋で冷徹と噂の侯爵様との縁談が。 ただ面倒くさい従妹という令嬢がもれなく付いてきました。
残念ながら、定員オーバーです!お望みなら、次期王妃の座を明け渡しますので、お好きにしてください
mios
恋愛
ここのところ、婚約者の第一王子に付き纏われている。
「ベアトリス、頼む!このとーりだ!」
大袈裟に頭を下げて、どうにか我儘を通そうとなさいますが、何度も言いますが、無理です!
男爵令嬢を側妃にすることはできません。愛妾もすでに埋まってますのよ。
どこに、捻じ込めると言うのですか!
※番外編少し長くなりそうなので、また別作品としてあげることにしました。読んでいただきありがとうございました。
再会の約束の場所に彼は現れなかった
四折 柊
恋愛
ロジェはジゼルに言った。「ジゼル。三年後にここに来てほしい。僕は君に正式に婚約を申し込みたい」と。平民のロジェは男爵令嬢であるジゼルにプロポーズするために博士号を得たいと考えていた。彼は能力を見込まれ、隣国の研究室に招待されたのだ。
そして三年後、ジゼルは約束の場所でロジェを待った。ところが彼は現れない。代わりにそこに来たのは見知らぬ美しい女性だった。彼女はジゼルに残酷な言葉を放つ。「彼は私と結婚することになりました」とーーーー。(全5話)
花嫁に「君を愛することはできない」と伝えた結果
藍田ひびき
恋愛
「アンジェリカ、君を愛することはできない」
結婚式の後、侯爵家の騎士のレナード・フォーブズは妻へそう告げた。彼は主君の娘、キャロライン・リンスコット侯爵令嬢を愛していたのだ。
アンジェリカの言葉には耳を貸さず、キャロラインへの『真実の愛』を貫こうとするレナードだったが――。
※ 他サイトにも投稿しています。
幸せな人生を送りたいなんて贅沢は言いませんわ。ただゆっくりお昼寝くらいは自由にしたいわね
りりん
恋愛
皇帝陛下に婚約破棄された侯爵令嬢ユーリアは、その後形ばかりの側妃として召し上げられた。公務の出来ない皇妃の代わりに公務を行うだけの為に。
皇帝に愛される事もなく、話す事すらなく、寝る時間も削ってただ公務だけを熟す日々。
そしてユーリアは、たった一人執務室の中で儚くなった。
もし生まれ変われるなら、お昼寝くらいは自由に出来るものに生まれ変わりたい。そう願いながら
あ、すみません。私が見ていたのはあなたではなく、別の方です。
秋月一花
恋愛
「すまないね、レディ。僕には愛しい婚約者がいるんだ。そんなに見つめられても、君とデートすることすら出来ないんだ」
「え? 私、あなたのことを見つめていませんけれど……?」
「なにを言っているんだい、さっきから熱い視線をむけていたじゃないかっ」
「あ、すみません。私が見ていたのはあなたではなく、別の方です」
あなたの護衛を見つめていました。だって好きなのだもの。見つめるくらいは許して欲しい。恋人になりたいなんて身分違いのことを考えないから、それだけはどうか。
「……やっぱり今日も格好いいわ、ライナルト様」
うっとりと呟く私に、ライナルト様はぎょっとしたような表情を浮かべて――それから、
「――俺のことが怖くないのか?」
と話し掛けられちゃった! これはライナルト様とお話しするチャンスなのでは?
よーし、せめてお友達になれるようにがんばろう!
踏み台(王女)にも事情はある
mios
恋愛
戒律の厳しい修道院に王女が送られた。
聖女ビアンカに魔物をけしかけた罪で投獄され、処刑を免れた結果のことだ。
王女が居なくなって平和になった筈、なのだがそれから何故か原因不明の不調が蔓延し始めて……原因究明の為、王女の元婚約者が調査に乗り出した。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる