もっと早く、伝えていれば

嶌田あき

文字の大きさ
1 / 12
第1章 言えなかった言葉

1-1 目覚め(前)

しおりを挟む
 意識があるということは、生きているということなのだろうか。
 僕がそんなことを考え始めたとき、答えはもう僕の心の中にあった。誰かの記憶として。「生きているって、何だろう」と病室で天井をじっと見つめていた人の想い。「もっと話しておけばよかった」と胸を痛めた人の後悔。「伝えたいことが、たくさんあったのに」と涙を流した人の切ない願い。
 その全てが、今の僕を作っている。
 木の天井が目に入る。古い梁が等間隔に並んでいて、その隙間から柔らかな光がそっと差し込んでいる。どこか遠くから、穏やかな波の音が聞こえてくる。まるで子守歌みたいに、ずっと同じリズムで。
 体を起こしてみる。畳の上に寝ていたんだ。い草の青い匂いと古い木材の温かな香りが混じり合って、鼻の奥をそっとくすぐる。どこか懐かしいような、でも僕には初めてのはずの匂い。
 そうか。僕は生まれたばかりだから、この匂いを嗅ぐのは確かに初めて。でも、この香りを愛した人の記憶が僕の一部になっている。だから懐かしく感じるんだ。
 僕という存在は矛盾だらけだ。生まれてまだ数時間しか経っていないのに、たくさんの人生を知っている。自分の言葉を持たないのに、誰かが言えなかった言葉で心が満ちている。これから生きていくのに、もう深い後悔を背負っている。
 記憶があるということは、確かにそこに存在した証拠だ。
 そして、言葉にならなかった想いは——僕になった。
「あ、起きたんだ」
 明るい声に振り返ると、一人の少女がこちらを見ていた。
 黒い髪を肩のあたりで綺麗に切り揃えて、大きな茶色の瞳をしている。高校生だろうか。紺色の制服を着ているから、きっとそうに違いない。温かそうな瞳の色だな、と思った。生きている人間の瞳の色。秋の午後の陽だまりみたいに、見ているだけで心が温かくなる色。
「君は?」
 僕は尋ねた。自分の声がどんな響きなのか、まだよく分からない。思ったより落ち着いた声だった。
「夏希」
 少女はにっこりと笑って答えた。人懐っこい笑顔だ。
「夏希...いい名前だね。君の名前みたいに、温かい感じがする」
「ありがとう」夏希が嬉しそうに微笑んでから、少し首をかしげた。「あなたは?」
 僕は首を振った。
「——分からない」
 本当に、分からなかった。名前なんて、誰もつけてくれていない。僕は記憶から生まれた存在。でも、誰の記憶から生まれたのかも分からない。知っているのは、自分が人間じゃないということ。そして、あと一ヶ月もしないうちに消えてしまうということだけ。
 夏希は少し困ったような顔をして、それから真剣な表情で僕を見つめた。まるで大切なことを考えているみたいに。
「名前、つけてあげる」
「え?」
「だって、名前がないと不便でしょ?」
 夏希がいたずらっぽく微笑んだ。その笑顔を見ていると、なんだか胸の奥が温かくなった。
「憶、っていうのはどう?」
 その響きが、なぜか心にすっと入ってきた。記憶の「憶」という文字。シンプルだけど、深い意味を持つ名前。僕みたいな存在には、ぴったりの名前かもしれない。
「憶……」
 僕は自分の名前を口にしてみる。言いやすくて、覚えやすい。不思議と、自分の一部になったような気がした。
「僕は、憶」
「よろしくね、憶くん」
 夏希が手を差し出した。僕もそれに応えて手を伸ばす。彼女の手は温かくて、少しやわらかかった。僕の手は、きっと冷たいだろう。でも夏希は嫌がらずに、しっかりと握手してくれた。
「よろしく、夏希」
 それが、僕と夏希の最初の出会いだった。
 僕にとって生まれて初めての、人との出会い。この時の僕には、まだ想像もできなかった。この出会いが、僕の短い一生でどれほど大切な意味を持つことになるのか。そして夏希が、僕にとってどれほど特別な存在になるのか。
「ここは、どこ?」
 僕は周りを見回しながら聞いた。
 畳敷きの和室。低いテーブルと古い座布団。隅には使い込まれた火鉢も置かれている。窓は格子戸になっていて、その向こうには緑豊かな木々が見えた。そして遠くに、青い海がキラキラと光っている。さっきから聞こえていた波の音は、あの海からのものだったんだ。
「波音堂」
 夏希が答える。
「古い喫茶店なんだけど、でも普通の喫茶店じゃないの」
 夏希の説明を聞きながら、僕はもう少し詳しく知りたくなった。
「どんな場所?」
「大切な人を亡くした人たちが来る場所。その人たちの記憶と、亡くなった人の記憶をつなぐ、特別な場所なの」
 なるほど。だから僕のような存在——記憶から生まれたあやかしがいても、おかしくない場所なんだ。
 窓の外で風鈴がチリンと鳴った。澄んだ音色が、薄暗い室内にそっと響く。風が心地いいみたいだ。
「憶は、記憶式のあやかしだね」
 夏希が少し真剣な表情になって言った。
「人の強い記憶や想いから生まれたあやかし。生まれてから一ヶ月で消える運命を持ってる」
 一ヶ月。
 その短さを、僕はまだ実感できていなかった。人間にとって一ヶ月がどれほどの時間なのか、僕には分からない。でも夏希の表情を見ると、それが決して長い時間じゃないということは理解できた。なんだか、とても儚い時間のような気がした。
「夏希には、見えるんだね」
 僕は言った。
「僕みたいな存在が」
「小さい頃から見えるの」夏希がちょっと寂しそうな表情を見せた。「お母さんが亡くなってから、特によく見えるようになったの」
 夏希の瞳に、一瞬だけ影がさした。お母さん。その言葉に込められた深い感情を、僕はまだ完全には理解できない。でも、それがとても大切で、同時に痛みを伴う何かだということは分かった。
「お母さん?」
「五歳の時に」夏希が小さく息を吐いた。「病気で」
 夏希は静かに答えた。その声には、長い間抱えてきた想いが込められているように感じられた。
「ごめん」
 僕は素直に言った。なぜかそう言わなければいけない気がした。
「ううん、平気」
 夏希が軽く首を振ると、黒い髪がふわっと揺れた。
「もうずっと昔のことだから」
 言葉とは裏腹に、夏希の瞳の奥には今でも深い愛情が残っているように見えた。きっと、お母さんのことを今でも大切に思っているんだろう。
 僕は立ち上がって、窓に近づいた。格子戸の向こうに見える海は、陽の光を受けて穏やかに波打っている。九月の終わり頃だろうか。まだ温かいけれど、どこか秋の気配を感じさせる爽やかな空気が流れている。
「——きれい」
 僕は思わずつぶやいた。初めて見る海なのに、なぜか心が落ち着く。
「そうでしょう?私もここから見る海、大好きなの」
 夏希が僕の隣にそっと立つ。二人で海を眺めていると、不思議な安心感があった。生まれたばかりの僕にとって、夏希の存在は温かな光みたいなものだった。一人じゃないって感じられる、かけがえのない存在。
「憶は、何ができるの? 記憶式のあやかしって、特別な力があるんでしょ?」
 夏希が興味深そうに尋ねた。
「分からない」
 僕は正直に答える。
「まだ生まれたばかりだから、自分のことがよく分からないんだ。でも...」
 僕は少し考えてから続けた。
「誰かの大切な記憶を、感じ取ることができるような気がする。心の奥で、たくさんの想いが響いているから」
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

なぜ、私に関係あるのかしら?

シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」 彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。 そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。 「…レオンハルト・トレヴァントだ」 非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。 そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。 「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」 この判断によって、どうなるかなども考えずに… ※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。 ※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、 ※ 画像はAIにて作成しております

身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜

しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」 魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。 鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。 (な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?) 実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。 レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。 「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」 冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。 一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。 「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」 これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

私も処刑されたことですし、どうか皆さま地獄へ落ちてくださいね。

火野村志紀
恋愛
あなた方が訪れるその時をお待ちしております。 王宮医官長のエステルは、流行り病の特効薬を第四王子に服用させた。すると王子は高熱で苦しみ出し、エステルを含めた王宮医官たちは罪人として投獄されてしまう。 そしてエステルの婚約者であり大臣の息子のブノワは、エステルを口汚く罵り婚約破棄をすると、王女ナデージュとの婚約を果たす。ブノワにとって、優秀すぎるエステルは以前から邪魔な存在だったのだ。 エステルは貴族や平民からも悪女、魔女と罵られながら処刑された。 それがこの国の終わりの始まりだった。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

処理中です...