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第1章 言えなかった言葉
1-1 目覚め(前)
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意識があるということは、生きているということなのだろうか。
僕がそんなことを考え始めたとき、答えはもう僕の心の中にあった。誰かの記憶として。「生きているって、何だろう」と病室で天井をじっと見つめていた人の想い。「もっと話しておけばよかった」と胸を痛めた人の後悔。「伝えたいことが、たくさんあったのに」と涙を流した人の切ない願い。
その全てが、今の僕を作っている。
木の天井が目に入る。古い梁が等間隔に並んでいて、その隙間から柔らかな光がそっと差し込んでいる。どこか遠くから、穏やかな波の音が聞こえてくる。まるで子守歌みたいに、ずっと同じリズムで。
体を起こしてみる。畳の上に寝ていたんだ。い草の青い匂いと古い木材の温かな香りが混じり合って、鼻の奥をそっとくすぐる。どこか懐かしいような、でも僕には初めてのはずの匂い。
そうか。僕は生まれたばかりだから、この匂いを嗅ぐのは確かに初めて。でも、この香りを愛した人の記憶が僕の一部になっている。だから懐かしく感じるんだ。
僕という存在は矛盾だらけだ。生まれてまだ数時間しか経っていないのに、たくさんの人生を知っている。自分の言葉を持たないのに、誰かが言えなかった言葉で心が満ちている。これから生きていくのに、もう深い後悔を背負っている。
記憶があるということは、確かにそこに存在した証拠だ。
そして、言葉にならなかった想いは——僕になった。
「あ、起きたんだ」
明るい声に振り返ると、一人の少女がこちらを見ていた。
黒い髪を肩のあたりで綺麗に切り揃えて、大きな茶色の瞳をしている。高校生だろうか。紺色の制服を着ているから、きっとそうに違いない。温かそうな瞳の色だな、と思った。生きている人間の瞳の色。秋の午後の陽だまりみたいに、見ているだけで心が温かくなる色。
「君は?」
僕は尋ねた。自分の声がどんな響きなのか、まだよく分からない。思ったより落ち着いた声だった。
「夏希」
少女はにっこりと笑って答えた。人懐っこい笑顔だ。
「夏希...いい名前だね。君の名前みたいに、温かい感じがする」
「ありがとう」夏希が嬉しそうに微笑んでから、少し首をかしげた。「あなたは?」
僕は首を振った。
「——分からない」
本当に、分からなかった。名前なんて、誰もつけてくれていない。僕は記憶から生まれた存在。でも、誰の記憶から生まれたのかも分からない。知っているのは、自分が人間じゃないということ。そして、あと一ヶ月もしないうちに消えてしまうということだけ。
夏希は少し困ったような顔をして、それから真剣な表情で僕を見つめた。まるで大切なことを考えているみたいに。
「名前、つけてあげる」
「え?」
「だって、名前がないと不便でしょ?」
夏希がいたずらっぽく微笑んだ。その笑顔を見ていると、なんだか胸の奥が温かくなった。
「憶、っていうのはどう?」
その響きが、なぜか心にすっと入ってきた。記憶の「憶」という文字。シンプルだけど、深い意味を持つ名前。僕みたいな存在には、ぴったりの名前かもしれない。
「憶……」
僕は自分の名前を口にしてみる。言いやすくて、覚えやすい。不思議と、自分の一部になったような気がした。
「僕は、憶」
「よろしくね、憶くん」
夏希が手を差し出した。僕もそれに応えて手を伸ばす。彼女の手は温かくて、少しやわらかかった。僕の手は、きっと冷たいだろう。でも夏希は嫌がらずに、しっかりと握手してくれた。
「よろしく、夏希」
それが、僕と夏希の最初の出会いだった。
僕にとって生まれて初めての、人との出会い。この時の僕には、まだ想像もできなかった。この出会いが、僕の短い一生でどれほど大切な意味を持つことになるのか。そして夏希が、僕にとってどれほど特別な存在になるのか。
「ここは、どこ?」
僕は周りを見回しながら聞いた。
畳敷きの和室。低いテーブルと古い座布団。隅には使い込まれた火鉢も置かれている。窓は格子戸になっていて、その向こうには緑豊かな木々が見えた。そして遠くに、青い海がキラキラと光っている。さっきから聞こえていた波の音は、あの海からのものだったんだ。
「波音堂」
夏希が答える。
「古い喫茶店なんだけど、でも普通の喫茶店じゃないの」
夏希の説明を聞きながら、僕はもう少し詳しく知りたくなった。
「どんな場所?」
「大切な人を亡くした人たちが来る場所。その人たちの記憶と、亡くなった人の記憶をつなぐ、特別な場所なの」
なるほど。だから僕のような存在——記憶から生まれたあやかしがいても、おかしくない場所なんだ。
窓の外で風鈴がチリンと鳴った。澄んだ音色が、薄暗い室内にそっと響く。風が心地いいみたいだ。
「憶は、記憶式のあやかしだね」
夏希が少し真剣な表情になって言った。
「人の強い記憶や想いから生まれたあやかし。生まれてから一ヶ月で消える運命を持ってる」
一ヶ月。
その短さを、僕はまだ実感できていなかった。人間にとって一ヶ月がどれほどの時間なのか、僕には分からない。でも夏希の表情を見ると、それが決して長い時間じゃないということは理解できた。なんだか、とても儚い時間のような気がした。
「夏希には、見えるんだね」
僕は言った。
「僕みたいな存在が」
「小さい頃から見えるの」夏希がちょっと寂しそうな表情を見せた。「お母さんが亡くなってから、特によく見えるようになったの」
夏希の瞳に、一瞬だけ影がさした。お母さん。その言葉に込められた深い感情を、僕はまだ完全には理解できない。でも、それがとても大切で、同時に痛みを伴う何かだということは分かった。
「お母さん?」
「五歳の時に」夏希が小さく息を吐いた。「病気で」
夏希は静かに答えた。その声には、長い間抱えてきた想いが込められているように感じられた。
「ごめん」
僕は素直に言った。なぜかそう言わなければいけない気がした。
「ううん、平気」
夏希が軽く首を振ると、黒い髪がふわっと揺れた。
「もうずっと昔のことだから」
言葉とは裏腹に、夏希の瞳の奥には今でも深い愛情が残っているように見えた。きっと、お母さんのことを今でも大切に思っているんだろう。
僕は立ち上がって、窓に近づいた。格子戸の向こうに見える海は、陽の光を受けて穏やかに波打っている。九月の終わり頃だろうか。まだ温かいけれど、どこか秋の気配を感じさせる爽やかな空気が流れている。
「——きれい」
僕は思わずつぶやいた。初めて見る海なのに、なぜか心が落ち着く。
「そうでしょう?私もここから見る海、大好きなの」
夏希が僕の隣にそっと立つ。二人で海を眺めていると、不思議な安心感があった。生まれたばかりの僕にとって、夏希の存在は温かな光みたいなものだった。一人じゃないって感じられる、かけがえのない存在。
「憶は、何ができるの? 記憶式のあやかしって、特別な力があるんでしょ?」
夏希が興味深そうに尋ねた。
「分からない」
僕は正直に答える。
「まだ生まれたばかりだから、自分のことがよく分からないんだ。でも...」
僕は少し考えてから続けた。
「誰かの大切な記憶を、感じ取ることができるような気がする。心の奥で、たくさんの想いが響いているから」
僕がそんなことを考え始めたとき、答えはもう僕の心の中にあった。誰かの記憶として。「生きているって、何だろう」と病室で天井をじっと見つめていた人の想い。「もっと話しておけばよかった」と胸を痛めた人の後悔。「伝えたいことが、たくさんあったのに」と涙を流した人の切ない願い。
その全てが、今の僕を作っている。
木の天井が目に入る。古い梁が等間隔に並んでいて、その隙間から柔らかな光がそっと差し込んでいる。どこか遠くから、穏やかな波の音が聞こえてくる。まるで子守歌みたいに、ずっと同じリズムで。
体を起こしてみる。畳の上に寝ていたんだ。い草の青い匂いと古い木材の温かな香りが混じり合って、鼻の奥をそっとくすぐる。どこか懐かしいような、でも僕には初めてのはずの匂い。
そうか。僕は生まれたばかりだから、この匂いを嗅ぐのは確かに初めて。でも、この香りを愛した人の記憶が僕の一部になっている。だから懐かしく感じるんだ。
僕という存在は矛盾だらけだ。生まれてまだ数時間しか経っていないのに、たくさんの人生を知っている。自分の言葉を持たないのに、誰かが言えなかった言葉で心が満ちている。これから生きていくのに、もう深い後悔を背負っている。
記憶があるということは、確かにそこに存在した証拠だ。
そして、言葉にならなかった想いは——僕になった。
「あ、起きたんだ」
明るい声に振り返ると、一人の少女がこちらを見ていた。
黒い髪を肩のあたりで綺麗に切り揃えて、大きな茶色の瞳をしている。高校生だろうか。紺色の制服を着ているから、きっとそうに違いない。温かそうな瞳の色だな、と思った。生きている人間の瞳の色。秋の午後の陽だまりみたいに、見ているだけで心が温かくなる色。
「君は?」
僕は尋ねた。自分の声がどんな響きなのか、まだよく分からない。思ったより落ち着いた声だった。
「夏希」
少女はにっこりと笑って答えた。人懐っこい笑顔だ。
「夏希...いい名前だね。君の名前みたいに、温かい感じがする」
「ありがとう」夏希が嬉しそうに微笑んでから、少し首をかしげた。「あなたは?」
僕は首を振った。
「——分からない」
本当に、分からなかった。名前なんて、誰もつけてくれていない。僕は記憶から生まれた存在。でも、誰の記憶から生まれたのかも分からない。知っているのは、自分が人間じゃないということ。そして、あと一ヶ月もしないうちに消えてしまうということだけ。
夏希は少し困ったような顔をして、それから真剣な表情で僕を見つめた。まるで大切なことを考えているみたいに。
「名前、つけてあげる」
「え?」
「だって、名前がないと不便でしょ?」
夏希がいたずらっぽく微笑んだ。その笑顔を見ていると、なんだか胸の奥が温かくなった。
「憶、っていうのはどう?」
その響きが、なぜか心にすっと入ってきた。記憶の「憶」という文字。シンプルだけど、深い意味を持つ名前。僕みたいな存在には、ぴったりの名前かもしれない。
「憶……」
僕は自分の名前を口にしてみる。言いやすくて、覚えやすい。不思議と、自分の一部になったような気がした。
「僕は、憶」
「よろしくね、憶くん」
夏希が手を差し出した。僕もそれに応えて手を伸ばす。彼女の手は温かくて、少しやわらかかった。僕の手は、きっと冷たいだろう。でも夏希は嫌がらずに、しっかりと握手してくれた。
「よろしく、夏希」
それが、僕と夏希の最初の出会いだった。
僕にとって生まれて初めての、人との出会い。この時の僕には、まだ想像もできなかった。この出会いが、僕の短い一生でどれほど大切な意味を持つことになるのか。そして夏希が、僕にとってどれほど特別な存在になるのか。
「ここは、どこ?」
僕は周りを見回しながら聞いた。
畳敷きの和室。低いテーブルと古い座布団。隅には使い込まれた火鉢も置かれている。窓は格子戸になっていて、その向こうには緑豊かな木々が見えた。そして遠くに、青い海がキラキラと光っている。さっきから聞こえていた波の音は、あの海からのものだったんだ。
「波音堂」
夏希が答える。
「古い喫茶店なんだけど、でも普通の喫茶店じゃないの」
夏希の説明を聞きながら、僕はもう少し詳しく知りたくなった。
「どんな場所?」
「大切な人を亡くした人たちが来る場所。その人たちの記憶と、亡くなった人の記憶をつなぐ、特別な場所なの」
なるほど。だから僕のような存在——記憶から生まれたあやかしがいても、おかしくない場所なんだ。
窓の外で風鈴がチリンと鳴った。澄んだ音色が、薄暗い室内にそっと響く。風が心地いいみたいだ。
「憶は、記憶式のあやかしだね」
夏希が少し真剣な表情になって言った。
「人の強い記憶や想いから生まれたあやかし。生まれてから一ヶ月で消える運命を持ってる」
一ヶ月。
その短さを、僕はまだ実感できていなかった。人間にとって一ヶ月がどれほどの時間なのか、僕には分からない。でも夏希の表情を見ると、それが決して長い時間じゃないということは理解できた。なんだか、とても儚い時間のような気がした。
「夏希には、見えるんだね」
僕は言った。
「僕みたいな存在が」
「小さい頃から見えるの」夏希がちょっと寂しそうな表情を見せた。「お母さんが亡くなってから、特によく見えるようになったの」
夏希の瞳に、一瞬だけ影がさした。お母さん。その言葉に込められた深い感情を、僕はまだ完全には理解できない。でも、それがとても大切で、同時に痛みを伴う何かだということは分かった。
「お母さん?」
「五歳の時に」夏希が小さく息を吐いた。「病気で」
夏希は静かに答えた。その声には、長い間抱えてきた想いが込められているように感じられた。
「ごめん」
僕は素直に言った。なぜかそう言わなければいけない気がした。
「ううん、平気」
夏希が軽く首を振ると、黒い髪がふわっと揺れた。
「もうずっと昔のことだから」
言葉とは裏腹に、夏希の瞳の奥には今でも深い愛情が残っているように見えた。きっと、お母さんのことを今でも大切に思っているんだろう。
僕は立ち上がって、窓に近づいた。格子戸の向こうに見える海は、陽の光を受けて穏やかに波打っている。九月の終わり頃だろうか。まだ温かいけれど、どこか秋の気配を感じさせる爽やかな空気が流れている。
「——きれい」
僕は思わずつぶやいた。初めて見る海なのに、なぜか心が落ち着く。
「そうでしょう?私もここから見る海、大好きなの」
夏希が僕の隣にそっと立つ。二人で海を眺めていると、不思議な安心感があった。生まれたばかりの僕にとって、夏希の存在は温かな光みたいなものだった。一人じゃないって感じられる、かけがえのない存在。
「憶は、何ができるの? 記憶式のあやかしって、特別な力があるんでしょ?」
夏希が興味深そうに尋ねた。
「分からない」
僕は正直に答える。
「まだ生まれたばかりだから、自分のことがよく分からないんだ。でも...」
僕は少し考えてから続けた。
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