もっと早く、伝えていれば

嶌田あき

文字の大きさ
3 / 12
第1章 言えなかった言葉

1-2 波音堂

しおりを挟む
 僕は波音堂で暮らすようになった。二階の小さな和室が僕の部屋で、窓からは青い海がよく見える。朝、目を覚ますと必ず優しい波の音が聞こえていて、それがとても心地良かった。まるで子守歌みたいに、ずっと同じリズムで響いている。
 日中は強い光が苦手なので、薄暗い一階の店舗で過ごすことが多い。琴音さんは本当に喫茶店として営業もしていて、時々普通のお客さんもやってくる。僕のような存在が見えない人たちには、ただの古い喫茶店に映っているらしい。不思議なものだ。
 明星は、いつもカタンコトンと可愛らしい音を立てながら店内を動き回っている。掃除をしたり、お茶の準備を手伝ったり。二七〇年もここにいるだけあって、この店のことは本当に何でも知っている。まるで生き字引みたいだ。
 人間のお客さんが来ると、明星は「いらっしゃいませ」と丁寧にお辞儀をして、上手にお茶を運んでいく。お客さんたちは「可愛いロボットね」「最近の配膳ロボットは本当によくできてる」なんて感心しながら、明星を見ている。まさか二七〇年前の茶運び人形が元になっているとは、誰も思わないだろう。
 明星自身も、その勘違いをうまく利用している節があった。「わちき、最新型の配膳ロボットでございます」なんて、わざと機械みたいな声色で接客することもある。古風な口調と現代語を器用に使い分ける様子は、見ていてとても面白かった。
「おぬしは、まだ人間の感情がよく分からんのじゃろう?」
 三日目の夕方、明星が僕に話しかけてきた。僕は窓際に座って、沈んでいく夕日と海を眺めていた。オレンジ色の光が波に反射して、きらきらと美しい。
「そうです。嬉しいとか、悲しいとか、言葉では知ってるんですけど」
「うむ。それで良いのじゃ」
 明星は僕の隣にちょこんと腰を下ろした。関節がキュッと小さな音を立てる。
「感情は、実際に体験して初めて本当に分かるものじゃ。急がずともよい」
 明星の大きな瞳を見ていると、その奥に深い何かを感じた。二七〇年という途方もなく長い時間を生きてきた重み。たくさんの別れを見送ってきた悲しみ。でも、それを乗り越えてきた強さも確かにある。
「明星は、僕みたいな記憶式を何人も見送ってきたんですね」
「そうじゃ。百は軽く超えておる」
 明星の表情が少し曇った。まるで雲が太陽を隠したみたいに。
「皆、一ヶ月で消えていった」
「辛いですか?」
「……辛い」
 明星は迷わず、正直に答えた。
「じゃが、それがわちきの大切な役目じゃ。記憶式たちが、安心して自分の役割を果たせるよう見守ること」
 僕は明星の手を見た。真鍮の関節が、夕日を受けて金色に美しく輝いている。この小さな手で、百人以上もの記憶式を見送ってきたのだ。どれだけの別れを体験してきたんだろう。
「憶よ」
 明星が僕の名前を呼んだ。その声は優しくて、温かかった。
「おぬしの一ヶ月が、意味深く充実したものになるよう、わちきも全力を尽くす。約束じゃ」
 その真剣な言葉が、胸に深く響いた。明星は、僕のことを本当に大切に思ってくれている。それがとても嬉しかった。胸の奥が、じんわりと温かくなった。
 夕方になると、夏希がやってくる。学校帰りに立ち寄るのが、彼女の日課になっているらしい。
「今日は学校どうだった?」
 僕は聞いた。
「普通かな。テストがあったけど、まあまあだったと思う」
 夏希は紺色の制服のまま、僕の向かいにふんわりと座る。スカートのしわを手で軽く伸ばしながら、いつもの人懐っこい笑顔を見せた。
「憶は? もう慣れた?」
「うん、少しずつ」
 夏希と話していると、時間があっという間に過ぎる。彼女は僕に、人間の世界のことをたくさん教えてくれた。学校のこと、友達のこと、好きな音楽や本のこと。僕には絶対に経験できないことばかりだけれど、聞いているだけで楽しくて仕方なかった。まるで小説を読んでいるみたいに。
「そういえば夏希」
 僕は言った。窓から差し込む午後の柔らかな光が、夏希の茶色い髪をふんわりと照らしている。まだ春の浅い日差しで、少しひんやりとした空気が波音堂に流れていた。夏希は温かいお茶で手を温めるようにカップを両手で大切そうに包みながら、制服の襟元をちょっと整えている。
「君は毎日ここに来てるけど、大丈夫なの? 疲れない?」
「全然平気よ。むしろここにいると、すごく落ち着くの」
 夏希は僕の方を振り返ると、いつもの明るい笑顔を見せた。その笑顔を見るたび、僕の胸の奥が少しずつ温かくなる。これが「安心」という感覚なんだろうか。初めて知る、優しい気持ち。
「それに、ここでバイトもしてるから」
「バイト?」
「そう。あやかしが見えるから、琴音さんに重宝されてるの」
 夏希は嬉しそうに説明する。
「お客さんの中には、普通の人には見えないものが見える人もいるでしょ? そういう時の通訳みたいな役割なの」
 夏希が説明しながら、手をくるくると回す仕草をする。彼女は話すとき、よく手を動かす。生き生きとした表情と一緒に、その動きも見ていて全然飽きない。人間というのは、こんなに表情豊かで魅力的な生き物なのか。
「通訳……」
 僕は首をかしげた。
「ちょっと違うかな」
 夏希は小さく首を振りながら、クスクスと笑った。困ったような、でも楽しそうな笑い方。僕の素朴な質問が面白いのだろう。
「でも、なぜここで働こうと思ったの?」
「カウンセラーとか、ケースワーカーになりたいから」
 夏希の表情が、急に真剣になった。お茶を両手で大切に包むように持ちながら、窓の向こうの海を見つめている。
「人の心に寄り添える仕事がしたくて」
 その横顔に、僕は彼女の内面の強さのようなものを感じた。まだ高校生なのに、しっかりとした目標を持っている。すごいことだ。
「小さい頃から、一人でいることが多かったから」
 夏希の茶色い瞳に、また一瞬だけ影がさした。笑顔が消えて、少し寂しそうな表情になる。でも、すぐにいつもの明るい顔に戻る。彼女は辛い記憶を、笑顔の奥にそっと隠すのが上手だった。それは強さなのか、それとも長年の癖なのか。僕にはまだ判断がつかない。
「だから今度は、誰かを支える側になりたい。ここでの経験は、きっと将来に役立つと思うの」
 穏やかな波の音が、静かに店内に響いている。夏希の優しい言葉と重なって、なんだか美しい音楽のように聞こえた。
「憶って、時々すごく真面目な顔するよね」
 急に夏希が言った。僕をじっと見つめながら、くすっと可愛らしく笑っている。
「まるで哲学者みたい」
「哲学者?」
「そう。『存在とは何か』『生きるとは何か』みたいな、すごく深刻な顔」
 夏希が僕の表情を面白おかしく真似してみせる。眉間にしわを寄せて、じっと遠くを見つめるような顔。両手を顎の下で組んで、いかにも深く考え込んでいるという大げさな仕草。
「僕、そんな顔してる?」
「してる、してる。よくしてる」
 夏希はクスクスと楽しそうに笑った。その明るい笑い声が、波音堂の静かな空間に小さく響く。明星がお茶を運んでくるカタンコトンという音と混ざって、この場所独特の心地よい音楽を作り出していた。
「でも可愛いから全然大丈夫」
 夏希がそう言うと、僕の頬がふわっと熱くなった。これは恥ずかしいという感情だろうか。まだよく分からないが、決して悪い気分じゃなかった。むしろ、少し嬉しい。
「君みたいな人がいてくれて、本当に良かった」
 僕は素直に言った。
「え?」
「君が僕に名前をつけてくれて、温かく受け入れてくれて。僕はとても幸運だと思う」
 夏希の頬が少しピンク色になった。
「そんな、大げさだよ」
 でも、とても嬉しそうにしているのが分かった。僕も、胸の奥がじんわりと温かくなった。これが「嬉しい」という感情なんだろう。初めて知る、素晴らしい気持ち。
 そんな平穏で幸せな日々が、一週間ほど続いた。
 そして、僕にとって最初の依頼者が現れたのは、生まれてからちょうど八日目のことだった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

なぜ、私に関係あるのかしら?

シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」 彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。 そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。 「…レオンハルト・トレヴァントだ」 非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。 そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。 「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」 この判断によって、どうなるかなども考えずに… ※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。 ※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、 ※ 画像はAIにて作成しております

身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜

しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」 魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。 鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。 (な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?) 実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。 レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。 「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」 冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。 一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。 「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」 これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

私も処刑されたことですし、どうか皆さま地獄へ落ちてくださいね。

火野村志紀
恋愛
あなた方が訪れるその時をお待ちしております。 王宮医官長のエステルは、流行り病の特効薬を第四王子に服用させた。すると王子は高熱で苦しみ出し、エステルを含めた王宮医官たちは罪人として投獄されてしまう。 そしてエステルの婚約者であり大臣の息子のブノワは、エステルを口汚く罵り婚約破棄をすると、王女ナデージュとの婚約を果たす。ブノワにとって、優秀すぎるエステルは以前から邪魔な存在だったのだ。 エステルは貴族や平民からも悪女、魔女と罵られながら処刑された。 それがこの国の終わりの始まりだった。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

処理中です...