もっと早く、伝えていれば

嶌田あき

文字の大きさ
4 / 12
第1章 言えなかった言葉

1-3 雪野冬真

しおりを挟む
 夕方の波音堂に、一人の少年がそっと入ってきた。
 高校生らしい、夏希と同じ年頃の男子。短く刈り上げた黒い髪と、きちんと整った顔立ち。一見すると爽やかで明るそうな印象だが、その瞳の奥には深い影を感じる。肩を小さく丸めて、まるで見えない重い荷物を背負っているかのような、どこか疲れた歩き方だった。
 店内をゆっくりと見回した彼の瞳が夏希を捉えた瞬間、ぱっと驚いたような表情を浮かべた。
「あ、榊原?」
「雪野くん?」
 夏希が勢いよく立ち上がった。制服のスカートがふわっと揺れる。
「どうしてここに?まさか、知ってたの?」
 雪野と呼ばれた少年は、困ったような、それでいて少しほっとしたような複雑な表情を浮かべた。安心と戸惑いが混じった、なんとも言えない顔。
「実は……」
 彼は言いかけて、ふいに視線をそらすと僕の方を向いた。正確には、僕がいる方角を何となく見たという感じだった。まるで気になる何かがそこにあるような、そんな表情で。
「なんか、変な感じがする」
 雪野は首をかしげながら、僕がいる空間をじっと見つめた。でも、その視線は僕を完全には捉えていない。ぼんやりと、何かが気になるという程度らしい。
「変な感じって?」
 夏希が心配そうに聞く。
「分からないけど……誰かこっちをじっと見てたような気がするんだ」
 雪野は眉間にしわを寄せて、困ったような顔をした。
「でも誰もいないよね? 気のせいかな」
 夏希が僕の方をそっとちらりと見た。雪野には僕の存在がぼんやりとしか感じられていないようだ。
「きっと気のせいよ」
 夏希がやわらかく言うと、雪野は少し安心したような顔をした。
「そうかもな。最近、あんまり眠れなくて、疲れてるのかも」
 でも彼の視線は、時々心配そうに僕がいる方向を気にするように向いていた。まるで、そこに大切な何かがあるような感じで。
 琴音さんが奥から静かに現れて、雪野に丁寧にお辞儀をした。
「雪野冬馬さんですね。お待ちしておりました」
 雪野は明らかに驚いた。目を丸くして、琴音さんを見つめる。
「え、僕の名前をご存知なんですか?」
「はい。ご予約をいただいておりましたから」
 琴音さんは穏やかに微笑む。まるで雪野の緊張をほぐそうとするみたいに、優しい表情で。
「こちらにどうぞ」
 雪野は夏希を見た。少し戸惑ったような、でも嬉しそうな表情も混じっている。
「君がここにいるなんて思わなかった。偶然なの?」
「私、ここによく来るの。琴音さんのお手伝いをしてるから」
 夏希が説明する。その声には、雪野を安心させようとする優しさが込められていた。
「そうなんだ」
 雪野は少し考え込んでから、何かを決意したような表情を見せた。心の中で迷いを振り切ったような、そんな顔。
「なら、聞いてもらってもいいかな。俺の話」
 琴音さんが雪野を席に案内する。僕と夏希も、その向かいにそっと座った。明星もカタンコトンという可愛らしい機械音と共に現れて、少し離れた場所にちょこんと腰を下ろした。
「本日はいらっしゃいませ」
 明星が雪野をじっと見つめながら、わざと現代風の丁寧な口調で言った。
 雪野は明星の姿に素直に驚いた。
「すごい……こんなリアルなロボットがあるんだ」
「わちきは……」
 明星が言いかけて、琴音さんがちょっと咳払いする。
「ええ、最新の配膳ロボットです」
 明星は慌てて口調を変えた。機械的な声色を真似しながら。
「からくり人形をモチーフにしたデザインでございます」
「本当によくできてるなあ」
 雪野は明星の手首に見える真鍮の関節を興味深そうに見て、心から感心したような顔をした。
「関節の作りまで本物のからくりそっくりだ。技術の進歩ってすごいな」
 夏希と僕は顔を見合わせた。冬馬には明星が普通のロボットにしか見えていないらしい。
「それでは、お茶をお持ちいたします」
 明星は立ち上がると、カタンコトンと軽やかな音を立てながら奥へと向かっていった。
 琴音さんが温かいお茶を運んできてくれた。雪野はそれを受け取りながら、何度も深く深呼吸をした。緊張しているのが手に取るように分かる。湯呑みを持つ手も、微かに震えていた。
「どのようなご相談でしょうか」
 琴音さんが優しく、急かさないように尋ねた。
 雪野は湯呑みを両手で大切に包み込むように持って、しばらく黙り込んだ。その表情には、話すべきかどうか迷っているような色が浮かんでいる。言葉にするのが辛いことなんだろう。
 僕は夏希を見た。夏希は小さく頷いて、雪野にそっと声をかける。
「時間をかけても大丈夫だよ。全然急がなくていいから」
 雪野は顔を上げて、夏希を見た。そして少しだけ、ほっとしたような微笑みを見せた。
「ありがとう、榊原。優しいね」
 彼はお茶を一口飲んでから続けた。
「でも、もう一年も迷い続けてるんだ。今日こそ、ちゃんと決めなければいけない」
 彼の周囲に漂う記憶の波動を、僕だけがはっきりと感じ取っていた。桜という文字がふわっと浮かんできた。桜。そして、胸を締め付けるような強い後悔の感情。愛情と悲しみが混じり合った、複雑で深い想い。
「——一年前、」
 雪野はゆっくりと口を開いた。誰に向かって話しているのか、彼自身もよく分からないような、まるで独り言のような口調だった。
「幼なじみを亡くしました」
 夏希の表情がさっと曇った。僕は静かに雪野の言葉に耳を傾けた。彼には僕の姿が見えていないけれど、僕の存在を心の奥で感じ取っているのかもしれない。だから、こうして大切な話をすることができるのだろう。
 その瞬間、店内の空気がぴんと変わった。みんなが息を詰めて、雪野の次の言葉をそっと待った。波の音だけが、静かに響いている。
「桜井春香。同じクラスの女の子でした」
 名前を口にする時、雪野の声がわずかに震えた。そして彼の記憶から、一人の少女の姿がふわりと浮かび上がってきた。肩までの艶やかな茶色い髪、大きくて温かな瞳、いつも笑顔でいる明るくて可愛らしい女の子。
「事故だったんです」
 雪野は苦しそうに続けた。
「学校から帰る途中、自転車で商店街を通っていて」
 夏希が小さく息を呑んだ。彼女も、この話を全然知らなかったようだった。
「信号のない交差点で、トラックと衝突して」
 雪野の手が小刻みに震えている。
「運転手さんも全然悪くないんです。春香が安全確認をしないで飛び出してしまっただけだから」
 僕は雪野の記憶をもっと深く感じ取った。事故現場に駆けつけた時の鮮明な記憶。救急車のサイレン。血痕。そして、もう二度と動くことのない春香の姿。
「即死でした」
 その言葉は、静かな波音堂に重く響いた。
「雪野くん……」
 夏希が心配そうに彼を見つめた。その瞳には、同じような辛さを知っている人特有の優しさがあった。
 雪野は震える手で湯呑みをテーブルに置いた。カタカタと小さな音が鳴った。
「ずっと後悔していることがあって」
 僕は彼の記憶の奥深くにある感情をはっきりと感じ取った。強い後悔。深い愛情。そして、一年間抱え続けてきた深い悲しみ。
「春香に、言えなかったことがあるんです」
 その時、僕の心の中で何かが動いた。これが、僕が手伝うべき最初のお願いなんだ。雪野冬馬の、言えなかった言葉。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

なぜ、私に関係あるのかしら?

シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」 彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。 そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。 「…レオンハルト・トレヴァントだ」 非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。 そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。 「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」 この判断によって、どうなるかなども考えずに… ※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。 ※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、 ※ 画像はAIにて作成しております

身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜

しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」 魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。 鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。 (な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?) 実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。 レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。 「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」 冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。 一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。 「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」 これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

私も処刑されたことですし、どうか皆さま地獄へ落ちてくださいね。

火野村志紀
恋愛
あなた方が訪れるその時をお待ちしております。 王宮医官長のエステルは、流行り病の特効薬を第四王子に服用させた。すると王子は高熱で苦しみ出し、エステルを含めた王宮医官たちは罪人として投獄されてしまう。 そしてエステルの婚約者であり大臣の息子のブノワは、エステルを口汚く罵り婚約破棄をすると、王女ナデージュとの婚約を果たす。ブノワにとって、優秀すぎるエステルは以前から邪魔な存在だったのだ。 エステルは貴族や平民からも悪女、魔女と罵られながら処刑された。 それがこの国の終わりの始まりだった。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

処理中です...