もっと早く、伝えていれば

嶌田あき

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第1章 言えなかった言葉

1-6 知る

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 雪野が帰った後、僕は夏希と二人で海を眺めていた。
 月がゆっくりと昇り、波が静かに銀色に光っている。美しい夜だった。外から聞こえる波の音と、時々鳴る風鈴の音が、波音堂を穏やかな空気で包んでいる。
「雪野くん、すごく楽になった顔してたね」
 夏希が静かに言った。制服のスカートを膝の上で整えながら、安心したような表情を浮かべている。
「そうですね」
 僕は頷いた。
「春香さんの本当の想いを知って、救われたんだと思います。一年間抱えていた後悔から、やっと解放された」
「憶は、どうだった? 初めての案内」
 夏希が僕を見つめる。その茶色い瞳には、心配そうな色と、誇らしそうな色が混じっていた。
 僕は少し考えてから答えた。
「とても勉強になりました。恋という感情が、どんなものか初めて理解できたような気がします」
 今まで言葉でしか知らなかった「恋」という感情。でも雪野と春香の記憶に触れて、僕は初めてその本当の意味を感じ取ることができた。
「恋って、どんな感情だと思う?」
 夏希が興味深そうに尋ねた。
「美しくて、切なくて」
 僕は言葉を探した。雪野と春香の記憶を思い出しながら。
「相手のことを想うだけで胸が温かくなって、でも同時に苦しくもなる。とても複雑で、でも純粋な感情」
 夏希は優しく微笑んだ。
「そうね。恋は本当に複雑な感情よ。嬉しいのに切ないし、幸せなのに不安にもなる」
 僕は夏希の横顔をそっと見つめた。月光に照らされた彼女の顔は、とても美しかった。そして、彼女を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。まるで春の陽だまりにいるような、優しい感覚。
 これが恋なのだろうか。僕が夏希に対して感じているこの特別な感情は。
「夏希」
 僕は言った。
「ん?」
「君は、恋をしたことがありますか?」
 夏希の頬がふわっと赤くなった。まるで桜のつぼみが開いたみたいに。
「え、なんで急に?」
「ただ、聞いてみたくて」
 僕は正直に答えた。なぜか、とても気になった。
 夏希は少し困ったような顔をしてから、小さく答えた。
「どうかな。よく分からない」
「分からない?」
「好きな人はいるけれど」
 夏希の声がだんだん小さくなった。まるで大切な秘密を話すみたいに。
「その人がどう思っているかが分からなくて」
 僕の胸がドキリとした。夏希には、好きな人がいる。それを知って、なぜか胸が締めつけられるような感覚になった。これは何だろう。嫉妬というものなのだろうか。
「その人は、どんな人ですか?」
 僕は尋ねた。聞くのが少し怖かったけれど、どうしても知りたかった。
 夏希は僕をじっと見つめた。その瞳に、何か深い感情が宿っているのが分かった。
「優しくて、純粋で」
 夏希がゆっくりと話した。
「人の心に寄り添うことができて、とても美しい心を持っている人」
 その描写を聞いて、僕は何かを理解しそうになった。でも、まだはっきりとは分からない。僕のような存在を、人間が好きになるなんてことが本当にあるのだろうか。
「素敵な人ですね」
 僕は言った。
「うん」
 夏希は微笑んだ。
「とても素敵な人」
 二人で静かに海を見ていた。波の音だけが聞こえて、なんだか特別な時間のような気がした。
「憶」
 夏希が僕の名前を呼んだ。
「はい」
「私、憶と出会えて本当によかった」
 その言葉が、僕の心をぎゅっと掴んだ。
「僕もです」
 僕は心から答えた。
「夏希に出会えて、名前をつけてもらえて、本当によかった」
 夏希はそっと僕の手を握った。彼女の手は温かくて、僕の冷たい手を優しく包んでくれる。
「これからも、よろしくね」
「こちらこそ」
 手を繋いで海を見ていると、僕はこの瞬間を永遠に覚えていたいと思った。夏希との、この大切な時間を。
 明星がカタンコトンと音を立てながら現れた。
「初回の案内、お疲れ様じゃったな」
「ありがとうございます」
 僕は答えた。
「どうじゃった? 人間の感情は理解できたか?」
 僕は少し考えてから答えた。
「少しずつ分かってきました。でも、まだ完全には理解できていません」
「うむ。それで良いのじゃ」
 明星は穏やかに微笑んだ。
「簡単に理解できるものではないからのう。何年、何十年かけても分からないこともある」
 夏希が立ち上がった。
「そろそろ帰らなくちゃ。明日も学校があるから」
「気をつけて」
 僕は言った。
「うん。また明日」
 夏希が帰った後、僕は明星と二人になった。月明かりが波音堂をそっと照らしている。
「明星」
 僕は言った。
「僕は、夏希に恋をしているのでしょうか?」
 明星は僕をじっと見つめた。その大きな瞳には、二百七十年の時の重みが宿っている。
「おぬしの心に聞いてみるが良い」
 明星は優しく言った。
「答えは、そこにある」
 僕は自分の心と向き合った。夏希への想い。彼女の笑顔を見ると嬉しくて、彼女が悲しそうな顔をすると僕も切なくなる。彼女のことを考えるだけで、胸が温かくなる。彼女の幸せを、自分の幸せ以上に願っている。
 これが恋なのかもしれない。
 でも、僕には未来がない。あと二週間ほどで消えてしまう。恋をしても、意味があるのだろうか。
「短い命だからこそ、その想いは美しいのかもしれぬ」
 明星が言った。まるで僕の心を読んだみたいに。
「美しい……」
「桜は散るから美しいのじゃ。永遠に咲き続ける花など、美しくはない」
 明星の言葉に、僕は何かを理解したような気がした。
 限られた時間だからこそ、この想いは特別なのかもしれない。永遠でないからこそ、一瞬一瞬が輝いて見える。
「でも、夏希を悲しませてしまうかもしれません」
 僕は正直に言った。
「僕が消えた時、夏希が辛い思いをするかもしれない」
「それは夏希が決めることじゃ」
 明星の声には、深い優しさがこもっていた。
「おぬしが決めることではない。大切なのは、今この瞬間のおぬしの想いじゃ」
 窓の外で、波が静かに寄せている。僕の初めての恋は、こうして静かに始まった。
 人の役に立てた。それが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。雪野の笑顔を見た時、僕の心は温かい気持ちでいっぱいになった。
 そして夏希への想い。これも僕にとって、新しい発見だった。
 窓の外で、月が高く昇っている。僕の短い一ヶ月は、こうして少しずつ過ぎていく。
 でも、きっと意味のある日々になる。夏希や明星や琴音さんと一緒に。
 そして、僕を必要としてくれる人たちのために。
「おぬしは、幸せか?」
 明星が静かに尋ねた。
 僕は少し考えてから答えた。
「はい。今、とても幸せです」
「それで良いのじゃ」
 明星は微笑んだ。
「幸せを感じられるということは、ちゃんと生きているということじゃ」
 夏希の顔を思い浮かべると、胸がじんわりと温かくなった。この想いを大切にしよう。残された時間の中で、精一杯に。
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