もっと早く、伝えていれば

嶌田あき

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第2章 さよならのない別れ

2-1 十五年目の決意

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 それから一週間が過ぎた。波音堂での日常には、すっかり慣れた。朝は海を眺めることから始まり、昼は琴音さんや明星と過ごし、夕方になると夏希がやってくる。そんなリズムが、僕にはとても心地良かった。規則正しい生活の中で、僕は少しずつ人間の感情を理解し始めていた。
 夕方、夏希が学校から帰ってきた時、波音堂には既にお客さんが来ていた。いつもより少し早い時間だった。
「おかえりなさい」
 琴音さんが夏希に静かに声をかける。いつもの明るい調子ではなく、どこか慎重な響きが含まれていた。
「ただいまです」
 夏希は店内を見回して、一人の老紳士が座っているのに気づいた。制服のスカートをさっと整えてから、丁寧にお辞儀をする。
 六十代後半くらいの男性。白髪交じりの髪を丁寧に整え、きちんとしたスーツを着ている。身だしなみに気を使っているのが分かるけれど、その表情には深い疲労と悲しみが刻まれていた。目の下に薄いクマがあり、頬もやつれている。まるで長い間、とても重い荷物を背負い続けているような、そんな印象を受けた。
 僕は夏希の隣にそっと座っていたが、この老紳士には僕の姿は見えていない。でも、彼の周囲には重く暗い記憶の波動が漂っている。とても深い悲しみ。それと同時に、諦めのような静けさも感じられた。今まで感じたことのない、複雑で重い感情だった。
「こちら、佐伯哲也さんです」
 琴音さんが夏希に紹介した。
「元大学教授でいらっしゃいます」
「榊原夏希と申します」
 夏希は丁寧にお辞儀をした。その仕草に、相手への敬意がしっかりと込められている。
「佐伯です。よろしくお願いします」
 佐伯さんは静かな声で答えた。その声には、長年の悲しみがじんわりと滲んでいる。話すたびに、何かを堪えているような、そんな響きがあった。
「夏希さんは……」
「はい、こちらで記憶式の……あやかしのお手伝いをさせていただいています」
 夏希は分かりやすく説明した。佐伯さんは少し驚いたような顔をした。
「記憶式ですか。それは珍しい。今、ここに?」
 佐伯さんがきょろきょろと周りを見回すのを見て、夏希は優しく説明した。
「はい。確かにいます。私には見えるので、通訳のようなことをしています」
 僕は夏希に話しかけた。夏希は小さく頷いて琴音さんに目配せすると、琴音さんが佐伯さんに静かに声をかけた。
「どのようなご相談でしょうか?」
 佐伯さんは少し考えてから、息を深く吸って、静かに口を開いた。
「妻と娘を、失いました」
 その言葉が、波音堂に重く響いた。
「十五年前の、東日本大震災で」
 僕の胸が、きゅっと締め付けられた。東日本大震災。あの大きな災害のことは知っている。多くの人が命を失い、今でも行方不明の方がたくさんいるという。僕は記憶から生まれた存在だけれど、その記憶の中にも、あの日の悲しみが含まれていた。
「海沿いの町にいたんです」
 佐伯さんが続けた。声が少しずつ小さくなっていく。
「妻は買い物に、娘は友人と会うために出かけていました。私は東京で仕事をしていて」
 佐伯さんの声が、わずかに震えた。十五年経った今でも、その日のことを話すのは辛いのだろう。
「津波に……巻き込まれて。遺体は、見つかっていません」
 遺体が見つかっていない。それは、どれほど辛いことだろう。お別れができない。お葬式もできない。ただ、いなくなってしまった。僕には十分に理解できないけれど、それがどれだけ苦しいことか、佐伯さんの記憶の波動から伝わってくる。
「十五年間、私は待ち続けました」
 佐伯さんの瞳に、深い悲しみが宿る。
「いつか帰ってくるのではないかと。電話があるのではないかと」
 僕は佐伯さんの記憶を感じ取った。毎日、家で待っている姿。電話が鳴るたびにドキッとして飛び起きる姿。妻と娘の写真をじっと見つめている姿。十五年間、ずっと。変わらない希望を抱き続けて。
 夏希の表情が、だんだん切なくなっていくのが分かった。彼女も母親を亡くしているから、佐伯さんの気持ちが痛いほど分かるのだろう。
「でも、もう分かったんです」
 佐伯さんが言った。
「彼女たちは、もう帰ってこない。私は、ちゃんとさよならを言わなければならない」
 さよなら。
 その言葉の重さを、僕は初めて本当に理解した。別れることの辛さ。でも、別れなければ前に進めないということも。僕自身も、一ヶ月後には夏希や明星たちとさよならをしなければならない。
「でも、記憶が…」
 佐伯さんが困ったように言った。
「写真とボイスメールしかないんです。最後に話したのも、震災の前日で」
 琴音さんが優しく頷いた。
「記憶式がお手伝いできるかもしれません。夏希さんが通訳をしてくれます」
 僕は夏希に話しかけた。
「記憶の材料が少なくても、心からの愛情があれば、きっと繋がることができると伝えてください」
 夏希が佐伯さんに僕の言葉を丁寧に伝える。
「記憶式が言ってるの。少ない記憶でも、心からの愛情があれば、きっと繋がることができるって」
 佐伯さんの瞳に、かすかな希望の光が宿った。まるで長いトンネルの向こうに、小さな明かりを見つけたような表情。
「本当でしょうか」
「はい。一緒に試してみましょう」
 夏希が優しく答えた。
 夏希は佐伯さんを見つめながら、少し声を小さくして言った。
「私も、小さい頃に母を亡くしているので、お気持ちがよく分かります」
 佐伯さんの表情が、急に優しくなった。
「そうでしたか。おいくつの時に?」
「五歳です。病気で」
「それは……お辛かったでしょう」
 佐伯さんの声に、同じ痛みを知る人特有の温かさがこもった。
「でも、記憶式がいてくれて、少し心が楽になりました」
 夏希は僕がいる方向を見て、そっと微笑んだ。
 その微笑みを見て、僕の胸が温かくなった。夏希は、僕にとって本当にかけがえのない存在だった。そして今、佐伯さんのような深い悲しみを抱えた人の役に立てるかもしれない。僕が生まれてきた意味が、少しずつ分かってきたような気がした。
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