もっと早く、伝えていれば

嶌田あき

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第2章 さよならのない別れ

2-2 記憶を集めて

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 数日後、佐伯さんは約束通り波音堂に戻ってきた。今度は古いアルバムとボイスレコーダーだけでなく、手書きのメモも持参していた。
「できるだけ詳しく思い出してみました」
 佐伯さんが琴音さんにお茶を淹れてもらいながら言った。
「千鶴と美咲の好きだったものや、日常のことを」
 僕は夏希の隣に座って、佐伯さんが書いた丁寧なメモを眺めた。きちんとした字で書かれた家族の記録。十五年という歳月を経ても、佐伯さんの記憶は驚くほど鮮明だった。
「千鶴さんの好きな音楽は?」
 夏希が優しく尋ねた。
「ショパンのピアノ曲でした」
 佐伯さんの顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「特に『雨だれ』をよく弾いていました。家事をしながらハミングすることもあって」
 僕は佐伯さんの記憶を感じ取った。台所で料理をする千鶴さんの後ろ姿。その唇から漏れる美しいメロディー。穏やかな午後のひととき。
「美咲ちゃんは?」
 夏希が続けて聞く。
「美咲は」
 佐伯さんの瞳に愛情が宿った。
「アニメの主題歌が大好きでした。でも、母親の影響でピアノの音色も好きでした。千鶴が弾くと、いつも隣で目を輝かせて聞いていました」
 僕は夏希に話しかけた。
「ピアノの録音は残っていないか聞いてもらえますか?」
 夏希が僕の質問を佐伯さんに伝える。
「ピアノの録音は残っていませんか?」
 佐伯さんは残念そうに首を振った。
「いえ……すべて流されてしまって」
 佐伯さんの表情に陰りが差したのを見て、僕は話題を変えるよう夏希に伝えた。
「では、お二人の好きな食べ物について教えてください」
 夏希が優しく伝える。
「千鶴は和食が得意で、特に煮物が上手でした」
 佐伯さんは懐かしそうに語った。
「美咲はカレーライスが大好きで、毎週日曜日はカレーの日でした。人参だけは嫌いで、いつもお皿の端に寄せていましたよ」
 その言葉を聞いて、僕の中に温かい光景が浮かんだ。日曜日の食卓。カレーライスの匂い。人参を避ける小さな美咲ちゃん。それを見て苦笑する千鶴さん。家族の何でもない、でも愛情に満ちた時間。
「お住まいだったお家のことも、教えていただけますか?」
 夏希が佐伯さんに優しく聞いた。
「家……」
 佐伯さんは窓の外を見た。
「海が見える小さな家でした。毎日のように海を眺めていました」
「間取りを教えてください」
 夏希が僕の言葉を伝えると、佐伯さんはメモ用紙に簡単な図を描き始めた。
「一階にリビングとキッチン、二階に二つの寝室。美咲の部屋は海側でした」
 佐伯さんの手が止まった。
「美咲は毎朝、窓から海を見るのが習慣でした」
 僕はその間取り図から記憶の波動をより強く感じ取った。リビングで過ごした団らんの時間。キッチンから聞こえる千鶴さんの歌声。二階の美咲の部屋から見える朝の海。
 琴音さんが静かに説明してくれた。
「記憶の渚では、佐伯さんの記憶が形になった空間の中で、千鶴さんと美咲ちゃんの存在を感じることができるかもしれません」
 佐伯さんの目に希望の光が宿った。
「本当に彼女たちに会えるのでしょうか?」
「完全な再現ではありません」
 夏希が僕の言葉を伝える。
「記憶の断片、印象が形になったもの。でも、佐伯さんの愛情があれば、きっと意味のある出会いになります」
「それで十分です」
 佐伯さんは静かに言った。
「十五年間、毎日彼女たちに話しかけてきましたから。ただ、返事が聞きたいだけなんです」
 琴音さんが口を開いた。
「佐伯さん、海についても聞かせてください。怖い記憶ではなく、楽しい記憶を」
 佐伯さんは少し考えてから答えた。
「夏の夕方、三人で海岸を散歩するのが習慣でした。美咲は貝殻を集めるのが好きで、いつも小さな袋を持参していました」
「その写真の日も?」
 夏希がアルバムの写真を指した。
「はい。あの日は特別にたくさんの貝殻が打ち上げられていて、美咲は大喜びでした。『パパにもあげる』って言って、選りすぐりの巻き貝をくれました」
 佐伯さんの記憶から、僕は夕暮れの海辺の光景を感じ取った。穏やかな波。貝殻を拾う小さな手。家族の笑い声。
「その貝殻は?」
 夏希が僕の質問を伝える。
「震災の前日まで、書斎の机の上に置いていました」
 佐伯さんの声が小さくなった。
「一緒に、流されてしまいました」
 僕は佐伯さんの記憶を深く探った。美咲ちゃんからもらった貝殻の記憶が、とても強く残っていることが分かった。
「記憶の渚で、きっとその貝殻にも会えますよ」
 夏希の言葉に佐伯さんの瞳が潤んだ。
「本当ですか?」
「はい。大切な記憶は、決して失われません」
 佐伯さんは小さなボイスレコーダーを取り出した。古い機種で、大切に保管されているのがよく分かる。
「千鶴の最後のボイスメールが入っています」
 佐伯さんの手が、わずかに震えていた。
 佐伯さんがプレーボタンを押す。雑音混じりだが、明るい女性の声が響いた。
『哲也、大きな地震があったの。津波警報が出てるから、美咲を連れて学校に避難するわね。心配しないで。夕方には家に戻れると思うから。美咲も元気よ。パパに一言どうぞ』
 小さな女の子の声が続いた。
『パパ、お仕事頑張ってね! 今日海で拾った貝殻、帰ってきたら見せるからね!』
『それじゃあ、また後で連絡するから』
 音声が途切れる。それが、最後の声だった。
 僕の胸が、きゅっと締め付けられた。何でもない、日常の一コマ。家族の愛情に満ちた会話。でも、それが永遠の別れになるとは、誰も思っていなかった。
「十五年間、この声を聞き続けてきました」
 佐伯さんは頷いた。
「毎日のように。二人の声を忘れないために」
 僕は目を閉じて、佐伯さんの記憶により深く集中した。ボイスメールの音声と、写真から感じられる温かい記憶。そして、佐伯さんの十五年間の想い。
 それらが少しずつ繋がり始めた。記憶の糸が、細いながらも見えてきた。
「段階的に体験していただきます。最初は穏やかな家での日常から始めて、少しずつ海の記憶と向き合えるように」
 琴音さんが優しく説明すると佐伯さんは強く頷いた。
「構いません。十五年間、『さよなら』が言えずにいました。それができれば……」
 夏希が僕の手に触れた。僕の透明化が、また少し進んでいることに気づいたのだろう。心配そうな表情を浮かべている。
「大丈夫」
 僕は夏希に微笑みかけた。
「やらせてください」
 琴音さんが静かに立ち上がった。
「では、奥の部屋の準備をいたします」
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