27 / 62
第二章
昔、この場所で
しおりを挟む細い路地を抜け、広めの車道に出る。そこから駅のある方向へ進んでいく途中で、目的の建物はついに姿を現した。
氷張市立氷張中学校。
校門前の坂は急で、その先に見える校舎の景色がひどく懐かしい。
「氷張中学……。そうだ。私はここに通ってた。自転車で。あの山の上の町から、S字の坂を下りて……」
頭に浮かんだ映像を口にすればするほど、記憶が鮮明になっていく。
自転車で山を下りる時の、肌を撫でる風。太陽に温められた緑と土のにおい。氷張川の途中に見える沈み橋。
そして、この校門前の坂に差し掛かる頃にはいつも、
——おはよう、みなみ。
誰かが、私にそう挨拶していた。
みなみ。
そう、みなみだ。
苗字か、下の名前かはわからない。けれど、生前の私がもしも男だったとしたら、『みなみ』は苗字かもしれない。
「何か思い出したか?」
不意に、隣から井澤さんの声が聞こえた。
ハッとしてそちらを見ると、彼はどこか不安げにこちらを見つめていた。
まつ毛の長い、妖艶な瞳。その左目の下にある泣きボクロ。
その顔が、私の記憶の中にある人物と重なる。
十年前に、この校門前で毎日挨拶を交わしていた男の子。
——おはよう、みなみ。
——うん。おはよう、凪。
凪、と。記憶の中の私が、その男の子を呼ぶ。
紺色の学ランに身を包んだ、綺麗な目をした男子中学生。
そうだ。
どうして今まで忘れていたんだろう。
井澤さんの年齢は、おそらく二十代の前半から半ばほど。十年前はきっと中学生だったはずだ。
「……あなたは、凪。私の友達だった、凪なんだね?」
井澤凪。
彼のフルネームを思い出して、私は合点がいった。
対する井澤さんも、こちらの顔を見ながら、ふっと肩の力を抜くようにして微笑んだ。
「そうだ。俺はキミの友達だった。学年も同じ。十年前、キミと同じこの中学に通っていた、井澤凪だ」
十年前にこの場所で、毎日彼と顔を合わせていた。当時の光景が、確かな色を持って頭の中に蘇る。
「あのー、もしもし? なんか二人きりで盛り上がってるとこ悪いけど、あたしたちの存在を忘れてません?」
と、横から沙耶が割って入る。彼女は何が何だかわからないといった様子で、私と井澤さんの顔を交互に見ていた。
「ごめん、沙耶。私もまだわからないことがいっぱいなんだけど……もう少しで思い出せそうなんだ」
井澤さん——もとい、凪のことは今、やっと思い出した。
彼は私の小学校の頃からの友達で、お互いによく会話をしていた覚えがある。
ただ、会話の内容まではまだ思い出せない。彼と何か、大事な話をよくしていたような気がするのだけれど。
「俺のことは少しずつ思い出してきたようだな。それで、キミ自身のことについては、何か思い出したか?」
凪が聞いて、私は再び彼の方へ視線を戻す。
「私は、『みなみ』という名前で呼ばれていたと思う。でもフルネームはまだ思い出せない。それに顔も……」
記憶の中で、自分の目で見たもの、周囲の環境なんかは少しずつ思い出せている。けれど、肝心な自分自身のことはまだ見えてこない。
私はどんな人物だったのか。
そして、なぜ十年前に死んでしまったのか。
「もう一度、桜ヶ丘の方まで戻ってみるか?」
凪が言って、私は頷く。
あの山の上にある町はきっと、十年前に私が住んでいた場所だ。あそこに戻れば、もっと具体的なことを思い出せるかもしれない。
「ごめんね、沙耶。桃ちゃんも。私のワガママで連れ回しちゃって」
「ぜーんぜん! もともとあたしらは勝手についてきたわけだしね。それに、今のあんたの記憶の謎を解明しないことには、すずの意識も戻ってこられないかもしれないし」
そんな沙耶の発言に、私は急に背中から水を浴びせられたような感じがした。
比良坂すずの意識。
そういえば、彼女の記憶は今どこにあるのだろう?
「さて。それじゃあ車の方まで戻るか。祭り会場の駐車場だったな」
凪が言って、みんなが歩き出す。
一拍遅れて、私もその後を追う。
言い知れぬ不安に駆られた私のことを、やけに無口になった桃ちゃんだけが見つめていた。
13
あなたにおすすめの小説
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
神楽囃子の夜
紫音みけ🐾書籍発売中
ライト文芸
※第6回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。
年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。
四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
光のもとで2
葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、
新たな気持ちで新学期を迎える。
好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。
少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。
それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。
この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。
何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい――
(10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる