僕《わたし》は誰でしょう

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第三章

井澤凪

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 人生で一番古い記憶は何かと問われたら、まず最初に思い出すのが、濃い消毒液のにおいだった。
 病院の内部を満たす、強いアルコールのにおい。

 幼い頃から何度も連れて来られた、祖父が院長を務める病院。
 そこにはたくさんの入院患者が覚束ない足取りでうろうろしている。中にはまるで骨と皮だけのように痩せ細った老人もおり、人生の終わりというのはこんな感じなのだと、半ば見せつけられるような思いでそれを眺めていた。

「凪。お前は本当に頭の出来の悪い奴だな。それでも俺の息子か?」

 病院で、あるいは自宅でも、医師である父は所構わず俺を叱りつけた。

 俺の家族は医者一族である。この家に生まれた者は皆医者になるのだと、まるで他に選択肢のない育て方をされる。

 俺の五つ上の兄は、それはもう出来の良い子どもだった。
 学校での成績は常にトップ。親からの期待値も高く、本人も将来は医者になるのだと自ら望んで勉学に励んでいた。

 そして俺は、まるで正反対だった。
 なぜこんなことも出来ないのかと、周りから失望される毎日だった。学力も要領も、世間一般でいえば中の上程度だったとは思うが、それでは両親は納得しない。

「どうしてこうも兄弟で差が出るんだ。同じ育て方をしているはずなのに」

 父の嘆きは日増しに焦りを帯びていった。兄は優秀なのに、なぜ弟はこうなのか。

 しかしそんなことを言われても俺にはどうしようもなかった。俺がどれだけ努力したところで、優秀な兄に追いつくことはできない。その事実を、他でもない俺自身もよくわかっていた。

 俺と兄とでは、そもそも努力のレベルが違う。というより、努力の概念が違うのだ。

 兄のように、本当の努力が出来る奴というのは、そもそも努力を努力だと思ってすらいない。やって当たり前、出来て当たり前のこと。まるで呼吸と同義の、兄にとっては取るに足らないようなことを、俺が努力と呼んでいるだけなのだ。

 どれだけ頑張ったところで、親に喜ばれることはない。ならば何をしたところでもはや意味はない。
 俺は体の成長とともに色んな場面で手を抜くことを覚え、小学校の高学年になる頃には日常的に授業をサボるようになっていた。

 何事にも本気で向き合うことはせず、その場その場で適当に誤魔化して生きるのが、精神衛生的にも一番マシなのだと理解していたのだ。

「井澤くん。授業は真面目に受けなきゃダメだよ。みんなそうしてるでしょ?」

 クラスメイトたちから向けられる白い視線には慣れていたが、真面目な学級委員長サマから飛んでくる叱責だけは正直ウザかった。こういう世間一般の正義感を振りかざすような奴が、俺は一番嫌いだった。

 勉強なんて、真面目にやって何になる? 
 俺に言わせれば、そんなものは頑張れば頑張るほど、惨めな気持ちになるだけじゃないのかと。



 そんなある日の夜、うちの病院に急患が飛び込んできた。
 聞けば自分の鼻の穴にピーナッツを詰め込んで取り出せなくなったとかいう間抜けな患者だ。しかも当人は俺と同じ桜ヶ丘小学校の生徒で、さらには学年も同じ六年生だというから笑ってしまう。

 一体どこの阿呆がそんなことをしたのかと気になって、俺は珍しく病院の診察室をこっそりと覗きに行った。どうやら処置は思ったより早く終わったらしく、件の患者はすでに丸椅子の上で一息吐いていた。

 意外だったのは、そこに見えた背中は女の子のものだった。半袖の白いワンピース姿で、背中まで伸びるストレートの髪をハーフアップにした清楚な佇まい。

 俺が思い描いていた悪ガキのイメージとは似ても似つかない。そして同時に、ひどく見覚えのある後ろ姿だった。

「えっ。キミは、まさか……」

 思わず、そんな声が口を突いて出た。

 直後、彼女は驚いたようにこちらを振り返る。

「えっ。うそ。……井澤くん?」

 驚愕の表情でこちらを見つめていたのは、うちのクラスの学級委員長——愛崎美波だった。

 あの時の彼女の顔は、忘れようにも忘れられない。

 普段はあれだけ真面目で、クラスの男子たちからは密かに憧れの的となっている彼女が、まさかの鼻にピーナッツ。

 その後しばらく、俺の心の中での彼女の渾名あだなが『鼻ピー』になったのは言うまでもない。
 
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