5 / 42
第一章 白神健
坊っちゃん列車
しおりを挟む父に勧められるまま、俺は凛と二人で散歩に出かけた。
駅前まで歩いてくると、ちょうどそこに路面電車が停まっているのが見えた。
蒸気機関車を模した形の、緑色をした小型の列車だ。
凛はそれを指差して「あれは何ですか」と尋ねてきた。
「あれは、坊っちゃん列車だよ。……じゃなくて、『ですよ』」
うっかりタメ口になってしまい、慌てて言い直す。
「坊っちゃん列車?」
指を差したまま、凛は小首を傾げた。
「うん。夏目漱石の『坊っちゃん』っていう小説に登場する列車です。普通の路面電車よりは観光客向けかな。雰囲気はあるけど、本数も少ないし、割高なんです」
俺はそう説明しながら、そういえば以前これに乗ったのはいつのことだったかな、と考えた。
思い出せるのは、母と一緒に乗ったときのことだ。
もしかすると、それが最後だったかもしれない。
となると、かれこれ十年以上も前のことになる。
「乗りませんか」
凛が言った。
彼女にとっては、観光の一環にもなるだろう。
俺も折角だからと、その申し出に乗った。
★
狭い車両は俺たち二人だけを乗せて、すぐに動き出した。
隣の車両との連結部分に立つ車掌が、坊っちゃん列車についての歴史を語り始める。
マイクを持たない地声でのアナウンスだったけれど、たった二両しかない客車には十分なほど響き渡った。
ぽおっと甲高い汽笛が鳴って、やがて窓の向こうには松山城が姿を現した。
市の中心部に聳える大きな山の、その頂きに天守閣が見える。
外堀の脇では桜が花を咲かせ、さらにその隣では柳の葉が青々と揺れている。
この春の景色を、かつては母と一緒に眺めた。
当時のことを振り返りながら、俺は記憶の中の母を思った。
「……母さんはもともと、身体が弱かったんだ」
凛は窓から目を離して、俺の方に注意を向けた。
「俺を出産するときは、周囲から反対があったそうです。その忠告通り、俺を産んでからは特に病気がちになって、ほとんど寝たきりで、最終的には……」
脳裏で、母の最期の姿が蘇る。
つらい身体に鞭を打って、俺と一緒に出掛けた母は、最期――路上に倒れ込み、そこへちょうど車が通りがかって……。
「亡くなったのですね」
俺が黙っていると、代わりに凛が言った。
「……そう。俺を産まなければ――俺さえ生まれてこなければ、母さんは今でも生きていられたはずなのに……」
「お母様があなたを怨んでいるというのは、それが理由ですか?」
俺は頷いた。
すると凛は、
「本当に、そうなのでしょうか」
と、妙な疑問を投げかける。
「え?」
「本当にそんな理由で、お母様はあなたを殺そうとしたりするでしょうか」
どこか腑に落ちないといった様子で彼女は言う。
「そんな理由、だって?」
彼女の発言は、俺の心を乱すのには十分だった。
『そんな理由』――そんなくだらない理由、とでも言いたいのだろうか。
まるで母の死が軽視されたような気がして、俺は腹が立った。
凛は続けた。
「あなたのお母様は、ご自分の意思であなたを産んだのでしょう? それなのに、今はあなたを殺そうとするなんて……そんなことが本当にできるのでしょうか」
「……何がわかるんだよ」
つい、感情が声に漏れてしまう。
「別に何もおかしいことはないだろ。俺のせいで母さんは死んだんだから。俺を殺そうとしたって、何もおかしくはない」
次第に語気が荒々しくなる俺に対し、凛は冷静に、顔色一つ変えることなく俺の言葉を聞いていた。
「母さんは俺を怨んでるんだ。だから殺しにきたんだ」
「そうでしょうか」
「何が言いたいんだよ?」
尚も食い下がる凛に対して、俺もムキになる。
けれど、
「あなたを殺すことを望んでいるのは、お母様ではなく……あなた自身ではないのですか?」
「なっ……」
思わぬ方向へ話が飛んできて、俺は面食らった。
「……なんで、そうなるんだよ?」
訳がわからず、狼狽えてしまう。
「あなたの言葉を聞いていると、まるであなたは、自ら死ぬことを望んでいるかのように思えます」
「死ぬことを望む? どういうことだよ。別に俺は……」
死にたいだなんて、思うわけがない。
ただ、母に殺されるのならそれは仕方がないと思うだけで。
「俺は、できることなら……死にたくなんかない、けど」
「なら、……――よかった」
ほっと息を吐くように、凛が言った。
「あなたはあくまでも、生きることを望んでいるのですね」
そう言った彼女の顔は、それまでの緊張が解れたかのように、やわらかな笑みを浮かべていた。
その可憐さに、つい見惚れてしまった。
もともと白神家の血を引く家系は美形が多いと聞いていたけれど、それにしたって彼女は別格だと思う。
そして、初めて見る彼女の笑顔。
心なしか、瞳が潤んでいるようにも見える。
今にも泣き出してしまいそうな、寂しげな笑みだった。
俺は、彼女もこんな人間らしい表情もできるのだなと、妙な感心を覚えた。
「あなたの生きる意志が確認できて、よかった。……白神家の人間は、自殺を望む者が多いのです。祟りに遭って、こんなにも辛い思いをするのなら、いっそ死んでしまった方がずっと楽だと言うのです」
「自殺? って、そんなの極論じゃないか」
俺は咄嗟に反論した。
いくら辛い思いをするからといっても、それで自殺をするような考え方は理解できなかった。
「生きることを否定したら、辛いことだけじゃなくて、楽しかったことまで全部否定することになる。それじゃあ自分を生んでくれた親にだって失礼じゃないか」
脳裏で母を思いながら、俺は言った。
凛は満足げにこくりと一つ頷いてみせると、
「そう言ってもらえて、安心しました。あなたが生きることを否定しない限り、あなたはきっと大丈夫でしょう。だから、その思いを決して忘れないでください。もしもあなたが自殺を考えてしまったら、そのときは……今度こそ祟り神に殺されてしまうでしょうから」
そら恐ろしいことを言われて、俺は背が寒くなった。
「自殺願望があると、俺は死ぬのか? それは、祟りとは関係がないじゃないか。祟り神に殺されるのと、自殺するのとは違うんだから」
「いいえ」
凛は淀みのない声で、はっきりと言った。
「祟りは、──祟り神は、私たちの心から生まれるのです」
0
あなたにおすすめの小説
人生最後のときめきは貴方だった
中道舞夜
ライト文芸
初めての慣れない育児に奮闘する七海。しかし、夫・春樹から掛けられるのは「母親なんだから」「母親なのに」という心無い言葉。次第に追い詰められていくが、それでも「私は母親だから」と鼓舞する。
自分が母の役目を果たせれば幸せな家庭を築けるかもしれないと微かな希望を持っていたが、ある日、夫に県外へ異動の辞令。七海と子どもの意見を聞かずに単身赴任を選び旅立つ夫。
大好きな子どもたちのために「母」として生きることを決めた七海だが、ある男性の出会いが人生を大きく揺るがしていく。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる