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第一章 白神健
対峙
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「おかえり、健」
帰宅すると、軒先で父が待っていた。
家の中は暗く、人の気配がない。
敷地を囲む塀の内側には、先ほど凛から手渡されたものと同じ呪符――星札が、無造作に大量に貼られていた。
「準備は整っております。何卒、よろしくお願いいたします」
父はそう言って深々と頭を下げた。
凛は全てを悟ったように頷く。
「……何? 何の話?」
話が見えず、俺は一人置いてけぼりをくらった。
何が何だかわからないまま、父は門の外へ出て行こうとする。
「父さん、どこ行くんだよ」
俺が呼び止めると、父は一度だけこちらを振り返って言った。
「健。母さんはお前を怨んだりしない。母さんは最期までお前を愛していた。それだけは忘れるな」
「父さん……?」
なんだか様子がおかしい。
戸惑う俺の背後から、今度は凛が言う。
「健様。あなたはこれから、祟り神と対峙することになるでしょう。けれど決して恐れないで。あなたの命運は、あなたの心が握っています。あなたが生きる意志を見失わなければ、必ず道は開けます」
眼前で門が閉められていく。
父の姿が見えなくなる。
扉の閉まる音はやけに重々しく、腹の底に響いた。
俺の胸にあるのは不安ばかりだった。
「始めましょう」
凛はそう言って、胸の前で手を合わせた。
「……──『アストラル』!」
その声を合図に、辺りは一面青い光に包まれた。
夜の闇を吹き飛ばすような、眩い光。
そこら中に散りばめられた呪符の一つ一つが、一斉に発光したのだ。
「なっ……!?」
強い光に眩んだ視界が──周囲の空間が、一瞬だけぐにゃりと歪んだように見えた。
やがて光が弱まってくると、頭上の空は一層闇の色を深めたように思われた。
「何をしたんだ?」
返事はなかった。
「凛?」
静かだった。
虫の音一つ聞こえない。
凛は合掌したまま動かない。
指先一つ微動だにしない様は、まるで人形のようだ――なんて思っていると。
彼女はいきなり、ぷつりと糸が切れるようにしてその場に崩れ落ちた。
「凛!」
俺はすぐさま駆け寄り、ぐったりとした彼女の上半身を抱き起こす。
「おい、どうしたんだよ。しっかりしろ!」
意識はなかった。
けれど、薄く開かれた唇の隙間からは安定した吐息が漏れている。
どうやら大事ではなさそうだ。
と、不意にぞくりと悪寒が走った。
見られている。
言い知れぬ気配を感じ取り、俺はハッと顔を上げた。
正面で、青い光の玉がゆらゆらと揺れていた。
その光の向こうに、母がいた。
固く閉じられた門扉の手前に、母はいつもの喪服姿で立っていた。
「健……」
母は紫がかった唇をゆっくりと動かして、幽かな声で言った。
「お前が死ねばよかったのに……」
もっとも怖れていた言葉が、母の口から告げられた。
俺の身体は雷でも受けたかのように、全身が凍り付いて動かなかった。
やはり母は、俺を産んだことを後悔しているのだ。
父の助言などアテにならない。
母は俺を怨んでいる。
だから殺しに来たんだ。
「健……」
静かに持ち上げられた母の右手が、ぎらりと光った。
冷たい色を放ったそれは、包丁だった。
「あ……。と、父さ……っ」
思わず助けを求めようとして、無駄だとわかった。
父は遠い。
門の外からは何の音も聞こえない。
まるでこの敷地内だけが世界から切り離されているかのようだ。
凛は依然も眠ったまま。
母は音もなく足を踏み出して、徐々にこちらへと近づいてくる。
「い、いやだっ!」
咄嗟に凛の身体を抱え上げ、俺は走った。
庭の方へ回り、土足のまま縁側に上がる。
左右を見渡すが誰もいない。
メイドの姿もどこにもない。
「……そうだ、『ギルバート様』……!」
そろそろ目覚めてもいい頃だろう。
いや、そうでないと困る。
一縷の望みをかけ、縁側伝いに北へ抜けて居間を目指す。
やがて障子が開かれたままのそこへ辿り着いたとき、
「わっ!」
何かに足を取られ、勢い余って派手に転んだ。
抱えていた凛の身体は俺の腕を離れ、居間の中ほどまで投げ出された。
俺は強打した顔面を顰めつつ、すぐに視線を上げた。
部屋の隅には布団が敷かれている。
けれど、肝心の中身はもぬけの殻だった。
「う、うそだろ……」
『ギルバート様』が、いない。
頼みの綱は呆気なく断ち切られる。
そこへ、確かな殺気が迫った。
足音はない。
けれど、近くにいる。
後ろか、と振り返るが誰もいない。
淡い青色の光が点々として、消えかけた炎のように揺れているだけだ。
見えない殺意が辺りを支配する。
五感を研ぎ澄ませて動かずにいると、不意に、指先に息を吹きかけられたような感触があった。
「ひっ……!」
思わず、びくりと肩を跳ねさせる。
それから恐る恐る見てみると、人差し指の先には一本の髪の毛が絡み付いていた。
「……な、なんだ」
ただの髪の毛か、と胸を撫で下ろす。
しかし気味が悪い。
すかさず反対の手でそれを払い除けようとすると、今度は小指の辺りにもう一本、別の髪が落ちてきた。
「……?」
髪は上から落ちてきた、ということは。
それが指し示すことはただ一つ。
(上にいる!)
弾かれたように頭上を仰ぐ。
すると薄闇の中、まるで蜘蛛のように天井に張り付いた母が、白目を剥いてこちらを見下ろしていた。
恐怖のあまり、声が出なかった。
母の右手が鈍い光を放つ。
その手に握られた包丁が、正確に俺の脳天に狙いを定め、
「死ね。健」
言い終えるが早いか、母の身体はまっすぐにこちらを目掛けて落ちてきた。
「うわああああああ────ッ!!」
もう終わりだ、と固く目を瞑った。
怖い。
殺される。
死にたくない。
けれど……。
俺が殺されることで、少しでも母の魂が報われるのなら……──と、そんな諦めにも似た感情が、俺の中で形成されていた。
贖罪というのだろうか。
ただの自己満足かもしれない。
それでも、これで少しは母への償いになるのかもしれない、と思った。
震え上がる程の恐怖の裏で、心のどこかが満たされていく。
確かな安堵感が生まれ出す。
これでやっと、母に償うことができる。
なのに。
俺を貫かんとする刃の衝撃は、いつまで経っても訪れなかった。
不思議に思って目を開くと、すぐ目の前に、何者かの影が見えた。
初めに足が見えた。
視線を上げると背中があった。
(子ども……?)
幼い背中だった。
こちらに背を向けたその子どもは、俺を庇うようにして、片腕を掲げて立っていた。
腕の先を見ると、その手は何かを掴んでいた。
母だった。
痩せ細った母の白い首を、その手はしっかりと掴み上げていた。
母は唸り声を上げて髪を振り乱し、獣のように四肢をばたつかせる。
「……おはよう、健」
こちらに背を向けた子どもが、高い、けれど落ち着いた声で言った。
「会うのは十一年ぶりだな」
そう言って肩越しにこちらを振り返った顔には、見覚えがあった。
正確には初対面のはずだが、その瞳の色は以前にも見たことがある。
「……ギルバート……様」
気づけば俺は、その人の名を呼んでいた。
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