蛇の噛み痕

ラティ

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一章

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「ホスト?」
「そう!前から気になっててさ、だから行こうよ!」
「え、でも……ホストクラブて何十万ってお金使うところでしょ?」
「大丈夫だよ!最初は安いってネットに書いてたから!」
 
 休日の昼。友人の玲奈れいなとのランチ中。唐突に持ち出された。
 ホストという聞き馴染みのない単語に、頭の中は疑問符で埋め尽くされる。
 まだ冬だというのに日差しは夏のように眩しくて、玲奈の顔をキラキラと照らしていた。輝いている瞳が私に向けられる。
 ちらりと視線を玲奈の手首に向けた。
 そこには、まだ治りきっていない赤い横線の傷があった。
 ひと月前に、推していた実況者が熱愛報道で炎上したのだとか。その報告を私にしてきた時の玲奈の顔は、ゾンビみたいだったなと思い返す。
 次第に連絡が途絶え、大学も休みがちになった玲奈だったが、一週間ほど前から元気を取り戻していた。
 理由は興味のあるものを新しく見つけたからだ。
 ぼーっと考え込んでいる私の目の前に、玲奈は手のひらを見せてきた。
 
「ちょっとー、どこ見てんの?私の話聞いてた?」
「あ、うん……ごめんちゃんと聞いてたよ」
「そう?ならいいけど、で、だいたい夕方からお店開くみたいだからそれまで一緒にどっかであそぼー!」
 
 ジャスミンティーの入ったコップをつかもうとして、私は手を止めた。
 
「え、行くのは確定なの?」
「いいでしょ、ね、お願い、友達って佳代かよしかいないし、頼めるのも佳代だけなの」
 口元で両手を合わせてお願いしてくる玲奈は、女の私から見ても可愛い。
 えぇ、うーん、と渋っていた私だったが、結局まぁいいかと了承した。我ながらちょろい。なんて流されやすいんだ。
 その後店から出た私たちは、軽くショッピングをしたりカラオケに行ったりして時間を過ごした。
 空が薄暗くなり始め、スマホで時刻を確認すると十九時になっていた。
 
「もう七時じゃん!じゃあ、そろそろお待ちかねのホストクラブへレッツゴー!」
 
 手元を覗き込んできた玲奈は満面の笑みだ。
 私は別に待ちかねてないんだけどなと、心の中でつっこむ。
 マップを開きながらうろうろと歩き出した玲奈に、私もついて行った。「あれー、おかしいな、こっちってなってるのに」と呟きながら、玲奈は薄暗い通りに入って行こうとしたので、私は慌てて止めた。
 
「危ないよ、見して……あっちじゃない?」
 
 玲奈は、さすが佳代と笑っていたけれど、私はひやひやとした気分だ。
 だって周りを見ると、道端に寝転んでる人やイカつい顔の人がいて、ふらつきながら歩く玲奈が、何度もぶつかりそうになってたから。
 そうして玲奈を引き連れながら歩き、気づけば目的地についていた。
 顔を上げるとNoctelleノクテルという文字がギラギラと主張している。私は無意識にひっと声を漏らしていた。本当に入るのだろうか。
 ガチャリ。
 音がして前を見ると、玲奈が店内に入ろうとしているところだった。
 
「え、れ、玲奈!」
「入らないの?大丈夫だって、私もいるんだから!」
 
 そういう問題じゃなくてと、情けなく伸ばした私の手は意味がなかった。ポツンと店の前に残され、私も急いで扉を開ける。
 入った瞬間、別世界だった。
 全体が黒で統一されている壁や床。紫の照明は、店内をさらに怪しい雰囲気にしていた。きてはいけないところにきてしまった感じで、謎の罪悪感が芽ばえる。
 きょろきょろと視線だけを動かす私に、玲奈は呼びかけてきた。
 
「佳代、こっち!」
 
 いつの間にか受け付けを済ませている玲奈に「ま、待って!」と私も続く。
 長めのソファがある席に案内された。
 私はできるだけ玲奈にくっついた。
 スーツを着た従業員さんが、私と玲奈に説明をしてくれる。けれど全く頭に入ってこなかった。
 
「玲奈、どういうルールが分かった?」
「んー、お酒頼んでー、何人かとお話して、かっこいい人がいたらその人と喋れるってことじゃない?」
 
 だいぶ大雑把な説明だったが、私はそっかと頷いた。
 会話を続けていると「どうもー!」と明るい声が聞こえてきて、顔を上げると二人の男の人がいた。
 私と玲奈の横に一人ずつ座ってきて、話を振られる。
 フレンドリーな喋り方で話題を提供されるが、私は当たり障りのない返答しか出来なかった。
 十分ほど経った後、男の人は立ち上がり帰っていった。終わったとホッとしたのもつかの間、すぐに違う男の人がやってきて、私の隣に腰を下ろす。
 明るく喋りかけてきたが、上手く返事ができなくて、助けを求め玲奈を見ると、完全に相手の人と二人だけの世界を作っていた。
 私の相手をしてくれてる男の人に申し訳なく思いながら、また十分ほどの時間が過ぎる。
 帰りたいなと遠い目をした私の元に、三人目の男の人がやってきた。
 
黒金くろがねショウです。よろしくお願いします。隣、座ってもいいですか?」
 
 名刺を差し出されたので受け取り、私は顔を上げた。
 
「はじめまして、どうぞ」
 
 黒金ショウと名乗った男性は、灰色髪のセンター分けで、鼻は高くて目は細い、口や眉とのバランスがちょうど良い、すごくかっこいい人だった。
 こんなに顔が整ってる人がいるんだと口を開けてる私に、黒金さんは声をかけてくる。
 
「緊張してる?」
「あ、はい……してます」
「そっかー、俺もこんな可愛い子とおしゃべりできるの緊張してるんだよね、同じだね」
「そ、そうですね」
 
 バクバクと心臓がうるさい。
 自分がきちんと返事をできているのかも分からない。
 
「そうだ、名前聞いてもいい?」
「あ、はい、清水佳代しみずかよです」
「可愛い名前だね、佳代ちゃんって呼んでもいい?」
「全然大丈夫です……」
 
 男の人と普段喋らない私は、定型文みたいな応えしか出来なくて、脳内ですみません、すみませんと謝罪をした。
 
「今日は友達と来たの?」
「あ、はい!隣の、玲奈っていう子に誘われてきました」
「そうなんだ!ここに来る前はお茶してきたり?」
「お昼ご飯を一緒に食べて、その後洋服見たり、カラオケに行ったりしました」
「仲良いんだね」
「はい!顔もすごい可愛くて、ちょっとマイペースな所もあるけど、唯一の友達なんです」
「可愛いね」
「ですよね!」
「佳代ちゃんが、だよ。お友達も可愛いけど、佳代ちゃんも可愛いよ」
「えっ……」
 
 色気満載の笑みを向けられ、私はピタリと固まった。
 可愛いなんて、玲奈以外に初めて言われた。
 私が何も喋れないでいると、黒金さんがぷはっと吹き出した。
 
「佳代ちゃん真っ赤だよ!本当に可愛いなぁ。俺も佳代ちゃんと遊びに行きたいな、良かったら連絡先交換しない?」
 
 スマホを目の前に出され、私は視線をさ迷わせた。
 交換していいんだろうか?ルールとか頭に入ってこなかったし、よく分からない。でも、黒金さんから提案してくれたってことは、別に大丈夫なのだろう。
 私もカバンからスマホを取り出し「お願いします」と画面を見せた。
 
「嬉しい、ありがとう!」
「こちらこそ……」
 
 顔が見れなくてスマホばかりを見つめていると、黒金さんの手が目に入る。
 指が長くてゴツゴツしてて、顔が綺麗な人は手も綺麗なんだなと心の中で感心した。
 
「俺の手?」
 
 黒金さんから聞き返され、びくりと肩が揺れる。どうやら無意識に声に出していたらしい。
 
「あ、はい。指長いし、器用そうだなって、思います」
 
 よく分からない返事をした私に、黒金さんは少し笑った。
 その後、佳代ちゃんの手も可愛いねと優しく握られた。
 私の体温はどんどん上がっていく。
 
「ほら、俺の手にすっぽり収まる」
 
 顔が爆発したかと思った。脳内での叫び声が、口から出ないようにすることだけで精一杯だった。
 指をすりすりと撫でられ、いけないことをしている気分になる。
 
「ねぇ……」
 
 優しく呼びかけられ、はいっ!と大きめの声で返事をした。
 
「俺のこと見てくれないの?俺、佳代ちゃんの可愛い顔みたいな」
 
 え、あ、えっと、と全然理解してないまま顔を上げる。
 
「やっと目、合った」
「そ、そそ、そうですね」
 
 にへりと笑った黒金さんは、やっぱり顔が整ってて、あまりの神々しさに、目が潰れそうだ。
 ぐるぐると思考を巡らせていると、あることに気づいて、私は黒金さんの頬に、無意識に手を伸ばしていた。
 
「……どうしたの?」
 
 黒金さんは私の突然の行動に呆気に取られている。
 
「わっ、あ、すみません。いや、あの、黒金さん寝てますか……?」
「え?」
 
 黒金さんの目元は、化粧で隠れていて分かりにくいがうっすらとクマがあった。一時期の玲奈もこんな感じだったから私には分かる。
 
「その、寝不足なように、見えたので……」
 
 つい指摘してしまったが、だんだんと聞かない方が良かったのではと声がしりすぼみになっていく。
 
「そっか、そう見えるのか」
 
 ボソリと黒金さんが呟いたので、私は「あ、いや、やっぱり気のせいでした」と否定した。
 
「ううん、実は本当に最近寝れてないんだ、でもまさか気づかれるとは思ってなかった。声かけてくれたの佳代ちゃんだけだよ」
 
 はにかみながら佳代ちゃんは特別だねと伝えてくるので、私もむりやり口角をあげて応えた。
 やっぱり指摘しない方が良かったかもしれない。
 
「もうそろそろ時間だ、俺の事、送りに選んでくれたら嬉しいな」
「おくり?」
「うん、最後に今まで話した人の中から一人選んでもらってお見送りする制度。佳代ちゃんと少しでも多く喋りたいからさ」
 
 そういえばさっきの男性たちもおくりがなんちゃらと言っていたなと記憶を掘り返す。緊張しててそれどころじゃなかったけど。
 
「は、はい。分かりました」
 
 ピシッと背筋を伸ばした私を見て、黒金さんは笑顔を見せた。
 
「話してくれてありがとう」
 
 コツンと私のグラスにグラスを当てたあと、黒金さんは立ち上がった。私も同様に頭を下げてお礼をする。
 黒金さんの姿が見えなくなった頃に、私はふっと息を吐いた。今までの人の中で一番喋りやすかったが、美形を相手に体は強ばったままだ。
 背もたれに体重をかけていると、ひとりになった玲奈が私の名前を呼んだ。
 
「どう?喋れた?私はね、二人目に来た人がめっちゃタイプだったの!どうしよう、通っちゃいそう!」
 
 頬に手を当て、楽しそうにしている玲奈を見て、私の口元は自然と弧を描いていた。
 以前、玲奈の元気がない時、私はどうすることもできなかった。
 でも、今は姿は水を得た魚だ。
 
 ハマりそうなのがホストというところは、ちょっと、いや、だいぶ心配だが、引きこもって死にそうになってた時よりはマシだろう。
 玲奈の話に相づちを打っていると、四人目の男の人がやってきた。
 そうして何人かの男性が私たちのところに交互に現れ、いつの間にか帰る時間になっていた。
 会計を済ませると、スーツを着た従業員さんが、おくりを誰にするか聞いてきた。玲奈はすぐに希望を伝えていたが、私は言葉を詰まらせた。
 
 一人一人とした会話を思い出す。
 最終的に強く印象に残っていたのは黒金さんだった。私が黒金さんでお願いしますと言うと、従業員さんは「かしこまりました」と言ってその場を離れた。
 数秒してから、玲奈が選んだ男性と黒金さんがやってきた。
 黒金さんは、機嫌良く私の荷物を持ってくれる。
 
「選んでくれたのめっちゃ嬉しい。なんで俺にしてくれたの?」
 
 至近距離で質問され、私は目を泳がせながら説明した。
 
「えっと、黒金さんとのお話が一番楽しかったので……」
「わー、まじか!照れる。出口までだけどいっぱい喋ろうね」
 
 廊下を歩きながら、投げかけられた話題に返事をする。出入口で「ありがとうございました」と告げてから、私は黒金さんと別れた。
 
「楽しかったねー!」
「うん、結構ぐいぐい話しかけてくるね」
「まぁ、そりゃホストだもん!私また来ようかなって思ってるから、佳代も一緒に行こうね」
 
 スキップしながら私の隣を歩く玲奈に、えぇ……と答えた。

***
 
 ホストクラブに行ってから二日ほど経った日、大学から帰った私は、家のベッドでゴロゴロと暇を持て余していた。
 枕元に置いたスマホから通知音がなり、のそりと体を起こして手に取る。
 画面を見ると、黒金さんからメッセージが届いていた。
 内容は、この前はありがとう!また話そうね!というものだった。
 同じような言葉を送っていると、スマホが突然振動した。何事かと凝視する。
 電話だ。
 相手は玲奈だった。
 
「もしもし――」

――あ、佳代ー!聞いて!さっきね、この前ホストクラブ行った時に話した人からメッセージきて、私のこと好きって言ってくれて、また来てって言ってくれたの!
 
 甲高い声が耳に響き、スマホから距離をとる。
 
「良かったね」

――うん!だから、次の日曜日に遊びに行くって約束したから、佳代も行こ!

「……えっ」
 
 ホストクラブがつまんなかったわけではないが、前回を通して私には合わないなと感じた。了承しない私に痺れを切らしたのか、玲奈はさらに言葉を続けた。
 
――私がお金払うから!

「それはダメ!」

――大丈夫、バイトですぐに稼ぐし、まだひとりじゃ不安なんだもん。三回目からはひとりで頑張るから
 
 そんなこと言われてもと思いながら、ホストクラブに向かう玲奈を想像してゾッとした。
 道路に飛び出したり、スカウトしてきた変な人に着いていったり。
 
「……わかった。行くよ」

――え、本当!やったー!
 
 電話越しに佳代大好き!と声をあげる玲奈に、ハイハイじゃあまたねと言って私は通話を切った。
 
 次の日、大学でお弁当を食べていると、前に座っていた玲奈がスマホを触りながら話しかけてきた。
 
「これ見て!ホストクラブ行く日にアフターしてくれることになったの!やっぱり私のことが好きなんだよ!」
「アフター……?」
「ホストクラブ以外の場所で遊ぶの!だから、日曜日は、お店が終わる時間よりちょっと前に行こ!そのまま遊び行きたいから!」
 
 画面を除くと、確かにそれらしい内容の文が書いてあるが、お店が終わってから遊ぶなんて危険じゃないだろうか。
 嬉しそうな顔をする玲奈に申し訳なく思いながらも、私は口を開いた。
 
「よく分からないけど、危なくないの?それに、ホストクラブってお金使わせるところでしょ?あとから請求されたりとかしない?」
 
 私の質問に、玲奈は口をすぼめながら大丈夫だよと答えた。
 
「確かにお金使うとこだけど、アフターしてくれるのは私のことが好きだからだよ!メッセージにも、私だけだよって書いてるし。あ、佳代こそ気をつけてね!色カノって言葉があって、彼女みたいに接してお金使わせるんだって、全部演技らしいから、騙されちゃダメだよ!」
 
 指を向けて忠告してくる玲奈に、それは玲奈のことなんじゃと思ったが何も言わなかった。
 本当にやばくなったらむりやり止めよう。今言っても信じないだろうし。
 
「ていうか、佳代もアフターしてもらえばいいじゃん!四人で遊ぼうよ」
「さすがにそれはいいかな、話してくれた人とそこまで仲良くなった訳でもないし」
「えー、だって絶対楽しいよ、仲良くないなら、高いお酒買って頼むのは?約束通り私が払うし!私もシャンパン買う予定だし!」
 
 自由な玲奈にはぁとため息を吐いてから、私はあれと気づく。
 
「シャンパンって、高いお酒だよね?玲奈そんなにお金あるの?」 
 
 違和感を感じながら尋ねると、玲奈はしばらく口を閉ざし、数秒してから私の耳元で喋り始めた。
 
「実は、最初にホストクラブ行った日からパパ活始めたの」
「ぱっ――」
 
 思わず復唱しそうになった私の口を、玲奈はシーっと手で塞いだ。その手をむりやり剥がし、身を乗り出して注意する。
 
「だ、ダメだよ!さすがにそれは、今すぐやめて」
 
 玲奈はこちらを見向きもしない。
 机に置いていた紙パックのいちごミルクを、ズーと吸っている。
 
「大丈夫だよ、ご飯食べたりするだけだから」
 
 何が大丈夫なのだろうか。
 その後も私はやめた方がいいと伝えた。けれど一度決めたら頑固な玲奈は、聞く耳を持たなかった。
 もう無理だと説得は諦め、私は玲奈を見守ることにした。
 大きく息を吐いた私の頬を、玲奈は「そんなに気にしなくても大丈夫」と言ってつついてきた。
 
 そうして、私の心が不安で埋め尽くされたまま、ホストクラブに行く日がきてしまった。
 夜中の二十三時、前回と同じ道を通って向かった。
 空は真っ暗だが、色々な店の看板や街灯で、周囲は昼間のように明るかった。
 道行く人は、全員治安が悪そうな見た目をしていて、なるべく下を向きながら歩く。非常に帰りたい。
 玲奈は、私に腕を絡ませながら、ズンズンと前に進んで行く。
 
 そんなに時間がかからないうちに、ホストクラブに着き、私たちは店の中へ入った。
 従業員さんに案内され、席に着いた後、誰を指名するか尋ねられた。
 私は、前回も選んだからという理由で黒金さんを選んだ。
 数分もかからないうちに玲奈の選んだ人と黒金さんがやってきて、隣に座った。
 
「佳代ちゃんだ!きてくれたの?俺のこと指名してくれて嬉しい」
 
 黒金さんは私に笑顔を向けて近づいてきた。
 
「えっと、お久しぶりです。名前覚えててくれたんですね」
 
 何日かぶりに見た黒金さんの顔は、相変わらず美しくて直視できない。
 
「もちろん!佳代ちゃんみたいな可愛い子の名前忘れるはずないでしょ」
 
  そう言って、私の顔を覗き込んできた。
 いきなりの行動に後ずさった私に、黒金さんは「あ、ごめんね、彼氏に怒られちゃうね」と言って眉を下げた。
 
「あ、いや、私彼氏いないです」
 
 誤解を受けている!と、すぐに否定すると、黒金さんはびっくりしたような顔をした。
 
「え、絶対いると思ってた、佳代ちゃん可愛いし、いい子だし」
 
 言われ慣れてない言葉に、私はあたふたとする。
 お世辞だと分かっていても照れくさい。
 どう返事をしようか考えていると、黒金さんは立ち上がった。
 
「あ、ごめんね、ちょっと呼ばれたから行ってくるね、すぐ戻ってくるから!」
 
 分かりましたと返事をし、グラスを手に取った。
 正直このタイミングで離れてくれるたのは助かる。
 酔って忘れようと酒を流し込んだ。
 
 そういえば玲奈はどんな感じだろうと、隣を見ると、机の上には高そうなシャンパンが数本並んでいた。
 本当に頼んだんだと目をむく。視線を上げると、玲奈と男の人がひっつきながら会話をしていた。
 肩を組んだりしているし、さすがに近すぎないかとそわそわしてしまう。
 頬は赤いし完全に酔っているし、このまま帰らせるのはどう見たって危ない。
 そこで玲奈が、アフターしてもらうと言っていたのを思い出した。
 つまり、あの男の人とふたりで帰るということ。
 私の顔から血の気が引いていく。この前、四人で遊ぼうという誘いを断ったが、やっぱりついて行った方がいい気がする。
 どうしようどうしようと頭を悩ませていると、席に、黒金さんではない男の人が現れた。
 私は思考を一旦中断させて、男の人との会話に集中した。
 数十分ほど経ってから、聞きなれた声の主が戻ってきた。
「ごめんね佳代ちゃん、おまたせ」
 黒金さんがさっきと同様に隣に座る。代わりに話しかけてくれていた男の人は帰って行った。
 私は全然大丈夫ですと答えて、なるべく笑顔を見せた。
 黒金さんから提供される話題に、当たり障りなく返事をし、私は考えていたことを口する。
 
「あ、あのっ……えっと、玲奈がアフターしてもらうみたいで、私も、アフターしてもらえませんか?」
 
 言い切った後に下を向く。
 場が静かになり、私は冷や汗をダラダラと流した。
 
 やっぱり、自分から誘うなんて、変だったんだ。
 高いお酒とか頼んだりしたほうが良かったよね。と、後悔が渦巻く。
 空気に耐えきれず、すみませんと声に出そうとした時、黒金さんが先に口を開いた。
 
「佳代ちゃんがアフターして欲しいって言ってくるとは思わなかったな。うーん……いつもならシャンパンとか入れてくれたらいいよって言ってるんだけど……」
 
 やっぱり失礼だった!と、泣きそうになりながら私も返事をしようとした時、黒金さんが続けて喋った。
 
「でも、今日はちょうど予定ないし、いいよ。佳代ちゃんが特別。その代わり、また次の休みの日にお店に来てよ。約束してくれるならいいよ」
「え」
 
 どう?と首を傾げながら条件を提示されて、反射的に私は分かりました!と答えていた。
 営業時間終了まで会話して時間を過ごす。
 店を出た後、私と玲奈は近くのコンビニに向かった。あとから合流することになったからだ。
 玲奈に、私もアフターするということを伝えると口を大きく開けて固まった。
 
「え、玲奈どうしたの?」
「ごめん!佳代行かないって言ってたから、二人でまわろうね、って私から言っちゃった……。佳代とはばいばいだと思ってて」
 
 玲奈から聞かされた事実に私も口を大きく開けた。はたから見たら餌を求める鯉だ。
 私から伝えなかったのが悪いし自業自得だ。
「そっか、私もごめんね」と伝えて、黒金さんともう一人の男性がくるまで、コンビニの中で待つことにした。
 
「そういえば、玲奈の相手の男性名前なんて言うの?」
「春樹くん!可愛いとか好きとかたくさん言ってくれて、私のタイプなんだよね、佳代の担当さんの名前は?」
「担当さんって私と今日アフターする人?」
「そうそう」
「えっとね、黒金ショウさんって人」
 
 私が答えると、玲奈はへーそうなんだ!と興味があるのかないのか分からない返事をした。
 
「玲奈は可愛いとか言われたらなんて返事してるの?」と今度は私が質問する。
「春樹くんもかっこいいよ!って言ってる、好きって言われたら好き!って返すし、佳代は言わないの?」
 
 私は頭を左右に激しく振った。とてもじゃないができる気がしない。
 
「えー、言えばいいのに、あ、佳代もしかして、苦笑いしてスルーしたりしてるな!」
 
 図星をつかれ、私は顔を背ける。
 
「ちょっとー!佳代も素直になればモテるのに、可愛い私が言ってるんだから本当だよ?」
 
 玲奈は、ふふんと自慢げな顔をして、私の焦げ茶の髪に触れてきた。
 私が白い目を向け、ソウカナーと言うと、軽く頭を叩かれた。
 二人で話していると、横から私と玲奈を呼ぶ声が聞こえた。同時に顔を上げる。そこには、黒金さんと春樹さんがいた。
 玲奈は、春樹さんに飛びつき、腕に手を絡ませている。
 私は立ち尽くしながら「こんばんは」と下を向いたまま話しかけた。
 
「佳代ちゃんは、抱きついてくれないの?」
 
 耳元で囁かれ、勢いよく顔を上げた。
 目の前に、にんまりと口角をあげている黒金さんがいた。
 
「いや、えっと」
「ふはっ、ごめんね、佳代ちゃんが可愛くて、意地悪言っちゃった」
 
 楽しそうに笑う黒金さんに、私の顔はどんどん赤くなっていく。鏡で見なくても分かった。触れた頬が熱かったから。
 
「あ、そういえば、今日四人でまわる予定だったんですけど、二人になりそうです。すみません」
 
 黒金さんの胸辺りを見ながら、謝罪すると、黒金さんは少し屈んで目を合わせてきた。
 
「謝んないで、俺は嬉しいから、だって佳代ちゃんと二人でいられるじゃん」
 
 至近距離でそんなことを言われて、私は放心した。
 私にもったいない言葉すぎると叫びたくなった。
 並んでいる商品に視線をずらし、なんとか正気を保つ。そこで、玲奈と春樹さんがいないことに気づいた。
 
「……あれ、玲奈」
「さっきお店出ていったよ」
「え!」
 
 いつの間にという気持ちと、玲奈が心配だから着いていく、という当初の目的を思い出して、私は声を上げた。
 一緒に行動できないなら後ろから様子を見守ろうと考えていたのに……。

 いや、黒金さんもいるから、結局無理だったのかも。
 ちらりと黒金さんを見ると、首を傾げてどうしたの?と聞いてきた。私はなんでもないですと返事をする。
 
 とりあえず外に行こうと言われたので、黒金さんの後に続いて店から出た。
 
「佳代ちゃん行きたい場所ある?」
「えっと――」
 
 私が喋ろうとした時、くしゅんと音が聞こえた。隣を見ると、黒金さんがごめんねと言いながら鼻を擦っている。
 
「全然大丈夫ですけど……寒いですか?」
「いや大丈夫だよ」
 
 大丈夫と否定しているが、黒金さんの鼻も頬も赤い。
 私は終始緊張しっぱなしで、自然と体が温まっていたが、そういえば今は冬だ。
 どうしようかと考えて、カバンにマフラーを詰め込んでいるのを思い出した。夜中だから寒いかなと予備で持ってきていたのだ。
 
「黒金さん」
 
 名前を呼び、こちらを向いた瞬間、私は黒金さんにマフラーをかけた。
 
「……え」
「良かったら使ってください」
 
 私は暑がりで使わないので、と答える。
 黒金さんは目を見開いたまま固まっていた。
 私はそこで、黒金さんの目の下に、まだ隈があることに気づいた。
 
「えっと、元気ですか?」
 
 自分でもよく分からない質問だった。
 
「……元気、だよ?」
 
 黒金さんは、状況が理解できていない様子だ。
 私は罪悪感が生まれた。
 睡眠も充分に取れていないのに、むりやりアフターに誘ってしまったことに。
 
「その、前も言ったんですけど、黒金さん、やっぱりまだ寝れてないですよね?」
 
 黒金さんは私からの質問に「えっ……」と言い淀んだ。
 
「ごめんなさい誘っちゃって、こうやって話せただけで楽しかったです。だから、もう家帰って休んでください」
 
 頭を下げる私に、黒金さんは慌て始めた。
 本当に申し訳ない。私から頼んだのに私から断るなんて失礼すぎるよね。でもこのままだと体調崩しそうだし。
 財布からお札を取り出し、私は黒金さんの手に押し込んだ。
 
「これ、タクシー代です。もし後で足りなかったりしたら言ってください。あ、それと、そのマフラーは次にお店来た時に受け取るので、今日は付けててください」
 
 石のように固まってる黒金さんにもう一度お礼をして、私は後ろを向いた。
 
 少しだけ歩いてから、グイッと腕を引っ張られる。
 そのまま後ろに倒れると、ポスリと何かに当たった。
 顔を上げると、黒金さんがいた。
 
「か、帰るの?」
 
 困ったような顔をしている黒金さんに、何か足りなかったかなと私は考える。
 
「お金足りないですか?あ、次回来るって約束はちゃんと守りますよ。日曜日辺りに行くと思います。お酒も……なるべく高いの頼みます。破るか不安なら、契約書とか書きますか?」
「そうじゃなくて……」
 
 じゃあなんだろうと疑問符を浮かべていると、黒金さんがまたくしゃみをした。
 
「風邪ひいちゃいますよ、あ、風邪薬も持ってるので渡しときますね」
 
 玲奈がよく風邪をひいたり怪我をしたりするので、カバンには色々入れている。こんなところで役に立つとはと思いながら、風邪薬を黒金さんの手に押し込んだ。
 
 楽しかったです!また。と告げて、私は再び歩き出した。
 腕を引っ張られることはなかった。

 ***

 次の日、大学で玲奈を見てほっとした。あの後何事もなく帰ってこれたんだ。
 私が声をかけると、玲奈は周りに花が見えるくらいの満面の笑みで近づいてきた。
 
「佳代ー、聞いてー!」
「聞くけど、なんでそんな嬉しそうなの?」
「実はね、昨日あの後、一緒に私の家行ったんだー」
「……どういうこと?」
「セックスしたの」
「はぁ?」
 
 私の低い声に、玲奈はびくりと体を揺らした。私も自分の声に驚く。
 そんなに怒んないでよーと玲奈が言ってくるので、私は怒ってるんじゃなくて心配してるの、と返事をした。
 言わない方がいいと思っていたが、ここまできたら仕方ないと、私は口を開く。
 
「前に色カノって言ってたけど、玲奈もその可能性あるんだから気をつけなきゃ」
「違うよー、確かに枕って言葉はあるけど、私たちのは気持ちが通じあってる同士でのだから、大丈夫なの!私のこと愛してるって言ってくれたし!……愛してるだよ?この前は好き、だけだったのに!」
 
 だからそれが色カノなんじゃないの。と喉まで出かかって抑えた。言っても今とほぼ同じ答えが返ってくると思ったから。
 
「……じゃあこれからも行くの?」
「当たり前だよ!会いたいもん。今度誕生日あるみたいだから、高いシャンパン買ってお祝いするんだ!」
 
 楽しそうに話す玲奈に、私は呆れていた。それ絶対騙されてる。
 今までの流れから推測すると、今後の展開は、何かトラブルがあって、玲奈が病んで、しばらくしたらまた何かにハマって復活する。という感じだろう。
 ひやひやする行動ばかりだから、私はいつも心配せざるを得ない。
 でもまぁ何とかなるだろうと、投げやりになった私は思考を放棄した。

 いつも通り過ごしていると、時間はあっという間に過ぎていった。休憩時間にスマホを見ると、三時間前に黒金さんからメッセージがきていた。
 
 ――昨日はありがとう。次会うの楽しみにしてるね!
 
 こちらこそ色々ありがとうございました。と送ると、数秒して既読がついた。
 今何してた?と続けて質問されたので、空き時間に休憩してましたと送る。その後も数回やり取りをしてから、私はスマホをカバンにしまった。
 それから、私がホストクラブに行く日まで毎日、黒金さんはメッセージを送ってきた。
 約束を破られるかもしれないとまだ疑われてるのだろうか。疑問を抱きながらも返事をしたりしているうちに、当日がやってきた。
 玲奈は行くのかと聞けば、昨日行ったばかりでお金がないと断ってきた。
 行く約束をしたからにはきちんと守らないとだが、あの物騒な道を一人で歩くのかと思うと恐ろしかった。最初と同じ時間に店を訪れる。
 席に案内され、黒金さんを指名した。
 数秒もしないうちにやってきた黒金さんは、いつものキラキラ笑顔じゃなかった。どことなく引きつっている気がする。
「会いに来てくれて嬉しい!俺ずっと楽しみにしてたんだよね」
 テンションは普段通りなのに、黒金さんの目線はあさっての方向を見ていた。
 様子のおかしさに、私は怖々と話しかける。
 
「黒金さん?……虫でもいましたか?」
「え、あ、いや、ごめんね、違うよ……。マフラー!そうだ、マフラー。すっごいあったかくて、佳代ちゃんのおかげで風邪ひかなかったよ!ありがとう」
 
 畳まれたマフラーを、私は「お役に立てて良かったです」と言って受け取った。その瞬間、ぴとりと手が当たった。
 すぐに引っ込めようとした私の手を、何故か黒金さんは掴む。
 なんで?と困惑していると「……ちっちゃくてあったか」と黒金さんが呟いた。
 
「え?」
「え……あっ!ご、ごめんね、ち、違うんだ、ほら俺の手にすっぽり収まるなーって思って」
 
 すぐに私の手を離した黒金さんは、最初にあった時と同じ言葉を伝えてきた。違うところといえば、余裕がないところだろうか。でも、なんでこんなに焦っているのか私には分からない。
 
「黒金さん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だよ?」 
 
 私が様子を伺うと、黒金さんはまたあさっての方向を見た。
 絶対に大丈夫ではないが、まぁいいかと、私はメニュー表を手に取る。
 この前は色々迷惑をかけたので、ある程度高いお酒を買うつもりだ。もともと趣味という趣味もなかったので、貯金は結構溜まっていた。将来何かあった時用のやつだが、少しくらいなら使っても問題ない。
 色々なお酒を見ながら、私はうわぁ高いと思った。
 数万円から千万近くのものまである。
 値段がバクりすぎてるせいで、十万円が安く見えるほどだ。
 結局決めたのは数万円のものだった。これでも私には充分な金額なのだが。
 ちびちび味わって飲もうと決意する。
 
「あの、このお酒注文したいです」
 
 未だによく分からない場所を見ている黒金さんに声をかけると、私とメニュー表を交互に見て動かなくなった。
 
「頼むの?」
「はい……。ダメでしたか?あんまり高くないですけど、頼んだ方が黒金さんのためになりますよね?」
「え……俺のため?」
 
 口元に手を当て、ぶつぶつと喋り始めた黒金さんに、私は首を傾げる。
 黒金さんのためというか、この前のお詫びだ。
 ホストクラブで働いてる人からしたら、私の出す金額なんて腹の足しにもならないかもしれないけれど。
 変な行動をしていた黒金さんは、急に元に戻り、お酒を頼んだ。その後、小さな声で私に話しかけてきた。
 
「この前さ、アフター出来なかったじゃん?だから……今日やり直ししない?」
 
 黒金さんからの提案に、私は「え」と声を漏らした。
 黒金さんは早口で「お、俺が佳代ちゃんといたいなーって思って、楽しませるからさ」と言った。
 
 全然想定してなかった展開に、私は口を閉ざす。
 今日が終わったら、私はもうホストクラブに行かないつもりでいた。元から乗り気ではなかったし、やっぱり自分には向いてないとわかったから。
 玲奈の行動もとめられるとは思わないし。
 しばらくは傍観者でいるつもりだ。
 せっかくの誘いだが、私は「ごめんなさい」と断った。
 
「……え、あ……そっか、うん。いや、俺こそごめんね。急だったよね、予定とか、色々あるだろうし」
 
 空気が重くならないように話してくれる黒金さんに、私も合わせて、そうなんです、予定があってと誤魔化す。
 
「でも、ここにはまた来てくれるでしょ?」
 
 さっきまでこちらを見ようとしなかった黒金さんが、目を合わせ、聞いてきた。
 
「は、はい」
 
 私は嘘をつく。
 黒金さんはほっと息を吐き、顔をほころばせた。
 そのタイミングで、頼んでいたお酒が届いた。二人で飲みながら、会話をする。
 そうして数十分経った後、黒金さんが「ちょっと呼ばれたから行ってくるね」と言って席から離れた。
 残った私は、グラスに入っているお酒に口をつける。ちょっと疲れたなと伸びをしていると、別の男性がやってきた。
 黒金さんがいない間、一緒に喋りながら時間を過ごす。
 一番最初に来た時は、まともな返事を出来なかった私も、三回目になると、少しだけ会話術が上達した気がする。結構楽しく話していると、黒金さんが戻ってきた。
 
「佳代ちゃん……おまたせ」
 
 口数が少ない黒金さんに、何かありました?と尋ねる。
 
「……ううん。なんでもないよ、それよりずいぶん盛り上がってたけど、何話してたの?」
 
 作り笑いのような黒金さんの表情に違和感を感じながらも、好きなタイプとかについて話してましたと教える。
 
「好きなタイプ。佳代ちゃんの好きなタイプって?」
「えっと、私は、優しくて頭のいい人が好きです」
「……そっか、さっきの人との会話楽しかった?」
 
 脈絡のない質問だなと不思議に思いながらも、はいと答えた。
 その瞬間に、バシャッと音をたてて、黒金さんが持っていたグラスがひっくり返った。
 机に、黒金さんのズボンに、さらには私の方までも飛び散った。
 ギョッとして、ポケットから取り出したハンカチで、黒金さんのズボンを拭う。
 
「だ、大丈夫ですか?」
「……ごめんね、拭くもの持ってくるね」
 
 黒金さんはすぐに立ち上がって、スーツを着た従業員さんに何かを伝えていた。
 辺りを片付け終わり、再び話し始めた頃には、黒金さんはいつも通りに戻っていた。

 ***

 三回目のホストクラブから約一週間が経った。
 黒金さんは、会った次の日からメッセージを送ってくれている。
 一日目は、お酒をこぼしたことへの謝罪と、来てくれてありがとうという内容だったが、二日目からは、また会いたいというものになり、三日目からは、次はいつくる?と催促するものに変わった。
 いいカモと思われてるのだろうか。
 私は行く気がないので、のらりくらりとかわしているが、そろそろ断るレパートリーも尽きてきた。
 
 机に突っ伏している私の肩を誰かが叩いた。起き上がると、玲奈が何してるのーと顔を近づけてくる。
 
「ちょっと考えごとしてて……って、え、何その傷」
 
 玲奈の頬には、赤い引っ掻き傷のようなものがあった。
 
「これー?えっとー、猫に引っかかれちゃった」
 
 指で擦りながら玲奈は答えるが、どう見たって違う。猫のにしては、傷が広いし、一本しか切り込みがない。
 私は、カバンから傷薬と絆創膏を取り出して、手当した。
 
「絶対猫じゃないよね、本当はなんなの?」
「……なんか、パパ活で変なおじさんが襲ってきたから、怖くなって逃げたの、その時引っかかれて」
 
 私は大きくため息をついた。
 
「だから危ないって言ったじゃん!」
「で、でも――」
「ダメ、しばらくやめときな」
 
 食い気味に注意すると、玲奈は頭を下げた。
 私はポケットから、後で食べようと思っていたいちごのチョコを出して、玲奈に渡した。

 ***
 
 帰り道、本屋に寄っていた私は、カバンの中で振動しているスマホに、不吉な予感を感じた。
 取り出して確認すると、画面には玲奈の名前。
 数時間前に別れたばかりだが、一体なんの用だろう。
 店から出て通話に出ると、ズビズビと鼻をすする音が聞こえた。
 どうしたの!と大きな声で呼びかける。
 
「佳代ー、うっ、たすけて、なんかホストクラブ行く途中で、この前怪我させてきたおじさんにあっちゃって、ひっく、追いかけてきて……うっ」
 
 嗚咽を漏らしながら助けを求めてくる玲奈に、私はどこにいるの!と走りながら尋ねた。
 
「わ、わかんないっ……怖くて走ってるから、でも、さっきこの前待ち合わせしたコンビニがあった」
「すぐ向かうから」
 
 幸いなことに、本屋からコンビニまでは十分ちょっとで着く。家にそのまま帰らなくて良かったと思いながらひたすら走った。
 コンビニ付近につく頃には、口の中は鉄の味だった。
 電話は繋いだままにしているが、玲奈がテンパってるので、正確な位置が分からない。
 とりあえず色々な所を見て回り、辺りを探す。
 日はほぼ落ちていたが、街灯があるおかげで、見にくくはなかった。
 
「玲奈、今はどこ?」
「わ、わかんな、ひゃっ」
 
 スマホからガコンとけたたましい音がした。
 
「玲奈!大丈夫!」
「……う、うん、あ、画面割れちゃった」
「ちょっと!今それどころじゃないでしょ」
「ごめん……転んじゃっただけだから大丈夫、場所……暗くて、なんか狭いとこにいる。」
 暗くて狭い……?
 私のいる場所はこんなに明るいのに?
 一体どこにいるんだと体が震えた。
 
「え、どういうこと、もしかして路地裏とかにいる?」
「た、多分そうかも。追って来たから、隠れようと思ってそのまま入っちゃった」
「何やってんの!」
 
 怒鳴ると、玲奈はごめんなさいと謝った。
 私は玲奈のあやふやな情報を頼りに路地裏を見てまわった。
 それでも全然見つからなくて、どうしようと頭をかかえる。
 自分自身も焦っていて忘れてたが、警察に通報しなきゃと思いたった時、玲奈との電話がぶつりと切れた。
 
「……玲奈?」
 
 呼びかけるが返答はない。
 どうしようどうしようと、頭がこんがらがって、手元が震えた。
 深呼吸して、110と入力をする。
 警察に通報し終わってから、私は辺りを見回した。
 バクバクと心臓がうるさい。

 その時、遠くから叫び声が聞こえた気がした。
 本当に微かだったし、周りはうるさいから、空耳かもしれない。それでも私は、ゆっくりと声のする方に歩いていった。
 店の間の、暗い隙間、そこに入って、私は耳を済ませた。
 
「かよ――」

 私の名前をよぶ声が聞こえた。急いで向かう。
 近づくにつれ、声は大きくなり、それが玲奈のものであることに気づいた。
 しばらくして人の姿が見えて、奥に玲奈がへたりこんでるのが見えた。その前に、大きな背中も見える。
 私は、ゆっくりと近づいて、犯人の股間を蹴り上げた。
 犯人は、呻きながら倒れ込む。
 私の存在に気づいた玲奈は、私の名前を呼び、ドバっと涙を流した。
 
「か、佳代、あ、ありがとう」
「いいから、ほら、早く行くよ」
 
 私が立ち上がらせようとすると、玲奈は腰が抜けちゃったと言った。
 
「えぇ!ちょっと、何とか頑張って!」
「わ、わかってる」
 
 無理やり玲奈の腕を引っ張る。
 どうにかこうにか逃げる体制になった時には、犯人も回復していた。
 道を塞がれ、絶体絶命だった。
 犯人の男が、クソ野郎と呟きながら、拳を振り上げてきて、私は玲奈に覆いかぶさりうずくまった。
 ガンという衝撃が歯に響く。ピリッとした痛みが唇にはしった。頭がいたい。ぐわんぐわんと衝撃が響いてきて、目が回る。
 
「佳代!大丈夫?佳代!」
 
 隣で玲奈が名前を呼んでるが、それを気にしてる余裕はなかった。
 私は食いしばり、玲奈の手を取って、もう片方の手に持っていたバックを男にぶつけた。
 突然の私の行動に、男はよろめく。
 そのすきに全速力で出口に向かった。
 走って走って、周りがガヤガヤとした音に包まれた頃に、私たちは足を止めた。
 心臓の音がやけに早くて、でもそれが、生きてることを実感させた。
 安心してくると、頬の痛みが鮮明になってくる。
 玲奈は私の隣で、わんわん泣きながら、ひたすらごめんねと謝っていた。
 そういえば警察を呼んだのに、だいぶ移動してしまった。もう一度連絡しなきゃとスマホを取り出す。
 連絡しようとして顔を上げると、少し先に、見知った顔の人がいた。
 その人物がこちらに向かってくる。
 
「……佳代ちゃん?」

 目の前に来たのは黒金さんだった。
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