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第一部
幕間:九尾と黒猫
しおりを挟むクロは顔を上げ、神谷の枕元から窓の外を見て、鼻をひくひくとさせる。
――呼ばれている。
丸まっていた身体を起こし、腰を高く上げる。一本に見せていた尾をばさりと広げ、本来の姿に戻った。
穏やかに眠る神谷の寝顔に一度視線を向け、深い眠りであることを確認してから人の姿になった。
猫の姿ではドアノブが遠いからだ。
老人一人で済むには大きい家。二階建てだが、神谷自身の寝室は一階に移動した。もう彼自身は階段を上る元気がない。
近々、二階を掃除しなければ。
クロは階段を上りながら、ため息をつく。
人の老いは早い。クロと出会った時、神谷はまだ五歳だった。
階段を上がって左手にある、一番大きな部屋に入る。
彼女はこの部屋がお気に入りだ。
扉を開ける。窓が開け放たれ、カーテンが夜風に棚引いていた。
満月を仰ぐ女性の後ろ姿。カーテンと共に棚引く長く艶のある髪。
その頭部では張りのある耳がぴんと立つ
そして、彼女の身の丈以上もある金色の九尾が月夜に踊る。
「――様」
「ああ、久しいな、クロよ」
彼女は振り返り、妖艶にほほ笑んだ。
傾国の美女と呼ぶにふさわしい、計算されつくしたような表情。
クロは瞼を伏せ、嘆息する。
「――まだ、以前お会いしてから数カ月ほどしか経っておりませんよ」
「おや。ひとであれば、久しいと言える時間ではないか?」
「ああ。……それもそうですね」
おおげさに声を上げながら、彼女は美しい顔で童女のような微笑みを浮かべる。
確かに彼女の言う通りではあるので、クロは大人しく頷いた。
「さあ、赤子の相手で疲れただろう。わらわの妖力を分けてやろう」
そう言って彼女はクロに近寄り、金色の大きな尾はクロに包む。
夜の冷たいにおいに反し、温かいぬくもりは心地いい。
どれだけの時間経っただろう。数分とも、数時間ともわからない心地よさに、満たされるのを感じた。
「感謝いたします、母様」
「このような時にしか母と呼んでくれぬか」
「血の繋がりがありませぬので」
「悲しいのう……」
事実、血の繋がりはない。そもそも種族が違うのだ。
彼女はその事実を言われる度に悲しんでみせる。唯一にして、最大の厄災ゆえに。
「うむ――もうよいか」
尾が名残惜しそうに離れる。
彼女は、慈しみの色でクロを見た。人であるクロは、彼女より随分大きい。膨大な力をもつ彼女こそが童女のように見えるほど。
だが、尾に引けをとらないほど美しい金色の瞳が異質の証明。
「お前がここまで消耗するほどの妖力を渡すとは。此度の赤子は、あの時のひと粒か?」
「ええ、そのようです」
「そうか。ならば、その赤子もわらわの子だの」
「あの時の身ではありませんが――。あなたは、わかっておいででしたでしょう? 母様、あのものに何か与えませんでしたか」
「うむ。まんじゅうをひとつな。ふふ、わらわが身体を借りたあのものは狐につままれたような顔をしておったがの」
「そのままでございましょう。――母様のおかげで、この時までの時間稼ぎとなりました」
彼女の妖力を欠片程度でも身体に入れてなければ、今頃身近にいる人間たちは生きていなかったはずだ。
「わらわは必要以上の介入ができぬ。文字通り、これ以上は厄災となってしまうのでな」
彼女の妖力は時に毒となる。彼女に等しい厄災を生み出す可能性も否定はできない。
「あとは任せるぞ。――例の化け犬連れが、わらわのひと粒を狙っておるようだしの」
「はい。あとは我らが」
――そう、現状。猫又の存在を脅かす存在が迫っている。
「気をつけよ。お前もわらわのひと粒なのだから」
彼女の金が、闇夜に溶けた。
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